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Execute.106:Deux personnes ensemble./意味不明な異常事態、訪れは突然に

 戒斗が予想外の事態に見舞われたのは、その翌日のことだった。

「んげー、だーるーいー」

 枕代わりのクッションを敷き、デスクに突っ伏す社長の眠たげな唸り声がだらだらと間延びする、昼下がりの会社事務所。誰一人としてマトモに仕事をしている気配も無く、ただ聞こえてくるのは寝息か呻き声か、或いは別の何かか。何にせよ、今日の事務所はいつも以上に会社の事務所とは思えないほどにだらだらとした空気に包まれていた。

 一番の原因は、きっと禅が外回りで不在ってことだろう。ガミガミガミガミやかましい人間が居なければ、結局のところはこんなもんだ。まして事務職のみどりまでもが買い出しで不在なものだから、電話が鳴ろうが率先して取ろうとする者はいない。

 とはいえ、鳴っているのは社の電話だ。ということは即ち、客先からの電話の可能性が高い。ともなれば怠かろうが出ざるを得ず、うとうととしていた社長が酷く眠たげな顔で顔を上げると、死ぬほど面倒くさそうに電話の受話器を取った。

「はいぃ、日々谷警備保障、本社でございまーすぅ……って、はい? あー、はいはい、はい。分かりました、少々お待ちください」

 声音だけを強引に外向けの体裁を整えていた社長は、後半を少し戸惑い気味に反応すると電話機の保留ボタンを押し。そうすれば少しだけ伸びをしながら起き上がり、「黒沢くーん、おでんわよー」と、意外にも戒斗の方に声を掛けてきた。

「えぇ、俺ェー?」

「おぬしよ、おぬしよー」

「面倒くせえなあ、不在だって言ってよシャッチョさーん」

「だめー」

「ちぇー」

 いつもの、"黒沢鉄男としての"態度で怠そうに応じた戒斗は、またデスクに突っ伏した社長を横目に、取った受話器を左耳に押し当てる。

「はいはい、お電話変わりましたよ黒沢ですよっと」

 そうすれば、こんな具合で営業ボイスの欠片も無い、怠さ全開の声で戒斗は応じる。黒沢鉄男を演じているといえばそうだが、死ぬほど怠いのは事実だった。正直、そろそろ早退を申し出ようかと思っていたぐらいに。

『……松代です、ご無沙汰しております。黒沢様……いえ、敢えて違う呼び方の方が宜しいでしょうか』

「アンタが……待て、どういうことだ?」

 だが、此処に来て戒斗の顔と声音が、一気にシリアスな色に変わり果てた。

 電話の相手は、意外なことにあの葉月――安藤葉月の執事をしている男だった。本人が名乗った通り、松代という。確かフルネームは松代忠仁だったか。

 何でも構わないが、この男から連絡が、しかも社の方に直接来るというのは、今まで一度足りとて無かったことだ。それだけでも何かしらの異常事態が起きたことは察して余りあるというのに、彼の神妙な声音が、そして敢えて戒斗を別の名前――黒沢でない名を呼ぼうとしていたことが、戒斗に強い危機感を確信と共に抱かせていた。

 ――――何か、とんでもない事態が起きている。

 思わず、右腰に帯びたホルスターに手を伸ばし、その銃把に触れていた。完全に無意識での行動だった。顔色も声音も、黒沢鉄男を演じることを忘れてしまっている。完全に素が出ているのに、それに構わないままで戒斗は受話器に意識を傾け続けていた。知らず知らずの内に自分が座っていた椅子から立ち上がっていることにも、気付かぬまま。

『黒沢様にご連絡を差し上げたのには、少しばかり込み入った事情がございまして』

「御託は良い、要点だけを手短に言ってくれ」

『……大変、申し上げにくいのですが。お連れ様が、エマ・アジャーニ様が……』

「ッ……!?」

 まさか、嗅ぎつけられた――――!?

 クリムゾン・クロウの残党どもに、浅倉と暁斗に嗅ぎつけられたのか。エマの存在が、全てを喪った自分にとっての、唯一の急所とも取れる彼女の存在が。隠し通し続けてきた彼女のことが、遂に奴らに露見してしまったのか。襲撃を受けたのか。それとも攫われたのか――――。

 松代が言葉を言い終えるより前に、戒斗はそこまでのことを考えていた。思考が今までに無いほど冴え渡っていくのが、感覚的に分かるほどに。

 自分は、どうするべきなのか。決まっている、今すぐに救出に向かうべきだ。幸いにしてエマには例のブレスレットを――発信器付きのアレを持たせてあるから、場所の特定は容易だ。自分の腕前とマシーンを以てすれば、すぐに追いつくことは出来る。

 問題は、武器弾薬だ。獲物が無ければ話にならないが、家に取りに帰っている時間は恐らく無いだろう。

 だとすれば、日々谷の……この本社ビルの武器庫から強奪していくのが、一番手っ取り早い。戒斗は即座にそう判断した。

 今、事情を説明している暇は無い。邪魔するようならば、社長以下この場に居る全員を始末してしまった方が早いだろう。どのみち、戒斗にとってはどうでも良いような連中だ。

 だが、貴士に限っては別だ。奴は……アインは、恐らくは戒斗の身の上を話せば、協力させてくれと申し出るはずだ。戒斗はそう踏んでいた。自分がマークであることを知れば、彼は香港での借りを返そうとするだろう。外面は変わっても、人間の本性は中々に変わらないものだ。アインがあの時のアインのままであるのなら、きっと彼はそう言うだろう。アインは、そういう男だ。

(出来る、まだ間に合う。取り戻してやる、必ず……!)

 ――――エマの奪還は、充分に可能。

 確信を得た戒斗が、右腰のホルスターに収めていた自動拳銃、シグ・ザウエルP226-E2を抜きかけた、その時だった。

『……その、葉月様と一緒に、外出を』

 あまりに突拍子もない、そして拍子抜けさせるようなことを、松代が言い出したのは。

「……へっ?」

 意味が分からず、戒斗は硬直してしまう。眼が点になるというのは、きっと今のようなことを云うのだろう。ぽかんと大口を開けたまま、戒斗は文字通り眼を点にして、受話器片手に立ち尽くしていた。

『ですから、無断で飛び出していった葉月様に誘われまして、その……はい、アジャーニ様もご一緒に』

「ど、どういうことだ……?」

『何ともご説明しにくいことでして、というよりわたくしの方としましても、何が何だか……』

 松代があんまりに申し訳なさそうな声で言うものだから、戒斗も全力で困惑しつつ、とりあえずは彼の話を聞いてやることにする。何にせよ、状況を把握しておく必要があるのだから。

『本当に申し訳ございません。ですが、葉月様はボディーガードの一人も付けず、アジャーニ様とご一緒にお出かけを……。

 ……本来なら、わたくしの方からこのようなこと、貴方様にお願いすることはあってはならないことです。しかし、此処は恥を忍んでお願い致します。葉月様とアジャーニ様、お二人の安全の為、貴方様にも合流して頂きたく――――』

 と、松代が至極申し訳なさそうに、へりくだりにへりくだって、そこまでを紡ぎ終えたタイミングでのことだった。

「分かった分かった、分かったよン畜生め! すぐに行く、ああすぐに行ってやるよ!」

 戒斗は話半ばで松代にそう告げ、電話機に受話器を叩き付けて通話を切った。

 そして、椅子の背もたれに引っ掛けたままだった、ファーの付いた分厚いジャケットを引ったくり、バッと派手に羽織る。状況は奇怪だが、とにかく面倒なことになったのには変わりない。一秒でも早く、松代に合流する必要があった。

「社長、今日は半ドンだ!」

 眠っている連中を叩き起こすような声量で戒斗は言うと、そのまま有無も言わさず事務所を飛び出していった。後ろで「へいへーい……」と怠そうな社長の声が聞こえてきた辺り、とりあえずは了承してくれたのだろうが……。とにかく、今の戒斗にそれを気にしている余裕は無かった。

 確か、何だかこの後に仕事が入っていたような気がする。だが関係あるものか。そんなもの、貴士辺りに代打をさせれば良い。今はもう、そんな些事に構っている場合じゃないのだ。

「何てこった……! エマを連れ出すなんざ、何を考えてやがるんだよ、あの女は……!」

 とにかく、今は時間が一秒でも惜しい。

 戒斗は会社ビルの駐車場を目指し、階段を数段飛ばしで駆け下りていった。

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