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Execute.80:Telescope Lovers./揺れる蜃気楼《ミラージュ》③

 化粧室から姿を現したのは他でもない、日々谷警備保障・事務員の坂木みどりだった。戒斗にとっては、今一番逢いたくない一人である女だった。

 まさか、戒斗とてこんなところで、しかもよりにもよってみどりと出くわすだななんて想像もしていなかった。だからこそ戒斗はぬるっと出てきたみどりの姿を一目見た途端に素っ頓狂な声を上げそうになり、そして驚きのあまり口に含んでいた珈琲を「探偵物語」オープニング・シーンの松田優作が如く盛大に吹き出しそうになった始末だ。気合いだけで無理矢理に堪えたが、本当に吹き出す一歩手前だった。

(おいおいおい……!)

 まして、みどりが何気ない顔ですぐ傍を歩いて行くものだから、戒斗はすぐさま、しかし自然な風にみどりから視線を逸らした。そしてさりげなくみどりから顔を逸らし、深めに俯いて人相を誤魔化す。

 ――――落ち着け、クールになれ。気付かれるなよ、気付かれるワケにはいかない。

「……どうしたの、カイト?」

 青ざめた顔の戒斗が内心で必死に自分へと言い聞かせていれば、隣のエマは敏感に戒斗のただならぬ異変に気付き、控えめに抑えた声で耳打ちするみたいに声を掛けてくれる。

(……エマには、言わない方が良いだろうか?)

 一瞬だけ、戒斗は思い悩んだ。しかし出来る限り彼女に隠し事はしたくない。ここは敢えて話しておくべきだろうと思い、戒斗はそろりそろりとエマの耳元へと少しだけ顔を近づけると、やはり耳打ちするみたいな小声でこう言った。

「……最悪だ。会社の人間が、奥にいる」

「えっ?」

「まあ、いつも通りにしてれば、バレやしないと思うけどさ……」

 まるで初めての空挺降下(エアボーン)を控えた新兵みたいに青ざめた顔の戒斗が言う通り、事実としてみどりはこちらのことにまるで気が付いていない様子だった。戒斗とエマのすぐ後ろを素通りしていったみどりは、先程ステラが皿を下げていたあの席、即ち例の「新規客」だろうと目論んでいた奥の方にあるボックス席に戻ってしまっている。なんてこった、新規客は新規客でも、招かれざる客じゃないか。

 とはいえ、みどりは席に戻るなり山のような荷物をテキパキと纏め、伝票を手にし始めた。不幸中の幸いというのか、明らかに会計を済ませて退店する構えだ。

(なら、乗り切れるか?)

 大丈夫だ、バレやしない。普段みどりの前で演じている黒沢鉄男とは雰囲気から何もかもが違うはずだ。何せ意図的にガラリと変えて演じてきたのだから。大丈夫だ。……多分、きっと。そうであることを祈るしかない。

 なんてことを考えている内に、遂にみどりは席を立った。荷物と伝票を一緒に持って、すぐ傍にあるレジの前に立つ。戒斗との間に開いたその距離、僅か数メートルというほどの距離だ。

 緊迫のあまり、血の気が引いていくのが分かった。どんな潜入任務でも、どんなに派手で生還率の低い鉄火場の中でも、果たして自分はここまで青ざめたことがあっただろうか。それほどまでに戒斗は極度の緊張状態に陥っていた。未だ表面上だけでも冷静を保てているのは、ひとえにエージェントとしての長すぎる経験と、そして無数の修羅場を潜り抜けてきたが故のことだった。

「…………」

 そうしていると、戒斗の緊迫を機敏に感じ取ったエマはそっと、カウンターの下で右手を戒斗の左膝に添えてくれる。彼女の少しばかりひんやりとした体温と感触とをジーンズ越しに感じれば、限界ギリギリまで張り詰めていた緊張の糸は少しだけ緩んでくれた。

「すっみませーん、アップルパイのテイクアウトって出来ますか?」

 その間にも、みどりはレジで応対するステラにそんな申し出をしていた。本音を言えば、正直アップルパイなんて買わずにさっさと出て行って欲しい。

「はい。ピースとホール、どちらでも大丈夫ですよ」

「んじゃあ、ホールで一つお願いします」

「ありがとうございます。……お持ち帰りのお時間は、どれほど掛かりますでしょうか?」

「うむむ……一時間も掛からないとは思うんだけれど」

「畏まりました。それでは保冷剤を一緒にお入れしておきますので、ご利用ください」

 ホール……か。なるほど、みどりは二人の子供に食べさせる算段か。戒斗も前に聞いたことがあるが、みどりはあれでいて高校生と中学生、共に男子の息子が二人居るという。育ち盛りの男の子だ、食欲は半端じゃない。特に下の子の食欲が常軌を逸していると前にみどりが口走っていたのを、ふと戒斗はここに来て思い出した。

「…………」

 ステラが奥からアップルパイを丸々ホールで用意しているのを待つ間、戒斗は息を潜める……ということはしない。不自然なことは案外バレやすいもので、自然体で居ろというのが尾行なんかの定石だ。

 まして、あいてはあの坂木みどりだ。凄まじい洞察力の古郡保と同等クラスに鋭い瞬間がある事務員だけに、特に油断は出来ない。木を隠すには森の中ではないが、やはり自然体を貫き通すのが現状、取るべき最も適切な行動。戒斗はとにかく、今は自然体に徹した。

 そんなこんなでみどりは会計を済ませ、大荷物とアップルパイの箱を抱えて店を出て行く。カランコロンというベルの音が鳴り、表に出たみどりが店の目の前に停めた戒斗のシェルビーを食い入るように見ながら、やがて視界から消えていくのを――それをカウンターの向こうにあるガラス戸の反射で確認すると、戒斗はやっとこさ肩の力を抜くことが出来た。

「ふぅぅぅ……っ」

 ドッと緊張の糸がほつれると、凄まじく大きな溜息が漏れてしまう。脱力のあまりもたれ掛かりそうになるが、背もたれがないことを思い出し慌てて姿勢を持ち直すほどには緊迫した状況だった。

「なんとかセーフ……だと、思いたい」

 あくまで楽観的な、完全に希望的観測だ。もっと言うのであれば、みどりならば仮に気付いていたとしても、こちらの意図を汲んでくれそうな気がする。……そう思いたい。いや、それ以前にバレていないと思いたい。というか、バレないでいてくれ。

「大丈夫だよ、きっとバレてない」

 脱力していれば、戒斗の疲労と不安を悟ったエマはぎゅっと手を握ってくれる。明らかに自分よりも体温の低い、ひんやりとした白っぽく華奢な手を己の無骨な掌で握り返せば、蜃気楼みたく揺らいでいた心も何とか平常へと戻ってくる。

「……大丈夫さ、きっとな」

 そして、チラリと横目で見てそう言ってやれば。するとエマはやっとこさ、ぱぁっと花が咲いたみたいに柔らかく微笑んでくれた。

「というワケで、待たせちゃったわね二人とも」

 なんて頃にステラがグッド・タイミングにアップルパイの乗った皿を二人分、カウンター越しに差し出してくれる。

「カイト、アップルパイ食べよっ」

 とすれば、エマは出されたアップルパイの皿を見てにこにこと嬉しそうに微笑み。そしてチラリと一瞬だけ、戒斗の方にもその笑みを向けた。

「……そうだな、ありがたく頂くとしよう」

 太陽のような笑顔を向けられてしまえば、戒斗も小さな笑みを自然と返してしまい。そうしながら、二人揃って目の前のアップルパイに手を着けた。

「んー、おいしっ♪」

 今はただ、彼女に要らぬ心配をかけたくない。その一心があったからこそ、この超危機的な状況に勝てたのかもしれないと、戒斗は隣でアップルパイを頬張る嬉しそうなエマの横顔を見て思った。

「……! やるな、ステラ」

 自分もアップルパイを口に運べば、その確かな味わいに舌鼓を打つ。そうすればカウンター越しにステラはニッと満足げに笑い、

「何てたって、アタシの手作りだかんね」

 と、タダでさえドデカい胸を張り自慢げに言ってみせた。

「いやあ、お二人さんとも幸せそうですなあ」

 すると、奥から出てきた白井が戒斗たち二人を眺めながら、ニヤニヤとそんなことを口走る。

「俺もなあ、少しぐらいステラちゃんにこう、甘ーく……」

「はい、そこまで」

「うわらばっ!」

 軽々しい言葉の途中でステラに引っぱたかれ、白井がまたド派手に床へと沈む。そんな二人の相も変わらぬやり取りと、そして隣で楽しそうにするエマの横顔を眺めていれば、自然と戒斗は先程までの不安を忘れることが出来た。やはり、この「楽園」には不思議な雰囲気がある。当然、目の前の白井とステラの二人にもだ。

(……それにしても、今日はシェルビーで助かった)

 そんな二人と一人の様子を眺めながら、アップルパイを口に運びつつ。戒斗はふと、今日に限って気まぐれを起こしマスタング・シェルビーGT350に乗って来た自分をひどく褒めちぎっていた。

 駐車場にあったあの見覚えのある蒼いランエボⅩ、思い返せばみどりの車だ。もし仮にいつもと同じ真っ赤なWRX-S4で来ていたら、まず間違いなく不審がられていただろう。会社に乗っていったことのない車をチョイスして正解だったと、戒斗は心の底からそう思った。

「カイトっ」

「ん?」

「えへへ、何でもない♪」

「おいおい……」

 ――――まあでも、今はもうそんな過ぎてしまったこと、どうでもいい。

 今はただ、この柔らかな空気の中にただ浸っていたかった。隣で悪戯っぽく微笑む、彼女と共に…………。





 ……そしてその翌日、戒斗は密かにみどりの様子に不審さが無いかを執拗なまでに窺い。それを邪推したみどりの馬鹿騒ぎに巻き込まれた末に戒斗の疑念が木星まで吹き飛んでいったのは、まあ別の笑い話だ。

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