記憶喪失の彼女と約束・中編
「春、君の名前は咲野春というんだ」
あの後、看護婦さんのおかげで落ち着きを取り戻した春に、俺はまず、簡単な事から教える事にした。
「そう...春っていうんだ、私。ありがとう、元さん」
さん付けとか、何か違和感がすごいんだけどなぁ...。
まぁ、仕方ないのかな...。
「さん付けとかいいよ、同い年だし。呼び捨てでも何でもいいよ」
「...そう、それじゃ遠慮なく、これからよろしく、元君」
君付けも何となく違和感がぁ...。
まぁいいか。
とにかく、どうしよう、この状況。
まず、何をすべき何だろう。と思い、カウンセリング専門の先生に話を訊いた。
その先生は少し若い男の先生でパッと見二十代後半と言ったところのような容姿だった。
多分、看護婦にはモテているんだろうなと心中で感じつつ、本題を切り出した。
つい最近、救急搬送されてきた咲野春という女の子が記憶喪失になってしまって、自分はどうしたらいいのか分からない。という事をまず話した。
その話を聞いた先生は少し考え込んで、「その子の思い出の場所や好きな事をまずはさせてみろ」と言った。
好きな事。と聞いて思いついたのは、やはりゲームだった。
しかし、春の今の体でプレイは出来るのだろうか。
少し、不安である。
とにかく、春に話を通さなければ始まらない。
俺は先生に礼を言った後、春の病室へ直行した。
先生の部屋を出る時、後ろから「グッドラック」という言葉が聞こえたような気がした。
その言葉は今の俺にとってとてつもなくありがたいものだった。
✱
「ゲーム?」
春の病室に来た俺は軽く会話をした後、ゲーセンに行かないか。と誘ってみた。
案の定、分からないという顔をしていた。
「そう、ゲーム。記憶を失くす前の春はゲームが得意だったんだよ。やってみたら、何か思い出すかもしれない」
春は、少し黙り込んで。
「うん、確かにそうかもしれないね。出来るか分からないけどやってみる」
何とか、誘う事には成功したようだった。
「じゃあ、今週末に病院側の許可を貰って、行きつけのゲーセンに行こう」
「うん、分かった。楽しみにしとくね」
その時の春の笑顔は記憶を失くす前と変わらず、美しかった。
その笑顔を見た俺は少し安堵したのだった。
そして、約束の日。
俺は学校が終わるや否や、病院に直行し、受付で軽く許可を貰い、春を連れ出した。
病院側からの条件として、必ず傍に居てやれ、という事だった。
そんなのは言われなくても分かっていたし、俺達は、付き合い始めた日にある約束をしたのだ。
『ずっと傍に居る』
そんな、約束を。
歩いて、ゲーセンに向かう中、春が急に口を開いた。
「元君ってどうして私に色々してくれるの?」
思っていた通りの事を訊かれた。
というか、何れ訊かれる事は分かっていた。
俺は考える事もせず、「彼氏だからだよ」と即答した。
それを聞いた春はキョトンとしていた。
まぁ、それはそうだろう。
記憶を失くし、付き合っている事さえ忘れている。
「私達って付き合ってたんだ」
「ああ、そうだよ。それに...」
俺は次に言うはずだった言葉を飲み込んだ。
待てよ、付き合っている事さえ忘れているという事は、まさか、まさかな。
俺は嫌な予感がした。
もしも、約束の事を忘れていたとしたら。
俺はその事が脳裏から離れなかったが、怖くて訊く事が出来なかった。
暫くして、ゲーセンに到着した。
ここで、春を問いた。
「この場所を見て、何か思い出す事は無い?」
春は暫く考え込んで、「ごめんなさい、思い出せない」と応えた。
俺は、内心ショックを受けながら、早々、取り戻せる訳ない。と気持ちを切り替えた。
「とにかく、ゲームをしてみよう。何か思い出すかもしれない」
「そうだね」
そうして、まずやろうと言ったのはいつもプレイしていた、音ゲーだった。
春は少し戸惑っていたが、100円を投入したら目付きが記憶喪失になる前のゲームをする時の目付きになっていた。
俺はその春の姿を見て、少し驚いた。
記憶喪失の彼女は、ゲームに関しては忘れていないかのようにプレイ出来ている。
いつも通りという奴だった。
「あー、楽しかった」
「ゲームに関しては忘れてなかったのかな」
「どうだろう、分からないはずなのに何故か出来たって感じ。体が覚えているのかな」
その言葉を聞いて俺は、少しの希望を見いだした。
体が覚えているという事。
それは、頭の中の記憶に失くても、体に染み付いた癖のようなものだ。
この時はそれが只々、嬉しかった。
記憶ではないが、ある意味記憶があるという事が確認出来たのだ。これほどまでに嬉しいことはなかった。
それからというもの大体の頻度で春とゲーセンに行くようになった。
只々、楽しかった。
前のように、いや、前と同じように遊んでいた。
このままでもいいんじゃないかと思う自分がいた。
しかし、その自分を殺し、記憶を取り戻す事に精を出した。
でも、日に日に思う。
いつか、あの約束を覚えているのか、訊く必要があるのだ。
もしも、もしも、ゲームの事しか覚えていなかったら。つまり、身の回りのことをすべて忘れていたとしたら。
そう考えると、ゾッとする。
考えたくもなくなってしまう。
そして、その事を考えた日は決まって、眠りにつくことが出来なかった。
しかし、このままでは何も進めない。
前の春を取り戻すことは出来ない。
前に進まなくては、一日でも早く、記憶を取り戻さないといけない。
だから、訊くしかない。
次の日、俺は学校すらも休み、春と一日中話した。
そして、夕暮れが近づいた頃、俺は訊いた。
「なぁ、春。君は、俺と交わした、『約束』を覚えているかい?」
春は急な事で目を点にして少し固まっていた。
しばらくして、春は、「ごめんなさい、覚えていないや。とても大事な約束なのかもしれないけれど、思い出せないや」
そう言った。
俺はそれを聞いて、「そっか...」と小さく返事をして、病室を出た。
俺は走り出し、屋上へ向かい、屋上で泣いた。
泣き叫んだ。
確かに、予想していたことだし、忘れている方が当たり前なのは分かっていたが、泣かずにはいられなかった。
それからしばらく、泣き止むことは無かった。
赤ん坊のように泣き疲れて寝てしまった。
目を覚ました時には辺りはすっかり夜だった。
勢いよく立ち上がると、隣の方から、
「よぅ、木下」
そんな声が聞こえた。
横を見るとそこには、カウンセリングの先生である彼方先生が居た。
「ああ、先生。どうしたんですか?こんな夜に」
「お前が起きるのをずっと待ってたんだよ、お前の泣き叫ぶ声、丸聞こえだったぞ」
それは、それで恥ずかしい。
「ああ、それでな、木下。お前に伝えたいことがあるんだ」
「伝えたいこと?なんですか?」
「咲野の事だ。今日、あの日の事故の目撃者の人がここに来てな。新事実を教えてくれたんだ」
新事実?何だろうかそれは。
春は事故で頭を強く打って記憶を失くした。
それは揺るぎ用のない事実のはず。
「そう、そこなんだ。咲野は頭を打って記憶を失くした事になっているんだが、実際は、それはあんまり関与していないらしい」
「それ、どういう事ですか」
意味が分からなかった。
関与していないってどういう事だ。
「その目撃者には、車に轢かれる直前に咲野が呟いた言葉がしっかり聞こえたらしい」
「言葉?」
「まぁ、結論から言うと、咲野は故意に車に轢かれたんだと。つまり、自分から轢かれに行ったんだ。そして、咲野が直前に言った言葉はこうだ。木下」
『やっと死ねる、ごめんね元』
「...................」
その言葉を聞いて、俺は何も言えなかった。
あの子はまだ、死にたがっていたんだ。
かつて、あの子の自殺を止め、理由も聞き、約束までもしたのに。
未だに死にたがっていたなんて。
「先生、ありがとうございます。助かりました」
「お、おう、あんまり思い込みすぎんなよ」
俺は、先生の方を見ず、手を振り、その場を去った。
何も考えたくなくなった。
春はまた自殺をしようとしていたんだ。
それを考えるだけで涙が止まらない。
その日も眠りにつくことが出来なかった。
その日の夜は土砂降りだった。
まるで、俺の心の中のように。
あとがき
さて、物語の中編です。
ちなみに、次回が後編で最終回となり、後日談を書くか、書かないか、悩んでいます。
次回もよろしくお願いします。