魔王
いつも読んで頂きありがとうございます。
今更ですが血の表現などがあります、苦手な方はご注意下さい。
絶叫の後、静けさの中、魔王は左半身を覆う闇を、陽炎の様に揺らしながら空へ飛び上がる。
飛んだ、と言うよりは瞬間移動したように見える、それほど早い、今までとは比較にならない速度で一気に竜王の懐に潜り込む。
「そぉ――」
闇、濃密な魔力の塊、魔素に包まれ肥大化した獣の様な腕を振りかぶり、
「らぁあ!」
技術も相手の動きも一切関係ない、力任せに一息、振り下ろす。
『オォォ!』
身を守る盾の様に滑り込ませた竜王の右腕を、今までの強固さがまるでウソだったかの様に、ぶつ切りに切り落とす。
傷を入れたとか甲殻を砕いたとかではなく、腕をバラバラに切り落としたのだ。
『ヌグゥアア!』
初めて、竜王が純粋な痛みに対して悲鳴を上げた瞬間だった。
●
竜王と魔王が対峙する空中、そこから更に離れた地上、そこでリズは小さく震えていた。
竜王がかけた、良くわからないプレッシャーの魔法は、気付けば無くなって、体は自由になっていた。
しかしそれとは別に、新しくなった恐怖がリズを身体の芯から震えさせる。
魔王の身体を覆う闇、何かは聞いている、闇色をした大量の魔力の塊。
以前闘技場で、敵を失ったそれが自分達を襲ってきた事。魔王自身が制御出来ない、何をするかわからない力と言っていたモノ。それを思い出す。
しかし今、魔王はその力に身を委ねていた。
リズと魔王は、出会ってからそれ程の時間を一緒に過ごした訳ではない、精々一ヶ月程度だ。
それくらいの短時間、それでもリズは魔王を見てきたつもりだった。尊敬し、敬愛し、憧れた、強くそして優しい魔王。
そんな魔王が、リズには信じられない様な顔をしていた。
何もかもを失ったような、まるで子供の様な顔。そして、その後に続いた、憤怒、殺意、そんなモノをそのまま形にしたような、ひどく歪んだ顔。
名前を呼んだ、何度も。
腹の底から溢れ出る恐怖に耐えながら、もつれる足を動かして、駆け寄ろうとした。
それでも、あの人には見えていなかった、聞こえていなかった。
歯がゆかった、悔しかった。自分は、あまりにも矮小で、無様だ。
だからリズは走った、何度も躓きながら。
あの人が、魔王が、自らを歪めてしまう程に思っていた相手の元へ。
●
竜王が翼を羽ばたかせ、空気の塊をぶつけてくる。
魔王はそれを真正面から受け、意に介する事もしない。
圧縮された、岩をも砕くであろうその空気圧は、魔王の寸で、不可視の障壁に阻まれ砕け、まるでそよ風の様に魔王の髪を撫でるだけだ。
『チィ……』
竜王は距離を取りながら、不愉快そうに肘から下が無くなった右腕を振るう。
それだけで光で構成された腕が作られ、その下に急速に組織が再生していくのが見える。
それを見ても、魔王は特に焦りもしない。
自分の左半身を見下ろす。
光さえ反射しない、漆黒に塗りつぶされた半身、その腕、太く獣の様に大きくなった腕を、埃でも払うように振る。
過分に覆っていた闇は霧散し、元の魔王の細腕が姿を現す。
ただし、それはドス赤黒い渦模様に塗りつぶされ、所々には角のような突起物が生えている。
手も、爪がまるで刃物のように鋭く長く、伸びている。そのせいで普段より手だけがふた回り程大きく見える。
魔王はそれを、闇の筋に半分覆われた顔で、どこか小さく満足そうな顔をすると、再び竜王を見る。
「先ほどまでの余裕はどうした?」
魔王の言葉に竜王は答えない。
答えず、ただ行動を示す。
『――――!』
咆哮、それと同時に幾つもの雷と、炎――炎と呼ぶには高熱すぎる熱線――が魔王へと放たれる。
雷の一本一本が今までの比ではないほどに大きく、それ一つ一つが必殺の威力を込められている事が分かる。
炎の一つ一つも、先ほどのアグニッシュ・ヴァーダと同じか、或いはそれ以上の威力が込められている。
……しかし、しかしだ、
魔王は慌てる素振りも見せず、左手を広げ、その手のひらに闇の塊を創り出す。
……だからなんだというのか。
一瞬のうちに、無数の雷と炎は、吸い込まれるように魔王の手のひらの闇に集中して流れ込み、何事も無かったかの様に消える。
『グ……』
予想していなかった訳ではないのか、竜王が苦々しい顔をする。
竜王に反して、魔王は落ち着いていた。
頭の中に無数の術式が、魔法の定理が、世界の理が流れ込んでくる。
冷静に受け取れば思考が圧壊し、自己の精神はバラバラに引き裂かれ情報の渦に消えそうなそれを、受け止める。
或いはもう、壊れているのか。
そんな事を考えながらも、それすら魔王にはどうでも良かった。
何故この力を拒否し続けてきたのか。
何故この力を忌むべき物だと思ってしまっていたのか、それだけを悔やむ。
この力に従っていれば、こんな竜王如きに遅れを取る事も無かった。ましてメイドを殺される等という事も。
そしてこの力の、なんと心地の良い事か。
「そら、返すわよ」
魔王は大凡今までからは考えられない、相手を見下した、酷薄な笑みを浮かべ、手の中の闇を握りつぶす。
潰された闇は指の間から飛び散り、いくつかの飛沫になる。
それが、それらそれぞれが、空中で球体を作り出し、魔王の周囲に漂う。
そして、無数のそれら闇の玉から、雷と、炎が打ち出された。
先ほど、竜王が放った魔法そのままに。
『な、に!?』
予想外だったのか、竜王が驚愕の声を上げ、瞬時に展開した障壁、それに再生した右腕と左腕、翼を使い身体を覆うように防御の体制を取る。
その障壁を容易く砕き、雷が、炎が竜王の身体を焼き、貫く。
『グ、オォ……オ』
翼膜は一部が炭化し崩れ落ち、黒い甲殻や鱗は、一部が光を反射することのない脆い炭になっていた。
そしてその身体のそこかしこを、炎が、熱線が貫通した穴があり、黒い煙を上げている。
『ゴホッ……これ程とは、しかしやはり……』
「何、まだ余裕なの?」
翼で覆った空間の中、呟いた竜王の目の前に、魔王の姿が現れる。
『!?』
「何を驚いているの?」
目を見開く竜王に魔王は首をかしげる。
高速移動ではない、翼で覆われている以上竜王の目の前に来るためには上か下から入り込む必要がある。
そんな速度ではなかった。
『転移、魔法……使えるようになったか……』
「案外簡単なのね」
竜王の言葉に魔王は微笑む。
「それに――」
赤黒い筋の浮かぶ顔、両の目とも瞳以外を赤黒く染めた目を見開き、一層酷薄な笑み――これから行う事に喜びさえ感じているような――を浮かべる。
『お前は――ガッ』
何かを言いかけた竜王がビクリと痙攣し、言葉を止める。
その口からゴボリと、赤黒い血の塊が流れ落ちる。
魔王が竜王の胸に左腕を突き刺していた。
腕の長さ的にはありえない、まさに伸びたその腕は竜王の胸を貫通し、巨大化したその手の内には、竜王の心臓と思われる器官が握られていた。
次の瞬間、それを何の躊躇もなく握り潰す。
肉の潰れる音と破裂音、その後に竜王の胸からスルリと腕が引き抜かれる。
『ガッ……ゴブッ……貴様は』
心臓を潰されてなお、胸の傷は急速に塞がれつつあり、その中には心臓が構成されているのが見て取れる。
「何、しぶといのね、心臓潰しても死なないなんて」
一変し忌々しいという表情を露骨に出した顔で、魔王は竜王を睨む。
ズキリと頭に痛みが走り、魔王は姿勢を僅かに崩し、普通の右腕で額をおさえる。
『お、前は本当に……』
「うるさいなぁ、心臓がダメなら頭潰せば終わりだよねぇ!」
顔をしかめながら左腕で、ぐったりとした竜王の頭を掴むと、力はどこから発生しているのかと疑いたくなるような、小さな魔王の左腕が二十メートルはあろう竜王を空中で振り回す。
一回転、二回転、空中で竜王を振り回した腕が伸び、頭から地面に叩きつける。
地を抉り、瓦礫の中に沈んだ竜王の、傷の塞がった胸の上に転移し、その姿を見下ろす。
竜王は目を閉じており、頭部の角は幾つかが折れ、甲殻には罅が入り血が流れ出している。
「あ、はは――」
それを見て、魔王は腹を抱える。
「あはは、あはははははは! こんな、こんな弱っちい、ゴミみたいなのに――」
半分以上を黒い筋に覆われた顔は、しかし笑っておらず、
「なんで――」
その目から一筋の涙が流れた。
プツリと、糸が切れたように一瞬、目を閉じガクリと項垂れる。
「――はぁ……」
次に目を開けたとき、魔王の口から出たのはため息だった。
呆れた、或いはつまらない、そんな言葉が出てきそうな表情で。
「ダメね、これでは」
落ち着いた口調で、フイと竜王の顔に視線をやる。
「起きているのでしょう? 貴方達はこんな程度の事では死なないハズよ」
その言葉の後、僅かな間をおいて、ゆっくりと竜王の目が開かれる。
『……流石にわかっているか』
「貴方の事なら――いいえ、貴方に限らずだけど、なんでもお見通しよ?」
先程までとはうってかわった、楽しいといった感情の笑みを魔王は浮かべる。
その体は先ほど以上に、左半身を超え背中から右半身にかけてまで、闇が塗り潰そうとしていた。
『やはりその感覚……今の貴様は魔王ではなく……』
竜王の言葉に魔王の背中がピクリと震える。
「……何を言っている? 私は魔お……う? う、あ……? わた、しは……わ」
額をおさえ、一拍の硬直、そして顔を上げる。
笑顔で。
「……勘のいい子、本当に。そう言えば貴方は昔から、龍族の中では勘が鋭い子だったわね」
子供に言うような、優しい口調で言葉を紡ぎながら、横たわり苦痛に顔を歪める竜王の顔に近づき、その顎を優しく撫でる。
『やはり、その力、貴様、いや、貴女なのか――我等が母よ』
くぐもった声、苦虫を噛み潰すように、竜王が魔王を呼ぶ。
その言葉に満足そうに、魔王は笑顔を、どこまでも深い優しさと、そして残酷さを浮かべた笑みを浮かべる。
「久しぶりね、本当に本当に久しぶり、何千年、何万年ぶりかしら!」
魔王の、今までの魔王とは思えない嗤い声が、周囲にこだました。
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