Execute.75:Telescope Lovers./茜色、暮れゆくある日のこと②
そうしてシャワーを浴びてサッと汗を流した後、私服に着替えた戒斗がエマに連れて来られたのは、セーフ・ハウスからそこそこ近場にあるとある一件のスーパー・マーケットだった。品揃えにそこそこのバリエーションがある店で、普通の品の他にも変わった奴や珍しい一品、そして輸入製品なんかも扱っている店だ。珍しい奴はちょっとばかし値段は張るが、戒斗の眼から見てもまあまあ良いモノを揃えている店だった。
戒斗はそのスーパーの広い駐車場の隅の方にWRX-S4を着けた。寒いし荷物も嵩張るから出来る限り店の近くに停めたい所だったが、しかしこのテのスーパーの駐車場はドアパンチが恐ろしい。横付けされた雑なおばちゃんのドアに折角のボディが傷付けられるのはどうにも我慢がならないので、敢えてこうして少し遠くの空いた一帯に停めたというワケだ。
エンジンを切り、車から降りた戒斗は助手席側に回り、ドアを開けエマの手を取りながら丁重に降ろしてやる。まるでどこぞの姫様か貴族のご令嬢みたいな扱いだが、しかし戒斗にとってエマはそれらに等しい、いやそれ以上に丁重に扱うべき唯一の女だった。
「うん、ありがとっ」
少しの手間だが、降りたエマが向けてくれる柔な笑みがあれば、そんな手間は厭わなくなってしまう。戒斗は表情を綻ばせながらドアを閉めキーロックを掛けると、彼女の手を取ってスーパーの店舗の方へと歩いて行った。
「なんだか、ちょっとしたデート気分だね」
寒い冬の北風が吹き付ける中、二人寄り添い歩いていると。するとエマが隣を歩く戒斗の顔をほんのちょっぴり見上げながら、何だか照れくさそうに言ってきた。
「ただの買い出しだろ?」と戒斗は肩を竦める。するとエマは「それでも、だよ」と身を寄らせ、
「僕はね、君と何処かに出かけられること自体が楽しいんだ。例えそれが、ちょっとしたことでも。それでも僕は、楽しくて幸せなんだ」
「……そうか」
エマがそう言うなら、そうなのだろう。戒斗だって彼女と何処かに出かけるのは満更じゃない。寧ろ楽しい部類だ。何というか、気兼ねないというか……気の置けない、とも少し違う気がする。どう例えたら良いのか戒斗自身も上手い喩え言葉が見つけられないのだが、とにかく彼女が、エマが隣を歩いているだけで妙に安らいでしまうのだ。
だからこそ、戒斗はただ小さく頷くだけの反応に留めていた。これ以上の言葉は、あまりに無粋だった。たかだか五十数文字の組み合わせではとても表現しきれない、伝えきれないことを、二人はあまりに知りすぎていた。言葉というものの無力さ、それ故の尊さすらをも。
「うう、それにしても寒いね……」
「今日は一段と冷え込むみたいだからな。天気予報だと雪まで降るらしいぜ?」
「ええっ? 寒いのは嫌だなあ……」
「同感だ」
そんな会話を交わしている内に、二人はスーパー・マーケットの二重になった自動ドアを潜った。独りでに開かれる扉を一枚潜るたびにふわぁっとした暖房の熱気が二人を包み込み、冷えた身体をほんの少しだけ暖めてくれる。
スーパー自体は平屋建てで、食料品以外はあまり扱わないといった感じだ。古き良きというか、造り自体は昔ながらの趣と言えよう。出入り口の自動ドアを潜ってすぐに、食料品が陳列される冷蔵の陳列棚が所狭しと並んでいる光景が視界に飛び込んでくる。
とりあえず店に入るなり、戒斗は傍にズラッと配置されていたショッピングカートを引っ張り出した。ついでに買い物カゴも放り込むと、「カイト、はやくっ!」と先に行ってしまったエマに急かされながら、カゴ入りのカートを引いて彼女の後に着いていく。
「今日は夕ご飯、どうしよっか?」
「寒いからな……暖かいのだと嬉しい」
「うーん……じゃあ鍋とか?」
「鍋?」
「うん、鍋。前にカイトにやり方教えて貰ったし、暖かいから良いかなって」
なるほど、確かに良いかもしれない。冬といえば鍋、鍋といえば冬。今この季節に鍋をやらずしていつやるのか。エマにしては随分と日本人的な発想な気もするが、悪くない。彼女もこっちでの暮らしが長く、段々と思考も染まってきたということなのだろうか。
どちらにせよ、鍋という提案はベストとも思えた。うんうんと独りで頷きながら「アリだな」と戒斗が意見に同意してやれば、エマは「じゃあ、決まりだねっ」と言って食材をザッと頭に思い浮かべながらスーパーの中を歩いて行く。戒斗はその横をショッピングカートを引いて着いて行った。
「鍋だったら、必要なものはお豆腐に白菜と……」
「出汁用の昆布なら、まだストックはそこそこあるはずだ」
「それ、ホントに?」
「……そういう言い方されると、俺も自信なくなってくるんだが」
「折角鍋の用意して、肝心の出汁が無いって寂しいし。だからさカイト、折角だし昆布も買っていこうよっ。沢山あって困る物でもないし……ね?」
立ち止まり、小さく腰を折る仕草なんかしつつ、エマは戒斗に小さくウィンクを投げてくる。きらきらとしたアイオライトより透き通った蒼の瞳に凝視されてしまうと、戒斗は「……分かったよ」といとも簡単に折れてしまった。全く、どうしてか本当にこの眼には弱い。
「じゃあ、買うものは大まかに決まりかな♪」
とまあこんな具合で買い物は進んでいき、戒斗の引くショッピングカートの上に乗った買い物カゴには、次第にネギやら白菜やら、少量の鶏のもも肉に刻み用のお徳用ネギ、そして鍋に突っ込んで茹でる為の少しお高い高級ネギ(といっても、今日はやたらと安値だった)とかが次々と二人の手で放り込まれ。空っぽだったはずの買い物カゴは、あれよあれよという間に一杯になってしまった。
「あ」
そんなこんなで鍋用の買い物は一通り終わり、後は洗剤やら必要と思えるものを順次ピックアップして買い物カゴ(ショッピングカートの下側に放り込んだ二つ目のカゴ)に放り込んでいた時だった。エマが冷蔵の陳列棚の中に何かを見つけると、その前で立ち止まったのは。
「何か良いモノでもあったのか?」
戒斗もまた立ち止まり、エマの隣まで数歩後ろに戻る。彼女が立ち止まっていたのは、何やら輸入品のチーズが所狭しと並べられている辺りだった。
「輸入品か」
「うん」エマは頷いて、適当な辺りの物を無造作に掴み取り、それを戒斗へと見せてきた。
「フランス産のチーズが一杯置いてあったから、何か懐かしくなっちゃって」
なるほど、それならばエマが興味を惹かれるのも納得というものだ。確かにエマが取って見せてくれた物も、それ以外の陳列棚に並ぶ連中も。どれもがフランス語の記された輸入品のチーズ製品ばかりだ。
先の大戦の名将、シャルル・ド・ゴールの言葉でこんな言葉がある。「二四六種ものチーズを持つ国を、どうやって治めるというのかね?」。そして英国ウィンストン・チャーチル首相の言葉でもこんなものがあった。「四〇〇種類ものチーズを想像した民族が、滅亡することはあるまい」。エマ・アジャーニの母国であるフランスという国は、それほどまでのチーズ大国なのだ。
一人当たりの年間消費量はおよそ二六キロとも云われていて、世界で二番目。そして種類だけで云えば世界一の豊富さを誇るフランス産のチーズ。当然、目の前の陳列棚に並べられている物のバリエーションも目眩がするほどの量だ。
例えば、エマが今手にしているものはカマンベールという種類の物だ。正確に言えば"カマンベール・ド・ノルマンディー"。表面に自然由来のカビが張り付いた牛乳ベースのチーズで、日本でも知名度の高い物だ。中でもエマの持っている品はEU諸国共通の品質保証表示、AOPのラベルが貼り付けられているから、フランス国家そのものに認められた正真正銘のカマンベール・ド・ノルマンディーのチーズということになる。
他にも、スペインに近いピレネー山脈辺りが発祥の、羊乳ベースの"オッソー・イラティ"。オーヴェルニュ地方の代表的とも云える"サレール"。他には地中海方面の、カマンベールと同じく自然由来のカビが生えた(と、いってもこちらはヤギ乳ベースだが)の"バノン"や、他にも多種多様な物がズラリと陳列棚に顔を揃えていた。輸入品だけあって多少お値段の方は張るが、どれも一級品なのは戒斗の眼から見てもよく分かる。
「懐かしいな……よく使ってたっけ、この辺りとか」
うわぁっ、なんて声を漏らしながら懐かしそうに次々と手に取っていくエマのすぐ傍に隣立ち、一緒になって眺めていると。何故だか戒斗の方まで楽しくなって来てしまった。こうしていると、フランスでエマと出逢ったばかりの頃を思い出す。
「離れてから、随分経つからね。でも変わってないなぁ、当たり前だけどさ」
えへへ、とエマに微かな笑顔を向けられ、戒斗もフッと小さく笑い返し。そうしながら、戒斗はそんな彼女に向けて小さく囁きかけた。
「……寂しくないか?」
「えっ?」
「俺に付き合って、此処まで来て。……寂しくは、無いのかって。何となくそう思っただけだ」
「……全く寂しくない、って言ったら嘘になるかな」
エマは戒斗の方に半歩だけ近寄りながら、囁くみたいな小声で戒斗の言葉にほんの少しだけ頷く。
「確かに、友達とかは居た。でも、残ってても僕には何も無いから。寂しいけれど、あの国にはもう、僕の居場所はなくなってしまったんだ」
「エマ……」
「でも、大丈夫。僕は今が幸せだから。色々あったけれど、僕はまた居場所を見つけた」
「居場所?」
思わず戒斗が訊き返すと、うん、とエマが微笑みとともに頷いた。
「君の居る場所が、僕にとっての居場所なんだよ?」
「……そうか」
その言葉を聞いて、戒斗は少しだけ安心した。思わず胸を撫で下ろすぐらいには、戒斗は深々とした安堵に包まれていた。
――――そうした時だった。
「ん……?」
背中に、張り付くような視線を感じる。誰かがじっとこちらを凝視しているのが一瞬にして分かった。数多の修羅場を潜り抜けてきたことで鍛え上げられた戒斗の狼じみて研ぎ澄まされた第六感が、誰かの強烈な視線が突き刺さっていることを告げている。
(……尾行か?)
まさか、と戒斗は訝しんだ。今更になって尾行を仕掛けられるような覚えはない。浅倉と暁斗みたいな極一部の例外を除き、敵対する人間で戒斗の顔を見た者、A-9200だと知る者は全員もうこの世に居ないはずだ。エマの身の安全を考え、口封じはありとあらゆる意味で徹底してきたつもりだ。
(日々谷の関係者か?)
その可能性が、最も確率としては高いと戒斗は踏んだ。別の尾行である可能性も捨てきれないが、しかし今の戒斗に眼を付けるなど、やはり一番可能性として考えられるのは日々谷警備保障の関係者だ。
だとすれば、場合によっては消さねばならないか――――。
例え向こうに敵意が無いとしても、今の段階で戒斗の素性を知られるワケにはいかない。エマのことを知られるワケにはいかない。日々谷の連中は多少の信用は置いているといえ、絶対的な信頼までは置いていない。情報が漏れるリスクを鑑みれば、状況によりけりだが目撃者を闇へ葬らねばならないだろう……。
「…………」
この内心をエマに悟られぬよう、そして後ろの誰かにも悟られぬよう。戒斗は左手でエマの腰を取ってすぐ傍まで抱き寄せる。
「あっ、カイト……?」
とすれば、エマは少しだけ戸惑った様子で戒斗の方を見上げてきた。それに戒斗が薄い笑みで返してやると、エマは「えへへ……」と照れくさそうに笑い返してくれる。
――――大丈夫だ、気付かれてはいない。
人一倍戒斗の機微に敏感な彼女に異変を気付かれていないのならば、後ろの奴にも気付かれてはいない。戒斗には自信があった。
そうしてエマの身体を腰から抱き寄せながら、右手はさりげなく右腰の辺りの感触を確かめる。下に履くジーンズの腰、裏側にインサイド・ホルスターで隠したグロック26の感触をそっと確かめた。
(薬室には未装填、振り向きながら抜いてスライドを引き、構えるまでコンマ数秒といったところか……。弾は9mmパラベラムのJHP、弾倉には十二発が装填済み。フェデラルの一級品だ、不発は起こりにくい……)
頭の中で現状の状況を整理しつつ、気配だけで視線の位置を探りながら、迎撃状況を頭の中でザッと素早くシミュレーションする。エマを庇いながら動けば、最悪は敵の発砲が早かったとして、自分の身体が多少の盾にはなるはずだ。角度と弾次第だが、徹甲弾頭の大口径ライフル弾でも持ってこない限りは、早々エマまでは貫通しないだろうポジションと姿勢を咄嗟に想定する。
表面上はエマと寄り添いながらの品定めをしつつ、戒斗はその裏で神経を限界ギリギリまで張り詰めさせていた。それこそ、一秒一秒が永遠にまで引き延ばされたと錯覚されるぐらいには強く、強く。此処までの気合いを入れることなんて、エージェントとして現役だった時代でも早々は無かった。
だが、戒斗の心配は杞憂に終わった。視線はスッと去って行くと、それ以降二度と現れなかった。きっとたまたま自分たちが眼に留まったか、或いは本当に日々谷の関係者だったとして、雰囲気がよく似てるなー程度で収まってくれたのか。出来れば後者でないことを祈りたかったが、しかし戒斗にはバレない自信があった。何せ黒沢鉄男を演じる時は割と気合いを入れて雰囲気を変えている。今の素の物とはまるで違うはずだ。というか、「全然違うね」とエマも前に太鼓判を押してくれている。
「折角だし、それも買ってくか」
「いいの?」
「良いの良いの、これも何かの縁って奴かもしれんさ」
そうしてエマには平静を装いつつ、戒斗は内心で胸を大きく撫で下ろし。そうしながら、エマに彼女が手に持っていたカマンベール・ド・ノルマンディーのチーズを一個、買い物カゴに放り込ませた。
「うーん、そろそろ買うものは無いかな?」
「後はポン酢だ、ポン酢。折角の鍋に、アレ無いと話にならん」
「あ、そうだったね。忘れてたよ」
とまあ、そんなこんなで追加の買い物をしつつ、結局その後は何事も無く二人は買い物を終え家路に就くことになった。
だがこの翌日、日々谷の事務所でやたらと事務員の坂木みどりから穴が開くぐらいの視線を朝っぱらから注がれたこと。そしてそれを訝しんだ戒斗のじとーっとした視線とが正面衝突して、結局よく分からないままに終わること。これはまた別の話で、そして完全な笑い話だ。




