Execute.30:Perfume of the Death./ハード・ボイルド③
――――そして、夜は訪れた。
百万ドルとも例えられるほどに美しく、そして煌びやかな香港の夜景の中を滑るようにして、フォーシーズンズホテル・香港を出たガンメタリックのポルシェ・911カレラ4が夜の香港島を駆け抜けていく。
向かう先は、香港島の南側にある商業港だ。規模は割と小さいが、しかしコンテナ船なども出入りする。そこに今夜、標的リー・シャオロンが現れるというのがミリィ・レイスの出した結論だ。
「…………」
戒斗は911カレラのコクピット・シートに身を埋め、夜の街をヘッドライトで切り裂きながら駆け抜けていく。その隣に彼女の――エマの姿もあるのは、最早言うまでもない。
カーステレオの現地ラジオ局から流れるのは、故レスリー・チャンの名曲「當年情」。1986年の傑作香港ノワール映画「男たちの挽歌」の主題歌だ。名監督ジョン・ウーの出世作にしてツイ・ハークとの友情の一作。名優チョウ・ユンファの演じるマーク、そしてティ・ロン演じるホーとの間に描かれる男の友情は、最早筆舌に尽くしがたいほどの強烈な印象を観る者全てに抱かせる。
そういえば、あの映画のラストシーンも何処かの港だった。マークは今の自分のようにロングコートを羽織り、そして最期にはホーと彼の弟・キットの目の前で死んでいくのだ。
滅びの美学、というのだろうか。戒斗は911を運転しながら、あの映画と自分を何処か重ねてしまう。これから少し後、映画の中のマークのように自分もまた、壮絶な幕切れを迎えるのではないかと。
「……いや、それはない」
だが、戒斗は敢えてそれを否定した。此処で死ぬことは赦されないのだ。浅倉悟志と戦部暁斗、因縁の二人を己が手で葬り去るまでは。そして何より、隣のエマを置いて自分だけが死ぬことだけは、それだけはあってはならないことなのだ……。
だからこそ、戒斗は死ぬつもりでなく、生きるつもりで次なる鉄火場へと赴いていく。男として最後に賭けられるモノ、明日という日を賭けて鉄火場に赴くのだ。
「カイト」
としていると、隣のエマがふと呼びかけてきた。チラリと横目で見ながら戒斗は「どうした?」と優しげな語気で返す。
「これが終わったら、行きたいところがあるんだ」
「行きたいところ?」
「うん」と、エマが深々と噛み締めるように頷く。
「色んなところに行ってみたい。まだまだ、僕は此処のことを知らないから。……世界のことを、僕は知らないから」
「エマ……」
「だから、君が連れてって。僕に世界を見せて欲しいんだ。君の見てきた世界を、全部……」
911のシフトノブに添えた戒斗の左手に、エマの右手がそっと重なる。裏返した戒斗の掌と自分の右の掌を合わせ、指と指を絡ませ合うようにぎゅっ、と握り締めて。
「それが、エマの望みなら」
戒斗はその手を握り返しつつ、彼女の方をチラリと横目で見て言う。
「俺はそれを叶えるよ。君がそれを望むなら、俺が何処へだって連れて行く」
「……約束だよ?」
小さく首を傾げながら、過ぎ去っていく街灯の明かりに微かな笑顔を照らされながら。そう言うエマの表情が、いつか何処かで見た彼女のものと重なり合う。
「えへへ……」
何処か照れくさそうに笑う、遥の――――長月遥のそれと、エマの笑顔とが重なって見えてしまう。あの時は東京で黒の70スープラ、今は香港でガンメタの911カレラ。乗っている車も、そして淡い笑顔を向けてくれる相手も違えど。しかし目の前にあるエマと、記憶の中にある遥とは、今だけは何故だか戒斗の中で妙に重なっていた。
(遥……)
長月遥は、この腕の中で逝った。戒斗を庇い暁斗の放った凶弾に斃れ、そしてあの小さな身体に咲いていた命の徒花は、この両腕の中で散っていったのだ。
「笑ってください、戒斗。貴方の哀しい顔は見たくない。笑って私を見送ってください」
遥の散り際が、愛していた彼女が今際の際に放った言葉が、光景と共にまるで昨日のように戒斗の中でフラッシュバックする。
「後悔はありません。貴方を守れて死んでいける……。私にとって、これ以上のことはありません。宗賀の忍として、そして貴方の長月遥として。私に出来ることは、ここまでです」
記憶の中で、短い銀色の髪が風に吹かれ、そして綺麗な翠色をした虚ろな瞳が見上げている。
「どうか、私のことは忘れて生きてください。きっと世界の何処かに、貴方に相応しい娘が、貴方の全てを受け入れてくれる誰かが居るはずですから。
……私は、それまでの繋ぎ。きっと、その娘と貴方が出逢うまで、貴方を護る為に遣わされたのでしょう。どうやらその役目は、無事に果たせたみたいですが」
記憶の中の彼女が、その小さな口の端から紅い血を滴らせる。己の腕に触れる肌が、どんどん冷たくなっていく。
「戒斗と過ごした時間は、戒斗に愛されていた時間は、私にとって至上の幸せでした。でも私の役割は此処までです。貴方の罪を背負って、私は逝く。でも戒斗、貴方は生きてください。生きて、生き続けて……。
……その先で、必ず見つけてください。戒斗の全てを受け入れ、そして愛してくれる娘を。その娘を、必ず幸せにしてあげてください。……これが私が貴方に託す、最期の依頼です」
――――その依頼、確かに承った。
「……安心しました。必ず、約束ですよ?」
(遥……)
その約束、俺はちゃんと果たせたかな。君の最期の依頼、ちゃんと成し遂げられたのかな。
今となっては、彼女が答えてくれることはない。しかし自分の傍には、嘗て遥が言ったような女の子が現れた。己の全てを打ち明け、それでも全てを受け入れると言い、今や運命共同体と化した彼女、エマ・アジャーニが現れた。
(無駄にはしない。遥の願いも……俺は一緒に、最後まで連れて行く)
それが、遥の願いだから。自分が生き続けることこそが、彼女の願いだから。
「……分かったよ、エマ。俺と君との約束だ」
だから、戒斗は彼女の願いを叶えてやるのだ。嘗て己を護りその華を散らした彼女の遺した願いもまた、共に連れて行く為に。
「エマが望むなら、俺は君を何処へだって連れて行く」
それこそが、復讐以外で戦部戒斗が生き続ける意味であるのならば。




