Execute.47:Again/明日への誓い②
やがて三人を乗せたポルシェ・911カレラが辿り着いたのは、ヴィクトリア・ピークと呼ばれる山の山頂付近にある人気の無い場所だった。
ヴィクトリア・ピーク、香港でも屈指の展望が約束される最高の場所として古くから有名な一帯だ。遠くに香港の煌びやかな夜景を望みながら911カレラは停まり、そしてヘッドライトの明かりだけがある暗い一帯で三人は降りていた。
「……ありがとう」
911カレラの鼻先に座り込んでもたれ掛かるアインが、真新しい生傷を軽く手当してくれたエマに小さく、掠れた声で礼を言う。するとエマは柔らかな微笑みを向けて彼の傍から立ち去っていく。
「ほら、忘れ物だぞ」
するとその直後、アインの目の前に何かが投げ込まれてきた。虚ろな瞳を動かしてそちらの方を見ると、地面に転がるそれは自分の日本刀と、そしてモデル586リヴォルヴァー拳銃だった。
「……これは」
「俺が持ってても仕方ない。見せびらかす相手は俺じゃなく、さっき言ってたヒーローとやらにすると良い」
と、項垂れるアインの隣に並び立ちながら戒斗が彼の方を見ないままに言う。視線を香港の夜景の方に向けている彼もまた、エマに手当をして貰っていて。特にアインとの頭突きで傷を負った額には白い包帯が巻かれていた。
「煙草」
そうしていると、戒斗がアインの方に煙草の箱を差し出してくる。「吸うか?」
「……一応訊いておくが、銘柄は」
「ラッキー・ストライク」
「頂こう、大好物だ……」
紙箱から取り出したラッキー・ストライクの煙草を一本咥えさせてやり、リサの遺品のジッポーで先端に火を付ける。チリチリと煙草が焦げ始めると、戒斗にとっては何処か昔懐かしい紫煙の香りが漂い始めた。
「香港の夜景、ホントに綺麗だな」
ラッキー・ストライクを吹かしながら、遠くに見える夜景をぼうっと眺めるアインがうわ言みたいに口走る。
「ああ」戒斗も口寂しさでマッチ棒を咥え、彼の隣に立ちながら頷いた。「世界一だ、いつ見ても香港の夜景は美しい」
「でも、この美しさも上辺だけなのかもしれない」
煙草を吹かしながら、遠くに見える百万ドルとも例えられる夜景を眺めながら。アインは独り、何処か物哀しげな顔で呟き続ける。
「紅頭みたいな連中や、マスターみたいな人間が居て。そして俺みたいな空っぽの奴や、アンタみたいな得体の知れない手合いが居て。そんな連中ばかりが蠢くこの街は、どれだけ美しくったってそれは上辺だけだ」
「そんなの、何処でも同じだ」と、戒斗。「東京も、L.Aも、パリだってロンドンだって。そこに人が居る限り、俺たちのような人種は何処かしらで息を殺して潜んでる」
「俺、これからどうなるのかな」
「多分、もう君は自由なんだと思うよ」
ぼうっと煙草を吹かすアインの言葉に答えたのは、戒斗ではなく。彼の隣に立つ金髪の少女、エマだった。
「自由、か……」
「リー・シャオロンはもう死んだ。お前を縛り付ける人間はもう、誰も居ない」
戒斗は言った。しかしアインは物哀しげな顔のままで「自由って、何なんだろうな」と呟く。
「俺は、ずっとマスターの人形として生きてきた。孤児院に居た頃の記憶はあまりない。ただ俺はマスターに命令されるがままに殺して、殺して、殺し尽くして……。
そんな人間が、今更自由を享受出来るとは思えないんだ。というより、自由って何なのかが分からない。例え今の俺がもう自由の身だとして、俺は何をしたら良いのか。何を糧に生きれば良いのか、それすら分からないんだ」
「……過去のことは、忘れた方がいい」
エマが言うが、しかし戒斗が「いやエマ、それは違うよ」と首を横に振ってやんわりと否定する。
「どうしたって、忘れようとしたって過去は纏わり付いてくる。……エマ、それにアイン。俺たちはな、それを背負って生きていくしかないんだ」
「それを背負って、か……」
戒斗の右手に自分の左手を重ねながら、エマが噛み締めるように反芻した。
「……出来るのかな、俺に」
「出来るさ」アインの方をチラリと横目で見下ろしながら、戒斗が微かな笑みとともに頷く。
「俺は何もかもを失った。家族も兄弟も、友達も、戦友も。親代わりだった師匠も、そして確かに愛してた女だって失って、それでも俺はまだ生きている。それでも俺はまだ、ここにいる。
……アイン、それが何故だか分かるか?」
アインは小さく首を横に振る。煙草の先から燃え尽きた灰を落としながら、分からないと首を横に振る。
「これ以上、失いたくないからだ」
「これ以上、失いたくない……?」
「ああ」頷く戒斗。「俺は何もかもを失ってきた。でも、その先で得るものもあった。俺はそれを……失いたくない。ただそれだけだ」
戒斗は自分が無意識の内にエマの手を強く握り返していることにも気付かぬまま、まるでその言葉は自分自身に言い聞かせているようでもあった。彼の気持ちを汲み取ってエマがその手を握り返すと、小刻みに震えていた手の震えも少しだけ収まってくる。
「だから、アンタは過去を背負って生きていけるのか?」
「生きていけるさ、人間なら。生きていけるさ、生きている限りは」
ふぅ、と二人は揃って息をつく。戒斗の吐息と、アインの紫煙混じりの吐息が混じり合い、そして香港の夜景の中に消えていく。
「……なあ、アイン」
そうして暫くの無言の後、口を開いたのは戒斗の方からだった。
「お前、神を信じるか?」
「生憎と、信心深い方じゃない」と、短くなってきた煙草を吹かしながらアイン。「それに、神を信じてる余裕もなかった」
「俺もだ、俺にも信じる神はいない」
その後で戒斗は「けれど、俺は神を信じるよ」と言って、
「俺たち人間こそが、神なんだ」
「人間こそが、神……」
反芻するみたいなアインに「ああ」と戒斗は頷く。
「人間は運命を操ることが出来る。自分の運命は、自分の行く先は自分で決められる。つまり、俺たち人間こそが何よりの神なんだ」
「運命を支配できる……か」
ふぅ、と紫煙混じりの息をついて、アインは遠くの夜景を見据えながら言った。
「でも、運命は時に思い通りにならないことがある」
すると、戒斗は彼の方に横目の視線を向けながらニッと小さく笑い、
「そん時はそん時。後のことは出たとこ勝負さ。……だろ?」
そう、あまりに投げやりなことを言ってみた。
くっくっくっと笑い出すアイン。それに釣られて戒斗までもが笑い出す。
「俺たちは此処で消える。後のことは自由だ、アイン」
そうすると、戒斗は言いながらポルシェ・911カレラの助手席の方へとエマを連れて離れていく。アインはそんな彼の方に振り返って、
「俺、生きられるのかな」
そう、問いかけた。
「俺、生きていてもいいのかな」
「生きられるさ」と、エマを助手席に乗せながら戒斗が言う。
「明日が来る限り、お前は生きられる」
戒斗は運転席へと乗り込み、911カレラのエンジンに火を入れた。六気筒ボクサー・エンジンの唸り声が深夜のヴィクトリア・ピークに、そして香港の夜景の中に木霊する。
「また、何処かで逢えるか?」
バックして911カレラが向きを変えると、アインが振り返りながら呼びかける。
「逢えるさ、明日を生きる限り。いつか何処かで、互いに運があればまた逢える」
そんな彼の言葉に、窓枠に腕を預けながら戒斗が返した。マッチ棒を咥えた口の中に、小さな笑みを残し。
「……アンタの名前は!?」
立ち去ろうとする911カレラに向け、アインが叫んだ。すると窓から顔を出した戒斗が、こう叫び返す。
「名乗る名はない。――――強いて言うなら、マークとでも言っておく!」
そう叫んで、そして戒斗は最後にアインへニッと笑みを向けてやると。すると隣のエマに「帰ろう、俺たちの場所へ」と告げ、そして今度こそ911カレラを発進させた。
「マーク、か……」
遠ざかっていくテールランプの赤い光跡と、そして六気筒ボクサー・エンジンの低い唸り声を見送りながら、短くなった煙草を吹かすアインが微かな笑みと共に反芻する。
「あんな男になってみたいな、出来ることなら……」
例えその名がデタラメだと分かっていても、彼の名がカイトとかいうことを分かっていても。それでもアインは、その名を胸に刻んでおきたかった。リー・シャオロンの鎖を断ち切り、自分を自由にしてくれた彼の名を。もしかすれば、いつか何処かで友になれるかもしれない男の名を、胸の深くに刻みつけたかった。
「じゃあな、マーク。いつか、また何処かで…………」
後にお互い思いも寄らぬ形で再び出逢うことになる二人の、黒沢鉄男の名を被った戦部戒斗、そして畑貴士という新たな名を得たアインとの、これが初めての別れだった。
香港の夜は、今日もまた更けていく。アインの胸中に確かな友情を芽生えさせながら、今日もまた香港の夜が更けていく。その先に来る夜明けを信じて、アインは今暫しの間だけ、この夜明け前の中に佇んでいた…………。




