Execute.61:溢れる想いをぎゅっと手のひらの中に詰め込んで②
そして十数分後に戒斗は浴室から出て、今度はカーゴパンツに黒いTシャツといったラフな出で立ちになり。しかしシャワーから出てもまだエマはキッチンでチョコレート作りに勤しんでいたので、窓際にあるソファへ腰掛けるとテーブルに置きっ放しだった読みかけの本を手に取ることにした。エマ曰く「バレンタインのキッチンは女の子の聖域」。即ち男子禁制ということらしいので、大人しくその例に倣おうというワケだ。
「ふふっ……♪」
時折聞こえてくる楽しげなエマの微笑む声を片耳に聴きながら、戒斗が本日読み耽る本は「野獣死すべし」。戒斗が日本唯一と称する故・大藪春彦氏が1958年に発表した、氏の処女作でもあるハードボイルド小説だ。戦後の大陸帰りという氏の壮絶な半生を刻みつけるように描き、そしてそれでいてクールで冷酷、しかし何処か情緒的な主人公・伊達邦彦の魅力がたまらない一作。以降の作品にはあまり見られないようなきめ細やかで繊細な、何処か湿っぽいような描写も見られる。氏の最初にして最高の作品の一つであり、そして戒斗にとっても至極お気に入りの一冊だ。何度読んだかも分からないが、それでも何度でも読みたくなる。
勿論、半世紀以上前の作品だけに古さは否めない。使う拳銃がコルト・ハンツマンなんて渋い代物であったり、まだ日本にアメ車が鬼のように溢れていたり。しかしそれでも伊達邦彦という男の筆舌に尽くしがたい魅力、そして氏の特徴でもある的確すぎる銃器や車の描写などの強烈な魅力は、半世紀を経た今でもなお色褪せてはいない。これ程までに鬼気迫る文章で、それでいてクールながら何処かマニアックな作品を書ける人間が、果たしてこの後の日本に生まれるかどうか……。
そんな思いを巡らせながら、戒斗はペラリペラリと指先でページを繰る。ページを繰る音と感触、そして紙の匂いと確かな重み。やはり本は、紙の本で読むのが一番だ。電子書籍では味気ない……。嘗て師たるリサが言っていたことが、今更になって理解出来てしまう。何せ戒斗の読書習慣自体、半ば彼女の影響のようなものだった。
これだって、元はこのセーフ・ハウスにあったリサの蔵書の一つだ。この家には武器弾薬などの仕事道具や、ギターや映画のDVD、古今東西のゲーム機なんかの趣味のあれこれ以外にも、そんな紙の本が鬼のように蓄積されている。この家にある分を読み切るまでに一体どれだけの時間を費やすことになるのか。それは戒斗にだって計り知れないことだ。
「よーし、後はこれをこうして……」
と、そうしていればキッチンの方からエマの独り言が聞こえてくる。どうやら完成は間近みたいだ。戒斗は小さく頬を綻ばせてみたりもしつつ、彼女お手製のチョコレートの完成を待ち望む。昼下がりの柔らかい日差しの差し込む窓際で、ソファに座りながらペラリペラリと紙の本を捲りながら。そうして物語の世界の奥深くへと潜り込み、頭の片隅では嘗ての師のことを追想しつつ。そうして戒斗は、穏やかで幸せな、ありふれた一日の昼下がりを暫しの間、贅沢すぎるほどに堪能することにした。




