秘鑰
「ちょいと失礼。」
慣れた手際で胸ポケットから煙草を取り出しマッチで火を点ける。燃え上がったところから白い煙がゆらゆらと立ち昇り、自由な形へと変化していく。
僕と日傘は七重さんのバーを出た後、積山書店を訪ねた。今日あった出来事と思った事をジンさん達に相談するためだ。
そして今、積山書店の裏にある古い家に招かれて話をしていた。
千里さんは前と同じように店番をしている。前に来た時は気づかなかったがあの人は子供好きのようで、子供が出入りするたびにキュンッと音が聞こえるかと思うくらい無表情を幸せそうな顔に変えていた。
「んーまず言いたいことはねぇ...」
ジンさんは僕らに煙があたらないように上方へ吐いて口を開けた。
「勝手なことしてんじゃねぇよ」
ジンさんは初めて会った日に日傘に向けた鋭い眼光を僕らに向ける。
「すいません。僕の注意不足でした。」
「いやいや、怒ってるわけじゃないんだよ。ただ勝手動かれると君たちを助けられないじゃないか。」
ジンさんのヤンキーのような顔で怒ってないと言われても全く信じられない。100人見たら100人が怒っていると思うだろう。
だけどその怒りは僕達のことを心配したものであり優しさ故だった。
虫が首元に近づいたみたいでジンさんは嫌そうな顔をしながら「どっか行け」と手をビッピッ振る。少し乱れたアロハシャツの襟を指で整える。
「そうだね。君たちに起こった現象から説明しようか。」
煙草を吸い終わったジンさんは灰皿に火種を押し付け、煙消えたのを確認する。そして胡座をかいて話す態勢に入る。
「君たちに起きた現象は私も何回かあるよ。といってもこういうのは千里ちゃんの方が多いだろうけどね。」
「っていうことは悪霊が起こすような現象ってことですか?」
「いやいや違うよ一茶くん。この現象は幽霊であれば誰でも起こす可能性はある。ただ起こすのは悪霊が多いってだけだ。」
ジンさんは指をパチンと鳴らす。
「これは共鳴、感情の感染といっても間違いではないかな。」
「つまり七重さんの感情が僕らにうつったってことですよね?」
「そうだよ。理解はやくて助かるよ。」
だが疑問がひとつ残る。僕は日傘を見て、日傘は首を横にふる。
「どうしたんだい?」とジンさんは表情だけで聞いてきているのがわかる。
「いえ、あの僕らに感情の感染っていう現象は起きたとは思うんです。でも僕も日傘も感情じゃなくて痛みが伝わってきました。心臓を締め付けられるような。」
「あぁそういうことかい。それはちゃんと感情が伝わっているよ。君たちがそれを感情として受け入れることができないだけさ。」
「受け入れることができない...ですか?」
「君たちには何十年分の感情を受け入れることができるのかい?」
なるほど。あの時は30年も蓄積され続けた感情が伝わったってことなのだろう。つまり七重さんはあれほどの痛みと化した感情を今でも感じているということなのか。
想像しただけで手に嫌な汗をかく。
結果的には僕は七重さんの強すぎる感情を受け入れることができなかった。痛みだけで精一杯だったのだ。
「痛みを感じたってことは七重ちゃんの抱いてるのは負の感情だね。でも七重ちゃんが悪霊かどうかっていうのはまだ判断しかねるな。」
感情は喜び、悲しみ、怒り、嫉妬、驚き、嫌悪、恐怖などいろいろあり、たとえそれが負の感情だとしても状況によっては悪霊じゃない可能性もあるわけなのだ。
復讐なら怒り。だが少なくともあの痛みはそんな感情ではない気がする。どちらかといえばーーー
「悲しみ...かな...」
僕と同じことを考えていたみたいで日傘は手に顎をのせてボソッとつぶやく。
「...やっぱり八重ちゃんは悪霊なんかじゃない。さっきはびっくりしちゃったけど...救わなきゃ...!」
日傘は少し焦ったような顔をする。七重さんに見られてはいないし、しょうがなかったとしてもまた恐怖を感じてしまったことを後悔しているのだろう。
だがすぐに王から大切な任務を課せられた戦士のような、「自分ができることならなんでもしてやる」という覚悟を決めた表情をする。
美しいという言葉がこれほどよく似合う人間はなかなかいないだろう。そう思わせるような日傘の横顔を見て少し僕はドキッとする。
「じゃあ次に七重ちゃんのところに行くときには私か千里ちゃんに伝えてね。私が頼んだんだ、精一杯手伝わせていただくよ。」
「はい。次は3日後くらいにしようと思います。」
この一週間である程度試したがほとんどが上手くいっていない。そのためこれから何度同じことをしても無駄だと悟った僕はこの3日間を今日得た情報を加え、日傘とジンさんと千里さんに相談しながら考えることに時間に費やそうと考えた。
今度は僕らに許可なくジンさんは煙草に火を付ける。まるで水中に潜ってた人がやっと酸素を肺に入れることができたみたいな、おいしそうな顔で煙草を吸っている。
「よしっ、おじさんから一茶くんにヒントをあげよう!」
「...?」
意地悪な目で僕を瞳に映す。こんな胡散臭いおじさんとは思えないようなまっすぐな目で。
口調は軽いが、最後の希望に全てを捧げるような純粋な目で。
「一茶くんには出来て、私と千里ちゃんには出来ないこと。なぁーんだ?!」