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国造二神の物語  作者: 荒神祭
1/1

採桑翁2.5話

採桑老残り2話を目途に、後書きで呟きいています。


神様の名前、ルビなしでこれからどんどん出てきます。

リンク等も何か考えないと。

記紀神話の内容とはかけ離れた内容となっていますが、一応、記紀がベースと主張する・・。


久延毘古にとって彼少彦名は。


何もかも。


そう。


家柄も、頭脳も、そして地位も。何一つとっても不自由のしようがないほど持っていた。



そしてそれこそが。


久延毘古が持たないもの一切をしかし持てる者が、


少彦名という存在。


現在の久延毘古が仕えるべき、無二の主。




「悲しきかなや身は籠鳥 心を知れば盲亀の浮木」


川から水を汲む。


出雲に来てからというもの毎日繰り返されるその作業の合間に、何気なく水面に映った自分の姿に、


久延毘古はなぜか底知れぬ嫌悪感を。それは嫌悪の情を突き抜けて殺意に達するほど激しいものだが、


を覚え衝撃を受けた。



もしこの場に余人がいて久延毘古の様子を見れば、気難しい老人が癇癪でも起こしたのか、と見えることだろう。


だが、それはそれで一向に構わない。


他人に年相応に見てもらえないことに対して、またそのように誤解されることに対して。


そのように見做す他人という存在に対して、嫌悪や殺意を覚えているわけでは、決してないからだ。



では一体なぜであろうか。



今日に限っては。



否、これは久延毘古の切実な願望なのだが。



この水面に映る老人が耐え難いほど醜く、そして憎らしく感じられ、今すぐにでも叩き殺してしまいたい、


それは言うまでもなく自死を意味するのだが、衝動に駆られ、その衝動を抑えきれず、久延毘古は衣類が濡れるのも構わずに川に飛び込むと、何度も水面の己を狂ったように何度も力任せに殴りつけた。







ただ暗中に埋木の さらば埋もれも果てずして



亡心何に残るらん 浮き沈む涙の波のうつほ舟



焦がれて堪えぬいにしえを 忍び果つべき隙ぞなき」

汲み上げた水で屋内の水甕を満たす。


単純だが恐ろしく労力と時間の掛かるこの作業は、久延毘古の担当だ。


上司でもあり、また外観上は少年に過ぎない少彦名にやらせるわけには行かないし、


率先してやりますと名乗りを上げてくれたが、曲がりなりにも少女にこんな重労働をさせることは、


しかし久延毘古の倫理感が許さない。



例えそれが、今仮初ながらも身を置いている世界において、常識とされることであったとしても、だ。


最も、久延毘古が自分の体力などを顧みることなく、あくまで自己の信念に固執した理由に、


少女の、無意識だろうが老人にこんな作業をさせることへの危うさや気遣いの眼差しに、


意固地になった面も無きにしも非ずであろう。




元々年相応の老人ではないため、当初は半ばで息が上がり、半死半生になりながら水汲みをこなしていた。


しかし差ほども経たずに、使われていないはずの体は、最後まで呼吸を乱さずに終えられるようになっていた。



波紋で像を結ばない水瓶をじっと覗き込んでいる間に、久延毘古の胸中は大分落ち着いてきていた。


身体はどこまでも正直である事を思い知らされるにつれて、自然の摂理に背く自己の疲れきった顔に苛立っただけかもしれない。



いつしか淡々と、久延毘古はそのように考え直すようになっていった。




心が定まりかけたところで漸く、濡らした衣の不愉快さに気が付いた。


常にいる少女が真っ先に気が付くのだが、その少女の姿がない。



それはそれで別にそれは珍しいことではないのだが。


年相応の少女達のように遊びに出かけているわけではない。


よほど上流階級の子弟でもない限りは、子供と言えども貴重な労働力であるというのが事実だ。


真っ先に気が付いてくれるはずの少女がいなくては着替えさえままならないのか。


忘れていたはずの自己嫌悪の念が、再び蘇る。



市に出て夕食の材料を買い求めているのかもしれないし、或いは用事で出ているのかもしれない。


そのようなことは珍しくないのだ。


自活ということをした事がないのは少彦名だけではなく久延毘古もそうである。


日常生活に一体どれほど沢山の用事があるか、こちらにきて始めて知った。



我ながら間抜けな話だ。


のろのろと、出雲での生活の場にしている、家というのも憚れるような掘立小屋の、しかし住居スペースに入る。



そこには。



ビショビショに濡れた装束を取り替えようと、ふと辺りを回せば、


部屋の隅には衣類を収納してある藤製の箱。


着替えの衣を出だしながら、



ふと、ある一点で視線が止まってしまうのに久延毘古はわがことながら困惑した。


今日の自分は、何かおかしい。


不躾にジロジロとみるのは非礼に当たる。



そう言い聞かせてみてみないフリを続けてきた少彦名の自堕落な生活。



(一体、どうしたことなのであろうか・・。)


そっと胸中で呟き、久延毘古は視線を落とす。


その久延毘古の視線の先には、今日も今日とて少年の外観に余りにもそぐわない、泥酔している少彦名の姿。



(この御方の所業に、苛立つことなど・・。)


見ないようにしてきた、といのか。


気にならない、のではなく。



無音の呟きの中にも、しかし久延毘古は『私が』という単語を入れなかった。


胸中だけとはいいながら、久延毘古にはどうしてもその傲慢な響きがある単語は使うことが出来なかった。




少彦名は、現在の久延毘古にとっては文字通り主、である。



だが、元々久延毘古は、少彦名の父:高御産巣日神の下級の臣であったのだが、


当の高御産巣日神直々の命で、突然に少彦名に仕えることになった。



久延毘古は今まで主の、否同僚、部下に至るまでそのだれの不平不満を口にしたことはない。


口数が少ないだけでは決してない。


ただそもそもが、そのような類の考えや感情を抱いたこと自体が、なかったのだのだ。


高御産巣日神に見出されて、その身辺に仕えるようになる以前、


文字通り野にいた久延毘古にとって、天照大神を戴く宮廷は、まさに別世界であった。


喩えるならば、此岸と彼岸の世界の間ほどに。




今になって思えば一体どちらが此岸で、どちらが彼岸だったのだろうか。


いま久延毘古が身を置く、宮中こそが実は彼岸であったのではないのか。



しかし。


彼此の間に橋はなく、久延毘古を彼岸に渡した1艘の渡し舟は何処かにもう流されてしまった。



だから。



自分は元々は此処とは別世界にいた。


その別世界からの新参者だから勝手が分からない。


だから何も思わない。


(―それだけの理由ではない。)


久延毘古はそこまで考え、暗澹たる溜息を1つ吐いた。


触れたくない。


思い出したくもない。


しかしここまで来てしまった以上、もう引き返せない。


浮かばれることはなく、浮かぶことが精々のうつぼ舟。


渡し舟と見えたはそれであったものか。


勧められるままに乗ったつもりが、閉じ込められ押し流された。


そんな頼りない船もどちらかの岸辺に寄り付こうとする度に、しかし紺青鬼が下流へ下流へと船を押し流す。


我も憂き身は暇なみの


汐にさされて


舟人は


ささで来にけりうつほ船 ささで来にけりうつほ舟





進め。



まだ生きているお前の勤めを果たせ、と



紺青きは船を押し戻す。



淀みに、或いは岸辺によるたびに。


久延毘古は静かに、流れに乗る。


出口などもとより無い。


さすべき棹もない。


流されるだけの船。


久延毘古は下流の文士の出身であった。


その頃の習いとして幼くから学問を始め、他人と違うことは若くしてその才能を認められたことであろう。


老齢になるまで才能を認められないものが大勢いる中で、これは破格のことであった。


特に高御産巣日神は久延毘古の才能を他よりも一等高く買っており、


これが久延毘古が高御産巣日神に仕える契機になった。



高御産巣日神に仕えるようになったばかりの時、彼は文字通りの青二才。


右も左もまるで分からない久延毘古を、先達として何くれとなく面倒を見てくれた青年がいた。


奇しくも彼は久延毘古の相部屋の住人で、自然久延毘古は彼に惹かれ、


時をおかずともふたりは親友となった。




それが・・。


「久延毘古。」


自死。


高御産巣日神は、謀略もよく行なった。


その大半が闇から闇へと、自発的に当事者達が引き起こした事件として、片付けられていった。



「残念だ。だがお前は、彼奴ほど愚か者ではない、はずであろう。」



女を道ずれに心中を決めたが、し損ない。


女は思いをとげ、生きながらえた男は処分を待つ間に、将来を悲観して部屋の中で首を括った。


彼が愛用していた机の上には、遺されてた一通の遺書。


紛れもない彼の筆跡で認められたそれは。



錯乱でも起こしたのだろうか然程広くない部屋中が、見る影がないほどまで荒らされた中の中にあって。


ただ1つだけ、奇妙なほど整然と据えられた文机の上に、ひっそりと。


しかし明白な意図ととともに置去りにされていた。



床板や天上、壁に至るまで、恐ろしい苦悶の痕跡がいたるところに残されていた。



爪で書いたのか。


「うつほ舟」の文字が、現場に立ち入った久延毘古のすぐ足元に深く深く刻み込まれていた。



首を括って、ということも疑わしい。


毒物を持って殺害されたのちに。自殺の外形を整えただけだろう。



「残念だ。だがお前は、彼奴ほど愚か者ではない、はずであろう。」



高御産巣日神のその一言が、呪詛のように何時までも久延毘古の耳にこびり付いている。




久延毘古の一言に掛かっていた。


友人は恋に破れて自暴自棄になって自殺したのか。


同居人としてそれに気が付かなかったのか。



友人は、高御産巣日神の何かを奇しくも嗅ぎつけていた、


高御産巣日神が密かに恐れる、『何か』を。



かく言う久延毘古も、たった一件のみしか、『事件』ではなく作為と悪意によって引き起こされた


謀略である事を知る機会を得ることしか出来なかった。


それも宮廷に官吏として出仕するようになって以降、彼には珍しく胸襟を開いて付き合える、友人と呼び合えるたった一人の者の、刑死と引き換えに。



青写真を引いたのは、高御産巣日神。


そして知らずに、とはいえその片棒を否計画の実行を担ったのは、久延毘古。



その功を嘉せられ、久延毘古は晴れて中級位の官吏に昇進した。


日頃の私生活を理由に疑惑に巻き込まれ、その友人が刑死したのは、久延毘古の叙任の直後であった。


勿論『日頃の私生活』は偽りである。


高御産巣日神の引いた青写真の中に、この友人は当初から組み込まれていたのだ・・。



友人が死んだ日その日以来、久延毘古にだけは紺青(蒼い)の怨鬼が見えるようになった。


高御産巣日神の前に伺候するたびに、無意識の間に謀略に荷担するたびに、


そして今日のように一人で考え物をするたびに、紺青(蒼い)の怨鬼はいつも久延毘古の前に現れた。



久延毘古の目にしか映らない紺青の怨鬼が、



視界の端に。



じっと蹲る。





「私が、憎いのだろう・・。」


あの時一身に友の助命を嘆願すればあるいは―。


考えれば考えるほどに、いつしか久延毘古は年相応の若さを失っていった。


「私は、怖かった。」


彼を庇えば、計画を邪魔すれば、自分も斬られるかもしれないという恐怖。


死にたくない。


まだ。


昇任という餌も甘美に過ぎた。


命を捨てるにはあまりにも、未練、執着がありすぎる。




紺青の怨鬼は、何も答えない。


まるでじっと何かを考え込むように、あるいは何もかも一切を拒絶するように、じっと蹲り黙り込むだけ。


「私は、もうこの通りだ。」


年相応の若さなど微塵もない。


苛む後悔と吐き出されるところを持たない懺悔が、あらゆるものを奪い、そして否定し続ける。


「いつも言うように、いつ、私を殺してもかまわない。」


フッと、薄笑いのような音を残して、いつものように紺青の怨鬼は姿を消した。


そう。


久延毘古が自分を取り殺せと言うたびに、紺青の怨鬼は消えてしまう。


死にたい、と。


殺されてもいい、と。


いつも本気で思っている。


その、己の本気が伝わらないのか。


それとも、死にたがりの老人など殺しても仕様がないのか。


答えは、何時までも分からないまま。













































































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久延毘古は、のろのろと体を起こした。


何も物が見えていない視界に、急にだらしなく泥酔する少彦名がはっきりと飛び込んでくる。


先ほどの少彦名への苛立ちが、どうしようもないほどに巻き起こる。


彼の父である高御産巣日神の顔が少彦名に重なる。




例えば、


このまま――、


彼の息の根を止める。



細く、女子のように真白い大人の指が、少年の細い頸に掛けらる。


(高御産巣日神様と、私と。


何が違うというのか―)


久延毘古は、動かない。


否動けない。


そして少彦名も。


このような事態に気がついているのかいないのか、動かない。


眠っている気配は、とうにないというのに。


・・・。



「久延毘古様。」


掛けられた声に、久延毘古ははっとした。


首を、絞めようとしていた。



指が、自分の細い指先が


まるで苦しみに身を捩るように、


「く」の字に折れ曲がっている。


そしてそれは少彦名の首にかかっている――。


殺意を、


見られた?





現か夢か明けてこそ 海松藻も刈らぬ芦の屋に


一夜寝て海士人の


心の闇を弔い給へ


ありがたや旅人は 世を遁れたる御身なり


我は名のみぞ捨て小舟 


法の力を頼むなり 法の力を頼むなり






きっと傍目には愕然としているように見えるであろう。


しかし久延毘古の内心では、後少しというところで思いを断念させた声の主への激しい怒りと、


寸前で止めることができた安堵の念とが、気が狂わんばかりの波濤となってぶつかり合っていた。



ギシギシと軋みさえ上げそうな、内心の両極端な感情に引き裂かれて凝った筋肉をそれでも必死に動かして、


久延毘古は全くぎこちない動作で声の方を振りかえった。



視線の先には1人の利発そうな少女が端然と控えていた。



彼女は、どこぞの権門盛家の奥向きに仕えているといっても通りそうな雰囲気を備えている。


しかしそんな彼女が、実は元はこの浜辺の一隅の鄙の出とは、しかし今となっては、誰も気付くまいし、思いもしまい。


久延毘古たちと行動を共にするようになって以降、彼女は見違えるような変化を遂げていた。



こちらに来てすぐ、少彦名が気紛れに助けた、病を患った少女。


名を、多邇具久と言う。




「心配しておりました。突然にお姿が見えなくなったもので。」



「・・・。どうした。何か、あったのか。」



多邇具久の言動から、久延毘古は彼女が何も見ていないことを確信した。



「あ、え・・と天若彦様と言うお方が、上の岩場でお待ちです。」


「構わないから、こちらに来ていただきなさい。岩場では憚りがある話があるから、と」


「は、はい。」


用事を言いつけられ、急いで駆け去っていく多邇具久の後姿を見遣りながら、久延毘古は己が掌を見た。



文官特有のほっそりとした生白い手。


少彦名の細い頸を一瞥し、その場に座り込む。


ドクドクとこめかみで脈が打ち、その都度走る痛みが、気持ち悪いほどに頭蓋中で反響する。




誰よりも尊敬し、その下で働けることを誇りとした人が、嘗て、いた。



「私は――。」


殺せない。


きっと。


高御産巣日神も、そして少彦名も。


そして自分自身も―。




本当に殺したかったのは、


高御産巣日神(大御神)か?


少彦名(その幻影)か?


それとも自分自身(偽善者)か?




久延毘古の目の前で寝ていなかった少年が、しかしあたかも今目覚めたかのように、殊更ゆっくりと起き上がる。


「少彦名様・・。」


多分、自分は今ひどい顔をしていることだろう。


顔中を生温い雫が、止め処無く伝い落ちる。


「煩くて目が覚めちまった。」


寝癖のついた髪を乱暴に掻き揚げながら、少彦名は心地よい眠りから無理矢理起こされたときの眼で久延毘古を睨みつけた。


少彦名の眼差しに、先程の一切を承知していながら、しかしそれを批難する気色が全くないことに、久延毘古は苛立ちを覚えた。


死にたいと思っても、自分でそれさえも果たせない意気地なしの、的外れな怒りだとはよく了知しながらも、それを止めることがどうしても出来ない。



「私を、天若彦殿に命じて斬らせて下さい。」


どうにも自分を止められなかった後悔と、自殺さえできない事実を遅まきながら理解してしまった絶望と、


そして少彦名を殺せなかったことへの微かな悔しさに引き裂かれた心は、


ただその一言をつむぎ出すのが精一杯であった。





げに隠れなき世語りの その一念をひるがへし


浮かむ力となり給え


浮かむべき 便り渚の浅縁


三角柏にあらばこそ浮かむ縁ならめ

「俺を殺したかったら、躊躇せずにさっさとやれ。親父は、俺を殺したところで文句は言わない。


天若彦が来る前にその顔を洗って来い。」


的外れな少彦名の言葉に、否そのように感じてしまったのは、彼の言葉が久延毘古が望んだとおりの答えではなかったためであろうか。


久延毘古は咄嗟に血が上るのを感じた。


後は感情の赴くままに逆上当然で噛み付く。


そんな勢いがなければ目上にも誰にも自分の気持ちを伝えることさえ出来ない。



死への本能的な忌避感と恐怖が、後ろで足を引っ張るのを感じながら、久延毘古は必死に言い募った。


逃げ場が無い場所まで追い詰めてしまわねば、又生き続けなければならない!?



「少彦名様。このままでは私はいつ、少彦名様の寝首を掻く真似をするか分かりません。後生です!!」


「煩い!」


少年が、華奢ながらも大人の胸倉をどこか悲壮な表情で掴み挙げる。


「死にたくて、でも自分じゃ死に切れない奴はこの世で自分だけだなんて思うんじゃねえ!


いい加減自分の傲慢さに気づけよ!


俺には青い鬼なんて洒落たもんは見えないけどな、何のためにお前のところに出てくるか。


どうしてお前を取り殺さないかなんて少し考えればすぐわかることだろう!!


高天原のサラブレット(天若彦)がすぐそこまで来てる。


この話はもうこれっきりにしろ。何事もなかったフリをするんだ。」


「・・・。」



確かに、天若彦の足音がすぐそこまで来ていた。


「親父の目的は出雲だけじゃない。何も気付かないフリをしてればいいのさ、久延毘古。簡単だろ。


それが出来なければ、殺されるぜ、俺と一緒にな。」



「少、彦名様・・?」



「何も気付かないフリを続けろ。気付いちまったら、忘れるんだ。いいな。」




「久延毘古殿、天若彦にございます。」



緊張からか少し高い青年の、通りのよい声が、小屋の外に朗々と響き、


奇しくも久延毘古と少彦名の間をぷっつりと断ち切った。





時もこそあれ今宵


亡き世の人に合竹の


竿取り直しうつほ舟


乗ると見えしが


夜の波に


浮きぬ沈みぬ見えつ隠れ絶え絶えの


幾重に聴くは鵺の声


おそろしやすさましや


あらおそろしやすさましや



紅い夕日が、ゆっくりと海に沈みかかっている。


その光景を多邇具久はもう何度も見ている。しかし何度見ても、不思議な荘厳な思いに駆られる。


その日を終えた日輪は彩雲たちの手で速やかに海中へと送られ、一方宵闇たちは来る夜を迎えるために、天上に散り広がってゆく。


後に『静之窟』と呼ばれる岩窟を抱く崖の上の小屋は、そのような静かな、しかし劇的な、天上の時計の働きにはまるで無関心で、ただただ緊張を漂わせていることを多邇具久は肌で感じた。




実は、多邇具久は見ていた。


久延毘古が。少彦名の頸に殺意を持って手に掛ける様を。


そして、久延毘古には消えたように見えた紺青い鬼が、実は久延毘古の手を引き止めようとしっかりと掴んでいたことを。


言い知れぬ後悔と、解放への歓喜をしかし拒否させるほどの憎しみ。


久延毘古に向けられたそれらの強い思いを、蒼い小さな背中から、多邇具久にはヒシヒシとそれが伝わってきた。




背筋をソクソクと何かが這い上がる寒さがある。


それは決して、忍び寄る黄昏の薄寒さだけではない。



自分は本当は堪らない位怖い、のかもしれない。


しかしどうしてこんなに涙が一杯溢れて止まらないのだろう。



波の音に紛れて嗚咽を洩らしていると、またあの優しい紺青の鬼が傍によって来てくれるような気がした。


分からないことが多すぎて、それ以上にわけも分からずにただただ一杯一杯悲しすぎて、多邇具久は一人泣き続けた。



誰の耳にも聞こえない声で、小さな蒼い鬼が多邇具久のそばで謡う。


しかしそれは波の音にひどく似ていて、すぐ隣にいるはずの多邇具久の耳にも届かない。







頼政は名をあげて 我は名を流すうつほ舟に


押し入れられて淀川の よどみつ流れつ行く末の


鵜殿も同じ芦の屋の 浦わの浮洲に流れ留まつて


朽ちながらうつほ舟の 月日も見えず


冥きより冥き道にぞは入りにける


遥かに照らせ 山の端の


遥かに照らせ 山の端の月と共に


海月も入りにけり


海月と共に入りにけり











後書き





不協和音全開の高天原チーム。


足並みどころの話ではありませんね。


・・・。納得行く方向で何とか纏めて行きたい物です。



「採桑老」全体を通して一番書きたかったのはこの2.5だったかもしれません。


全員が何らかの過去なり思いなりを袴の裾のように引き摺りながら、歩いている様子が少しでも表せればいいのですが。


採桑老では特に、久延毘古が話の中心に持ってきて見ました。


少彦名に関しては以後、多邇具久に関しては匂わす程度で治めておきたいというのが正直な感想です。



雅楽で不吉の曲とされ、老人が独りで舞うこの曲名を小題に持ってきたのはこの理由からです。


後一話採桑老が入るかもしれませんが、次の小題に進みます。



追伸


時代考証めちゃくちゃなことをいきなり露呈。


考証は本当にいい加減です



謡いは謡曲「鵺」からお借りしました。


あるほうがいいのか、無い方がいいのか。試験的に両方あげてみました。


現代語訳は


→立命館大学能楽部へ。


この他に漫画もあって、物語展開が大変に分かりよいです。



時代を考えると謡いを台詞には入れられないのが苦しいです。


紺青鬼がじっと謡っている、という設定でなんとか組み込みたかったのですが、


失敗かな。



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