Execute.68:Monster without a Name./名前のない怪物
安藤葉月が寄越してくれた浅倉と暁斗に関する情報資料は、予想よりも遙かに有益なものだった。
クリムゾン・クロウが戒斗単独の手によって殲滅させられた後、浅倉は自分の子飼いだった戦部暁斗を初めとした難を逃れた幾らかのクリムゾン・クロウ人員を連れ出奔。中小規模ながら自らの手で新たな犯罪組織を構築するに至っているという。これといった名前のない組織で、自身は大きな規模を持たず、複数の大型組織の間を渡り歩く……謂わば、傭兵やフリーランスのような立場を取っているとのことだ。
その組織の取引相手の一人が、香港で殺したあのリー・シャオロンだった。元々は北米で麻薬シンジケートを築き上げていたあの男をそそのかし、古巣である香港で紅頭なんてヤクザを興させたのも浅倉によるものだそうだ。他にも様々な組織に関与している疑いがあり、中にはアメリカに拠点を置く国際的な巨大犯罪シンジケート"スタビリティ"の名も挙げられていた。裏稼業でその名を知らぬものはモグリとされるほどの巨大組織とですら、浅倉は対等な関係を構築していたのだ。
業務は荒事の他、武器密輸や要人警護など多岐に渡るとのことだ。詳しい実態は不明なものの、クリムゾン・クロウ時代からの腕利きが多数引き抜かれているだけあって実力は厄介極まりないらしい。中には見覚えのある少年みたいな男の姿もあった。麻生隆二。刈り上げた白髪で見た目はあどけない少年のよう。しかし両腕は義腕で両眼は義眼、いずれも戦闘用の高性能なものという奴だ。大したことの無い奴だが、面倒な相手であることには変わりない。
勿論、こんな資料を寄越されたからには、戒斗は例の警備会社――――日々谷警備保障への入社を了承したということになる。中には幾らかの条件を互いに提示し、結果として何歩かの譲歩の末に取り付けた取引条件はこんな具合だった。
――戦部戒斗としてでなく、黒沢鉄男として入社すること。また、自身の素性は社長を含め全員に秘匿すること。
――エマ・アジャーニの身の安全の保証、及び最悪の事態の際には彼女を全力で逃がすこと。これに関しては香華の方が西園寺財閥で請け負ってくれることになった。
――業務以外への完全非干渉。
――浅倉一派の追跡と排除が最優先。この事項の阻害、及び自身かエマのどちらかが社員に危害が加えられる恐れがあった場合は、日々谷警備保障の全員を抹殺することの了承。
大雑把に言えば、取引した内容はこんな所だ。これらに背かない限りは、戒斗は黒沢鉄男のまま日々谷警備保障に協力し続ける。また、浅倉一派の殲滅と二人の復讐が完了した時点で、任意のタイミングで戒斗は日々谷を離脱出来ることとなっている。また黒沢鉄男の経歴の方は、護身術の経験がどうのこうのという形で戒斗の戦闘経験は誤魔化すことにした。多少無理がある設定だが、まあある程度セーブしておけば何とかなるだろう。
何にせよ、最終的には戒斗にとってもエマにとっても、悪い取引ではなかった。何より浅倉一派の動きに関して強力な情報網が構築出来たことが大きい。これならばいずれ、奴らの尻尾を押さえ込むことが出来るだろう。復讐を終える日が近いことは、戒斗とエマの二人が共通して感じていることだった…………。
「……行くんだね」
そして、出社当日の朝。黒いスーツの上から、フードにファーの付いた灰色のジャケットを羽織るといった格好で玄関に戒斗を見送るように立ち尽くすエマが、何処か不安げな顔でボソリとそう呟いた。
「大丈夫だよ、エマ」
不安そうなエマに向けて、戒斗は敢えて小さな笑みを向けながら言ってやる。
「俺なら大丈夫だ。少しは君に心配を掛けてしまうけれど、それでも必ず君の元へ帰る」
「……約束、してくれる?」
「ああ、約束だ」
戒斗はエマの頬へ掌を触れさせ、そしてフッと軽く唇を重ね合わせる。互いが暫しの別れを惜しむかのように、互いを互いに刻みつけるように深いキスを交わす。
「……行ってらっしゃい、カイト」
そして唇が離れれば、エマは再び見送ってくれる。今度は、柔らかな笑顔を差し出して。
「じゃあエマ、行ってくる」
戒斗は振り返りざまに儚い笑みを最後に向けると、玄関扉を潜り外へと踏み出す。冬の残滓の残る少しだけ肌寒い風が、戒斗の頬を軽く撫でた。
一歩踏み出す度に、男は姿を変えていく。戦部戒斗という己から、黒沢鉄男という仮面を被って。己が罪そのものにも似た仮面を被れば、何もかもを忘れられるような気がした。愛していた者でさえも、何もかもを……。
「――――えー、今日はね、新入社員を紹介するよ」
そして、日々谷警備保障の本社ビル・二階事務所。社長の日々谷小百合に連れられる形で、戒斗は社員の面々の前へと姿を現した。
ズラリと並んで戒斗の顔を興味津々といった視線で、何人もの社員が上から下までジロジロと眺めてくる。その中には事務員の坂木みどりや、既にこの時には居た寒田禅と兎塚二郎の姿もあった。
加えて、少し早い入社の新入社員という形で畑貴士も混ざっている。この時はまだ、戒斗は彼の正体がアインであることは知らなかった。それと同時に、貴士もまた彼が戒斗であることを知らない……。
「葉月さんの紹介でこのたび入社することになった、黒沢鉄男くんです。実力の方は折り紙付きだから、皆仲良くしてあげてねー」
社長がそうやって宣言すると、「よろしくお願いします、鉄男さん」と真っ先に礼儀正しい挨拶を禅がして。そして次に兎塚が「よろしくうさうさ」と間の抜けた挨拶を。続けてみどりが「こりゃまったイイ男が入ってきたねえ、捗るよ捗るグヘヘヘヘ」と背筋の凍る笑い声と共に意味不明なことを口走る。
そして、問題の貴士の方といえば。
「うーん……」
「どうしたの、貴士くん?」
戒斗の顔をじろじろと不審げに眺める貴士の反応を気掛かりに思った社長が訊くと、すると貴士は「いやね社長」と言い、
「なーんかコイツ、どっかで見たような気がするんスよねえ……」
「気のせいじゃないかしら。貴士くんと黒沢くんが逢う機会なんて、多分無いと思うわよ」
「ですよねえ……。他人の空似か」
それが他人の空似でないことを。嘗て香港国際空港で別れた二人であることを、今は鉄男も貴士も、戒斗もアインも互いに知らぬことだった。
「まあまあ、そういうことで。それじゃあ黒沢くん、一丁挨拶でもよろしく」
社長に促されるがまま、戒斗は一歩前に踏み出た。そしてこほん、と軽く咳払いをし、少し無理に若々しく見せた顔と声で、飄々とした態度で告げてみせる。嘗ての師を真似たような口調で、黒沢鉄男の仮面を演じて。
「――――あー、黒沢鉄男でごぜーます。皆様以後お見知りおきを、ってね」
――――What your color? お前の色は、一体何色なんだ?
問いの答えは誰にも分からない。他ならぬ戒斗ですらも、己の色を見失う。戦部戒斗としての己と黒沢鉄男としての己、二つの相反する自分に板挟みになり、こうして彼は己の色を見失った。黒沢鉄男が生まれ落ちた瞬間に、戦部戒斗はその狭間へと墜ちていったのだ。
だが、ひとつだけ言えることがある。この瞬間に生まれたのは、己の名前すらをも見失った歪な怪物だと。内に燃えるふつふつとした復讐心に突き動かされる、そんな――――名前のない怪物であると。
(『名前のない怪物』完)




