後編
そして更に30分が経った。
俺はまた彼女に話しかけると、先ほどよりも反応は厳しくなかった。
「なあ、関係のない話をするのはどうだ。雑談だ」
「不安を煽る発言をした時点で、会話は中止するから」
きっぱりとした口調であるが、おおむね了承してくれたようで胸をなで下ろす。
「オーケイだ」
「あと、条件が他にもある」
「まだあるのかよ」
「一つ、私のプライベートの情報は聞かないこと。アンタがどこの馬の骨とも分からない状況で、ここは譲れないから。名前、住所、携帯の電話番号など聞いてきたらすぐさま、スタンガンで眠ってもらうから」
「おっかねえな」
俺の抗議の声に彼女は無視する。
「二つ、私が不愉快に思うような話題だったらすぐさま、スタンガンで眠ってもらうから」
「異議あり、お前の不愉快になる話題ってのが曖昧だ。どんな話をしても俺にスタンガンを打ち込む未来しか想像できないんだが」
彼女が舌打ちをした。
「……不愉快な話題の定義について補足するわ。猥談、恐怖話、グロテスクな話など、一般的に10代の女の子が聞いて嫌がる話はしないこと」
「まだ不明瞭だな。質問する」
「どうぞ」
「恋の話は猥談になるのか」
「っ!?」
はじめて彼女が言いよどむ。動揺しているのか、言葉がすぐさま出てこなかった。
「な、何を話そうとしているのよ」
明らかに声が裏返っている。
「10代の女の子が好きそうな話題だろ」
「……」
彼女が口をつぐんでいる。しばらくした後、彼女が呟いた。
「……内容により、許可する」
さすがに『その内容とは?』聞けずに、俺は頷いた。
「じゃあ、話すぜ」
彼女は少し不機嫌そうに了承した。
俺は多少、苦笑しながら話し始める。
「これは大学に入ってからできた友達の話だ。そいつが大学に入る前、進路に悩んでいた頃、ある女の子と出会った」
「女の子?」
「そう、通学で使っていた電車の中で真新しい制服を着た年下の女の子にそいつは一目惚れした」
「へぇ、初々しい話ね」
「全くだ、名前も声も知らない相手をただ見つめるだけなんて、今時珍しいぐらいの純愛だろ」
俺も少々茶化しながら話す。
「その女の子はどんな人だったの?」
「桜の花びらとともに現れた桜の妖精のようだったと話している」
「詩人ね」
皮肉たっぷりに言う彼女に悪意を感じる。俺は大げさに両肩を下げる。
「当人は全てフィルターのかかった景色を見ているんだ。許してやってくれ」
「ロマンチストですこと」
シニカルに苦笑する彼女を想像しながら話し続ける。
「そいつの気持ちも分かるけどな」
「なんでよ」
「そいつが学校を辞めるのを思いとどまらせたのは、その桜の妖精なんだよ」
「どういうことよ?」
少し不機嫌そうに彼女が尋ねてくる。
「そいつは進路に悩んでいるって言っただろ」
「うん」
「高校3年生になってやりたいことが見つからなくて、そいつは悩んでいたんだ」
「なにそれ、何も考えていなかったの?」
怪訝そうな声に俺もため息をつく。
「ああ、何も考えずにいたことを後悔し、周りが進路を決めていくことに焦りと不安で高校に行くことにすら抵抗を感じるようになっていた」
「でも、その女の子が変えてくれた?」
「そうだ、その春の日、灰色に世界に色を与えるきっかけをくれたのが彼女なんだよ」
「それはいい出会いだったのね」
彼女の口調が少し柔らかくなった。
「ああ、彼女のお陰で毎日の登校も楽しくなった。ほんの少しの変化がそいつを変えていった」
「俗に言う色気付いたって奴ね」
「言い方はそれぞれだが、彼女に少しでもよく思われようと服装や髪型を気にし始めた結果、そいつは少しずつ明るくなっていった」
「友達とは仲直りできたの?」
「そいつが明るくなってきたお陰か、以前のような刺々しさもなくなり、友達とも開いていた距離が縮まった」
「よかったじゃない」
彼女が身内のことのように嬉しそうにしていたのが意外だった。
「友達との距離が縮まり、進路についても真剣に悩みを相談することができ、そいつは大学に行くことを決断した。そこからは勉強漬けの毎日さ」
「で、志望校の大学には合格できたの?」
「無事、合格できた。それも高校の友達が色々と助けてくれたらしい」
「桜咲くか、桜の妖精に感謝しないとね」
「そいつも同じ事を考えて、清水の舞台から飛び降りるつもりで告白を試みた」
「やるじゃないの。で、結果は?」
彼女が予想以上に食いついてきている。やはり恋の話は女の子の好物なんだろう。少し間を空けてから彼女の問いに答えた。
「出来なかったよ」
「どうして?」
「いつもの電車に乗り込んできた彼女を見て、そいつは握りしめていたありったけの勇気を取りこぼしたんだ。彼女の隣には同じ制服を着た男子生徒がいたから」
「……」
「その男子生徒と話す彼女は、はにかみながら幸せそうに笑っていて、胸が締め付けられた。特別な相手なんだって、誰が見ても分かったんだ。いや毎日見ていたそいつだからこそ、彼女の幸せが伝わってきた」
そう、と彼女は一言呟き、辺りに気まずい沈黙が流れた。その空気をかき消したくて俺は明るい口調で声を上げた。
「それでもそいつは彼女に感謝しているんだ。楽しい一年を過ごさせてくれたことに。願わくばもう一度彼女に会って、ありがとうと伝えたい」
「――知ってたわよ」
「えっ?」
急に発せられた予想外の言葉に俺は驚く。彼女はそんな俺の驚きに気づかないように言葉を続けた。
「きっとその女の子、男の子に気づいていたと思う」
「なんでそう思うんだよ」
上擦った声が出たのが情けなかったが、彼女に聞かずにはいられなかった。
「ずっと視線を感じていたから。彼女は彼がいつ話しかけてくれるのか、ずっと待っていたのよ」
予想外の話に俺は混乱する。
「そ、そんなの分からないだろう」
「そう、分からないわね。でも――私だったらそうだったと思う」
何の根拠もない言葉にすがりつくように気持ちが高まった。
「じゃあ――!」
じゃあその男が俺だって気づいていたか、と言おうとした。だがそれよりも先に彼女が言葉を続けた。
「でも待っているだけじゃ何も始まらない。二人ともそれに気づくのが遅すぎたのよ」
「……」
俺は二の句が告げられなかった。
「タイミングが合わなかった、それだけの話ね」
「……ああ、その通りだ」
胸が張り裂けそうなほど痛かったのを我慢して、ようやく言葉を絞り出すことができた。俺は黙って口をつぐみ、自分がなぜこんな話をしたのか、考えると呆気ないほど簡単に答えが見つかった。
……気づいて欲しかったんだな、俺は。
その後、エレベーターは程なくして復旧した。スピーカーから先ほどの男が修理が遅れたことと、1時間半ほど拘束したことの謝罪が続いた。しかし、そんな事よりも室内に明かりがついて俺の顔を見た彼女が、見知らぬ男の顔を見るように視線を外したことが、やはり胸の痛みを感じさせた。どこかで期待していた自分が情けなかった。
エレベーターから解放された俺達はスーツ姿の中年の男性から、謝罪とショッピングモールの商品券をもらった。口止め料のつもりらしい。
スーツ姿の中年男性から帰りのタクシーを呼ぶという話を丁重に断り、出入口で頭を下げている男性に見られないように商品券を黙ってゴミ箱に投げ捨てた。彼女も同じように商品券を投げ捨てている。どうやら想いは一緒らしい。
「「最低」」
俺と彼女は同時に笑い合った。はじめて彼女と笑い合うことができた。そして、彼女からコートを受け取り、彼女は地下鉄で帰るとのことで、俺達は片手を上げた。
「じゃあな、最低な夜だったよ」
「こっちの台詞よ」
そう言って背を向けると、少し歩き始めた所で――。
「おーい!」
振り返ると、彼女がこちらに何かを投げてきた。俺は慌てて受け取ると、それは焦げ茶色の紙袋だった。
「いきなりなんだよ!」
「さっきの友達に渡してあげて」
紙袋を開けると紙箱に入った市販の板チョコだった。
「なんだよ、これ?」
「義理チョコ。それと彼に伝えて上げて『過去ばっかり見てないで、前に向かって進め』って」
力強い言葉に俺は笑った。
「了解、そいつに伝えておく」
それを聞いて彼女は満面の笑みを浮かべた。
駐輪場にたどり着き、紙袋の中身を見ると、レシートが入っており、その裏にデカデカと文字が書いてあった。
『ハッピーバレタイン、名無しの権兵衛に幸あれ』
そのメッセージを見て、俺は微笑む。
「俺の名前は、祐二って言っただろ」
恋は叶わなかったが、募っていた想いを吐き出せて気持ちは晴れやかだ。俺は板チョコの包装を破り、口の中に放り込む。板チョコは思ったよりも苦く、今日の夜のような味わいだった。




