名を奪われた辺境伯令嬢は、国の守りをやめました。
第一章 傷だらけの手と契約結婚
長く艶やかな髪。白く滑らかな肌。桜貝のように磨き上げられた爪。
それらは貴族令嬢にとって、生まれの確かさを示す看板のようなものだという。朝晩欠かさぬ手入れと、それを惜しまず続けられる財力。その二つがあって、ようやく保たれる。
では、時間も財力もない令嬢はどうなるのか。
答えは、いま森の縁を歩いている娘を見ればわかる。
リーゼロッテ・グレンヴァルトは、首筋で無造作に切った栗色の髪を、汗で額に張りつかせていた。肩にも届かない短さは、重い兜をかぶるのに邪魔にならないよう、自ら鋏を入れた結果だった。陽に焼けた頬には、昨日枝で引っかいた細い傷が一本走っている。指先は硬く、爪の際はひび割れて、令嬢の手というよりは農夫の手に近い。
本人は、それを特に気にしていなかった。
背後には、黒々とした森が壁のように立ちはだかっている。
グレンヴァルトの大森林。樹齢も知れぬ巨木が枝を絡め合い、昼でも奥は夜のように暗い。湿った土と腐葉の匂いに、ときおり鉄錆めいた生臭さが混じる。魔物の気配だ。
森から吹き出す瘴気は、見えない霧のように大地へ染みていく。森の手前に広がる畑は、どれも土が灰色にくすんでいた。麦は膝の高さにも届かず、穂は痩せて、風が吹くたびに乾いた音を立てる。
「姉さん、こっちは片づいたよ」
茂みをかき分けて現れたのは、弟のテオだった。本名はテオドールだが、そう呼ぶのは母が叱るときくらいのものだ。十五になったばかりの少年は、自分の背丈ほどもある魔猪の脚を縄で縛り、汗だくで引きずっている。
「そっちの杭はどう?」
「三本、焦げてた。打ち直しておいたわ」
リーゼは足もとの杭を軽く蹴った。
森の境界に沿って等間隔に打たれた白木の杭には、母が祈りを込めた浄化の紋が刻まれている。これが魔物の流出を食い止め、瘴気の広がりを押しとどめる。ただし紋は日に日に削られ、ひと月もすれば効き目が薄れる。打ち直しは、この家の人間に欠かせない日課だった。
「今夜は猪鍋だね」
テオが歯を見せて笑う。
「半分は干し肉。もう半分は村に配る」
「わかってるって。言ってみただけ」
足もとで、灰色の毛玉が鼻を鳴らした。
魔狼の仔、グラウだ。春先に、親を亡くして森の縁で震えていたところをリーゼが拾った。本来なら討つべき魔物の仔だが、なぜか人に牙を剥かず、今では見回りのたびに先頭を歩く。鼻が利くので、瘴気の濃い場所を誰より早く教えてくれる。
リーゼがしゃがんで耳の後ろを掻いてやると、グラウは目を細めて尻尾を振った。
*
辺境伯の屋敷は、丘の上に建っている。
建っている、とかろうじて言える程度には。石壁のあちこちに蔦が這い、雨漏りのする東棟は三年前から閉め切ったままだ。かつては騎士団を抱えた堅牢な城館だったと聞くが、今その面影を残すのは、門の上に掲げられた古い紋章だけだった。森を背に剣を掲げる、狼の図案。建国の折、王から賜ったものだという。
由緒だけは立派。それが、王都の貴族たちがグレンヴァルト家を語るときの決まり文句だった。
台所に入ると、母のマルギットが井戸水を張った桶に手をかざしていた。
指先から淡い光がこぼれ、濁った水がゆっくりと澄んでいく。瘴気は地下水にまで染みる。浄化をしなければ、この土地では飲み水ひとつ手に入らない。
「おかえりなさい。怪我は?」
「ないわ。テオが魔猪を一頭」
「まあ、えらいわね。それよりリーゼ、お父様のところへ行ってちょうだい。……お手紙が届いているの」
母の声が、わずかに曇った。
父のコンラートは、書斎の窓辺で一通の封書を睨んでいた。
かつて辺境騎士団を率いた大柄な体は今も衰えていないが、右脚は十年前の討伐で魔物に噛み砕かれ、杖なしでは歩けない。机の上には、修繕の見積もりや、村から上がってきた被害の報告が山を成していた。
「リーゼ、座りなさい」
差し出された封書には、見慣れぬ紋章の封蝋が押されていた。
「ヴァイデン侯爵家。聞いたことがないわ」
「二代前に、商いで財を成して爵位を得た家だ。今の当主はギルベルト殿。二十六だそうだ」
父は苦い顔で、同封された契約書の写しを指で叩いた。
条件は、驚くほど明け透けだった。
婚姻は形だけのもの。夫婦の交わりはなく、住まいも別。式も挙げない。その代わり、グレンヴァルト家には毎年、まとまった額の援助金が支払われる。リーゼには、侯爵夫人としての正当な地位と待遇が保証される。
求められているのは、ただ一つ。建国以来続く、グレンヴァルトの血筋との縁だった。
金で爵位を得た家は、どれほど豊かになっても、古い家々から成り上がりと陰口を叩かれる。その箔をつけるのに、落ちぶれた名門の娘はうってつけというわけだ。
リーゼは、記された金額を指でなぞった。
東棟の屋根を直せる。杭に使う白木を、来年の分まで買い置きできる。冬に村の子供たちが飢えずに済む。去年の冬、熱を出した幼子に薬を買ってやれなかった夜のことを、リーゼは今もはっきりと覚えていた。
「去年、陛下に爵位と領地の返上を願い出たのは覚えているな」
「ええ。突き返されたわね。ほんの少しのお金と一緒に」
「あれで、国の本音がわかった。この土地のために、金は出したくない。かといって領地を引き取り、自分たちで魔物の相手をするのは、もっと嫌なのだ。だから我々に押しつけたまま、見ないふりを決め込んだ」
父の拳が、机の上で固く握られる。
リーゼはしばらく、窓の外を見ていた。灰色の畑の向こうで、村の女たちが痩せた麦を刈っている。腰を屈めたその背中は、どれも小さく、細かった。
「受けるわ」
顔を上げたリーゼの声に、迷いはなかった。
「リーゼ」
「形だけの妻でいいなら、むしろ気楽よ。ドレスを着て笑っていろとも書いてないし」
冗談めかした口調に、父は深い溜息をついた。娘が一度決めたら梃子でも動かないことを、誰よりも知っているのは父親である。
「……すまない」
絞り出すような声だった。
リーゼは首を横に振り、父の大きな手に自分の手を重ねた。硬い掌同士が触れ合う。似た者親子ね、と母がよく笑う手だった。
*
返事を出して、ひと月。話は拍子抜けするほど早くまとまった。
出立の朝、屋敷の門の前には村の者たちが集まっていた。朝靄の中、誰もが土に汚れた仕事着のまま、鍬や籠を手にしている。見送りのために畑を抜けてきたのだ。
「お嬢、これを持っていきな」
ハンナ婆さんが、皺だらけの手で差し出したのは藍色の髪紐だった。端に小さな刺繍が施されている。森を背にした狼。グレンヴァルトの紋章だ。
「ありがとう、ハンナ。でも、結ぶほど髪がないわ」
「伸ばせばいいさ。侯爵様のお屋敷なら、もう兜をかぶることもないだろう」
どっと笑いが起きた。
リーゼも笑いながら、髪紐を胸の隠しにしまった。子供たちがスカートの裾にまとわりつき、鍛冶屋のトマスは、杭の打ち直しは俺たちでやると分厚い胸を叩いた。
誰も、行かないでくれとは言わなかった。この家の娘が何のために嫁ぐのか、みな知っていたからだ。
門をくぐったとき、背後で甲高い遠吠えが上がった。
テオの腕の中で、グラウがもがいている。連れていくわけにはいかない。王都で魔狼の仔など連れ歩けば、それだけで騒ぎになる。
「グラウを頼んだわよ」
「任せて。姉さんこそ、侯爵様を殴ったりしないでよ」
「しないわよ。……たぶん」
弟の軽口に手を振り返して、リーゼは古い荷馬車に乗り込んだ。御者台で手綱を取るのは、父の昔の部下だった老騎士だ。車輪が軋みを上げて、灰色の大地を進み始める。
振り返ると、丘の上の屋敷が小さくなっていく。その向こうに、森が黒い帯となって地平を塞いでいた。
あの森を、今日も誰かが見張っている。
そう思うと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
*
王都までは、馬車で十日かかった。
領地の境を越えて二日もすると、土の色が変わった。くすんだ灰色が、黒く湿った肥沃な色になる。畑には背の高い麦が金色の波を打ち、道端には名も知らぬ花が咲いていた。川の水は、どこまでも透きとおっている。
浄化をしなくても、水が飲める。
当たり前のことに、リーゼはしばらく言葉を失った。
この豊かさの何割かは、グレンヴァルトが森を押しとどめてきたからこそ守られている。そのことを、ここに住む人々は知っているのだろうか。川べりで洗濯をする女たちの屈託のない笑い声を聞きながら、リーゼはぼんやりと考えた。
ヴァイデン侯爵邸は、王都の一等地にあった。
白い大理石の門柱。手入れの行き届いた庭園では噴水が涼しげな音を立て、薔薇のアーチが幾重にも連なっている。屋敷は真新しく、窓という窓に磨き上げられた硝子がはめ込まれていた。古びた荷馬車は、その門前でひどく場違いに見えた。
出迎えた執事は、荷馬車とリーゼを交互に見て、一瞬だけ眉をひそめた。
すぐに取り繕った笑みを浮かべたが、その一瞬をリーゼは見逃さなかった。森で魔物の気配を読むのと同じだ。人の顔に浮かぶ嫌悪は、隠そうとしても隠しきれない。
通された応接間で、リーゼは夫となる男と初めて顔を合わせた。
ギルベルト・ヴァイデン。蜂蜜色の髪を丁寧に撫でつけ、仕立てのいい上着に宝石のついたタイピンを留めている。整った顔立ちだった。王都の令嬢たちのあいだでは、さぞ評判がいいのだろう。
その整った顔が、リーゼを見た瞬間、はっきりと歪んだ。
視線が、短い髪から日に焼けた頬へ、傷のある手へと滑り落ちていく。値踏みですらない。汚れたものを見るような目つきだった。
「これが、グレンヴァルトの娘か」
挨拶もなく、男は呟いた。
リーゼは背筋を伸ばし、母に叩き込まれた作法どおりに膝を折った。
「リーゼロッテ・グレンヴァルトと申します。本日より、よろしくお願いいたします」
返事はなかった。ギルベルトは口もとをハンカチで覆い、まるで悪臭でも嗅いだかのように顔を背けた。
「部屋へ案内しろ。私の目に入らないところへな」
執事に命じる声は、冷ややかだった。
リーゼは黙って頭を下げた。胸の内で、何かが小さく軋む音がした。
契約書には、正当な夫人として扱うと書いてあったはずだ。
このときはまだ、それが紙の上だけの約束だとは思っていなかった。
第二章 偽りの令嬢と奪われた名前
案内されたのは、本邸ではなかった。
庭園を抜け、薔薇のアーチをくぐり、さらに奥へ。手入れの届かなくなった木立の陰に、古い石造りの離れがぽつんと建っていた。先代が庭師の住まいに使っていたものだという。窓枠のペンキは剥げ、扉の蝶番は赤く錆びている。
「こちらが奥様のお住まいでございます」
執事は奥様という言葉を、口の中で転がすように言った。
中は、埃の匂いがした。寝台と、脚の揺れる小さな卓と、椅子が一脚。暖炉には古い灰が残ったままだ。
住む家は別。たしかに契約書には、そう書いてあった。
リーゼは荷物を床に置き、袖をまくった。雨漏りする東棟に比べれば、屋根があるだけ上等だ。窓を開け放つと、湿った木立の匂いが流れ込んでくる。森の匂いとは違う、どこか甘く、毒気のない匂いだった。
翌朝、執事が再び離れを訪れた。
「奥様の籍を侯爵家へ移す手続きがございます。身分証をお預かりしたく」
リーゼは鞄の底から、革の筒を取り出した。
中には、グレンヴァルト家の紋章が刻まれた銀の徽章と、王家の印が押された貴族籍の証書が収められている。辺境伯家の娘であることを示す、唯一の証だ。
「手続きが済んだら、返してもらえるのよね」
「もちろんでございます」
執事は恭しく筒を受け取り、一礼して去っていった。
その筒がリーゼの手に戻ってくることは、なかった。少なくとも、この屋敷にいるあいだは。
*
ひと月が過ぎた。
離れを訪れる者は、ほとんどいなかった。食事は日に二度、若い下働きの娘が籠に入れて運んでくる。冷めたスープと、硬くなりかけたパン。たまに、皿の隅に干し果物が添えられていることがあった。
「これ、厨房の人がくれたの?」
あるとき尋ねると、娘は慌てて首を振った。
「あの、わたしのおやつの残りで……。いらなかったら、捨ててください」
ミアという名の、十四歳の娘だった。そばかすの散った頬を赤くして、うつむいている。
リーゼは干し果物をつまみ、口に放り込んだ。噛むほどに、甘酸っぱさが広がる。
「おいしい。ありがとう、ミア」
ミアは目を丸くして、それから小さく笑った。
それ以来、ミアは食事を運ぶたびに、少しずつ話をしていくようになった。
生まれは東の小さな村で、弟妹が五人いること。仕送りのために奉公に出たこと。リーゼが領地の話をすると、ミアは魔物の話に怯え、魔狼の仔の話には目を輝かせた。
いい子だ、とリーゼは思った。そして、この屋敷で言葉を交わす相手がこの娘しかいないことにも、気づいていた。
ある晩、ミアが籠の底から、くしゃくしゃになった紙切れを取り出した。
故郷の母親からの手紙だという。村の神父に代筆してもらったものらしい。けれど、ミアには読めなかった。
「奉公先の誰かに読んでもらおうと思ったんですけど、みんな忙しくて……」
恥ずかしそうにうつむくミアから、リーゼは紙切れを受け取った。
読み上げてやると、ミアは一言一句を逃すまいと、身を乗り出して聞き入った。弟妹たちが元気でいること。末の妹が歩き始めたこと。仕送りのおかげで、冬の薪が買えたこと。
最後の一行を読み終えたとき、ミアの目は真っ赤になっていた。
「字を覚えたい?」
リーゼが尋ねると、ミアは目を丸くした。
「わたしが、ですか」
「返事を自分で書けたら、お母さん、きっと喜ぶわよ」
その夜から、離れの小さな卓が教室になった。
紙は貴重だったので、暖炉の灰を平らにならし、指で字を書いた。リーゼ自身も、幼いころ母から同じやり方で教わったのだ。辺境では、紙もインクも王都の何倍も値が張る。
ミアは覚えが早かった。食事を運ぶたびに、新しい字をひとつ覚えて帰っていく。代わりに、王都の噂話を置いていった。
どこそこの伯爵家の令嬢が、婚約を破棄されたこと。王宮の庭に、珍しい青い薔薇が咲いたこと。城下で、蜂蜜をかけた揚げ菓子が流行っていること。
灰の上に、たどたどしい字が並んでいく。
ミ、ア。
自分の名前を初めて書き上げたとき、ミアは灰で汚れた指のまま、顔を覆って笑った。
「わたしの名前、こんな形してるんですね」
リーゼは、その横顔を眺めていた。
名前とは、こういうものなのだ。誰かに呼ばれ、自分の手で書き記して、初めて自分のものになる。
このときのリーゼはまだ、自分の名前がどこか遠くで、他人の手に渡りつつあることを知らなかった。
気がかりなことは、ほかにもあった。
実家からの手紙だ。援助金がまだ届かないと、父の字が控えめに伝えてきた。冬に備えた白木の買い付けを、待ってもらっているという。
リーゼは何度も本邸に面会を求めた。そのたびに、執事は同じ言葉を返した。
「旦那様はご多忙でいらっしゃいます」
手紙を託しても、返事は来なかった。
*
異変を知らせてきたのは、ミアだった。
ある朝、籠を抱えて駆け込んできたミアは、息を切らせて一枚の紙を差し出した。王都で売られている、社交欄の刷り物だ。
「奥様、これ……」
震える指が示した記事に、リーゼは目を落とした。
昨夜、王宮で開かれた夜会。そこに、ヴァイデン侯爵夫妻が揃って姿を見せたとある。
侯爵夫人、リーゼロッテ・ヴァイデン。旧姓グレンヴァルト。
月光を紡いだような銀の髪と、雪のような肌の持ち主。辺境育ちとは思えぬ優美さで、社交界の話題をさらった。記事は、そう褒めそやしていた。
リーゼは、自分の短い髪に指を触れた。栗色の、ごわついた毛先が指に引っかかる。
「わたし、昨夜は離れから一歩も出ていないわ」
「存じてます。だから、おかしいと思って」
ミアの声は、泣き出しそうに揺れていた。
その日の午後、リーゼは執事の制止を振り切って本邸へ踏み込んだ。
陽の差し込むサロンに、ギルベルトはいた。長椅子に身を預け、隣には銀髪の娘が寄り添っている。
刷り物の記事は、誇張ではなかった。腰まで届く髪は光を弾いて輝き、白い肌には染みひとつない。淡い薔薇色のドレスをまとったその姿は、絵に描いたような貴族令嬢そのものだった。
娘はリーゼを見るなり、小さく悲鳴を上げてギルベルトの腕にすがった。
「まあ、いやだ。どなた?」
「気にするな、セレナ。離れに置いてある女だ」
ギルベルトは、面倒くさそうに片眉を上げた。
リーゼは刷り物を卓の上に置いた。
「説明していただけますか。昨夜、わたしの名で夜会に出たのは、この方ですね」
ギルベルトは刷り物を一瞥し、鼻で笑った。
「見ればわかるだろう。代役だ」
「代役? 契約では、わたしを正当な夫人として扱うと」
「扱えるものなら、扱ったさ」
ギルベルトは立ち上がり、リーゼの前に立った。見下ろす目に、初対面の日と同じ嫌悪が浮かんでいる。
「その髪。その肌。その手。社交の場に連れて出せると思うか? お前を見るだけで虫唾が走る。生理的に無理なのだよ」
吐き捨てるような声だった。
「私が求めたのは、グレンヴァルトの名だ。お前自身ではない。名さえあれば、中身は誰でもいい。セレナのほうが、よほどその名にふさわしい」
セレナが扇で口もとを隠し、くすりと笑った。
「では、援助金は」
「払うわけがないだろう。妻の務めも果たせない女に」
「務めを果たさせなかったのは、あなたでしょう」
言い返した瞬間、ギルベルトの顔が赤く染まった。
「黙れ! 令嬢らしい見た目ひとつ保てない女が、何を偉そうに。悪いのはお前のほうだ。辺境の泥にまみれた田舎者を押しつけられて、私がどれほど恥をかいたと思っている」
怒鳴り声がサロンに響いた。卓の上の茶器が、小さく震える。
リーゼは黙って、男の顔を見つめていた。
ぎゅっと拳を握りかけて、すんでのところで踏みとどまった。弟との約束が頭をよぎったのだ。殴らない、と。もっとも、「たぶん」と付け足したのは自分だったけれど。
「……わかりました」
それだけ言って、リーゼはサロンを後にした。背中に、セレナの甘ったるい笑い声がまとわりついてきた。
*
翌日、リーゼは貴族院の戸籍局を訪れた。
大理石の床に、靴音が冷たく響く。窓口の役人は、日に焼けた顔と擦り切れた外套を見て、露骨に面倒くさそうな顔をした。
リーゼは事情を説明した。名を騙られていること。契約が守られていないこと。身分証を取り上げられたこと。
「身分を証明するものは?」
「ですから、それを取り上げられたのです」
「では、お話になりませんな」
役人は帳簿をめくりながら、欠伸をかみ殺した。
「ヴァイデン侯爵夫人でしたら、昨日も王宮の茶会にご出席だったと聞いております。証書も徽章も、侯爵家できちんと管理されておるはずです。仮にあなたの言うことが本当だとしても、証明できないのならどうにもなりません。お引き取りを」
食い下がろうとしたリーゼの肩を、衛兵が掴んだ。
そのまま、建物の外へと押し出される。背後で、重い扉が閉ざされる音がした。
石段の上に立ち尽くしたまま、リーゼは王都の空を見上げた。
雲ひとつない、澄んだ青だった。瘴気に濁ることのない空。この空の下で暮らす人々は、自分たちの平穏が何の上に成り立っているのか、考えたこともないのだろう。
名前を奪われた。身分を奪われた。援助の約束も反故にされた。
そして、それを訴える手段すら、もう残っていない。
不思議と、涙は出なかった。
胸の内にあるのは、怒りを通り越した静かな冷たさだった。森の奥で、手に負えない魔物と向き合ったときと同じ感覚だ。騒いでも仕方がない。退くべきときは退く。それが、生き延びるための鉄則だった。
「そういうことなら、致し方ありません」
誰に聞かせるでもなく呟いて、リーゼは石段を降りた。
*
その夜、離れに戻ったリーゼは、わずかな荷物をまとめた。
着替えが二枚。父が持たせてくれた短剣。ハンナ婆さんの髪紐。持ってきたものは、それですべてだった。侯爵家から与えられたものは、何ひとつない。
扉を叩く小さな音がした。ミアだった。
「行っちゃうんですね」
籠を抱えたまま、ミアは戸口に立ち尽くしていた。ランプの明かりに、そばかすの頬が濡れて光っている。
「ごめんね、ミア。黙って行くつもりだった」
「これ、持っていってください」
差し出された籠には、パンと干し果物、それに小さな布袋が入っていた。袋の中で、硬貨が数枚、乾いた音を立てる。
「だめよ。これは、あなたの仕送りの」
「いいんです。東門に、明け方に出る荷馬車があります。行商のおじさんで、うちの村の人です。辺境のほうまで行くって言ってました」
ミアは袖で目もとを拭い、精一杯の笑顔を作った。
「奥様は、わたしをちゃんと名前で呼んでくれた、はじめての人だから」
リーゼは何も言えず、ミアを抱きしめた。細い肩が、腕の中で震えていた。
いつか必ず、この恩を返す。そう心に決めて、リーゼは籠を受け取った。
夜明け前の王都は、青い靄に沈んでいた。
東門の脇で、幌つきの荷馬車が待っていた。行商の男はミアから話を聞いていたらしく、何も尋ねずに荷台の隅を空けてくれた。
車輪が石畳を踏む音が、まだ眠る街に響く。
遠ざかっていく王都の尖塔を、リーゼは一度だけ振り返った。朝日を受けて、白い壁が金色に染まり始めている。美しい街だった。そして、ひどく遠い街だった。
胸の隠しから、藍色の髪紐を取り出す。
短い髪を無理やり束ねて、きつく結んだ。結びきれなかった毛先が数本、頬をくすぐる。
「帰ろう」
声に出すと、腹の底に力が戻ってきた。
東の空の果て、まだ見えぬ地平の向こうに、あの黒い森が待っている。
第三章 守りをやめた日
領地の境を越えたのは、王都を発って十二日目の昼だった。
荷馬車の幌の隙間から、見慣れた灰色の大地がのぞく。痩せた麦。乾いた風。遠くに横たわる、黒い森の帯。王都の豊かな景色を見たあとでは、何もかもがみすぼらしく映るはずだった。
それなのに、リーゼは胸がいっぱいになった。
行商の男、ヨハンに礼を言い、村の入り口で荷台を降りる。ミアがくれた硬貨は、半分を運び賃として押しつけた。男は困ったように笑い、ミアに何か伝えることはあるかと尋ねた。
「元気でやっていると。それから、必ず迎えに行くと伝えて」
ヨハンは頷き、鞭を鳴らして街道を去っていった。
村へ続く道を歩き出したとき、丘の方角から灰色の影が駆けてきた。
土埃を巻き上げ、耳を伏せ、一直線に。リーゼが身構える間もなく、それは胸に飛び込んできた。
「グラウ!」
受け止めきれずに、尻もちをつく。
グラウは鼻を鳴らし、リーゼの顔じゅうを舐め回した。ふた月見ないうちに、ひと回り大きくなっている。脚は太く、毛並みには銀の筋が混じり始めていた。
「重くなったわね、あんた」
笑いながら首を抱くと、グラウは喉の奥で甘えた声を漏らした。
その後ろから、弟の声が追いかけてきた。
「待てってば、グラウ! 急にどうしたん……」
テオは、道の真ん中で足を止めた。
姉の姿を認めた瞬間、少年の顔から表情が抜け落ちる。それから、くしゃりと歪んだ。
「姉さん?」
「ただいま」
リーゼが立ち上がって土を払うと、テオは駆け寄りかけて、途中で止まった。髪紐で無理やり束ねた短い髪。痩せた頬。擦り切れた外套。ひとつひとつを確かめるように見て、少年は唇を噛んだ。
「殴った?」
「殴ってないわ。偉いでしょう」
テオは、泣き笑いのような顔で吹き出した。
屋敷の門をくぐると、台所の窓から母が顔を出した。
マルギットは何も尋ねなかった。濡れた手を前掛けで拭いもせずに外へ出てきて、娘を抱きしめた。洗い物の水の匂いと、浄化の光の名残のような、かすかに温かい匂いがした。
「おかえりなさい」
それだけだった。それだけで、十分だった。
リーゼは母の肩に顔を埋め、王都では一度も流れなかった涙を、少しだけこぼした。
*
その夜、書斎で事の次第を聞いた父は、長いあいだ黙っていた。
ランプの炎が、父の横顔に深い影を刻んでいる。杖を握る手の甲に、太い血管が浮いていた。
やがて父は、低く呻くように言った。
「わしが、甘かった」
「父さんのせいじゃないわ。決めたのは、わたし」
「いいや。娘を売るような真似をしたのは、わしだ」
父は杖をつき、壁際の古い櫃を開けた。中から取り出したのは、黄ばんだ羊皮紙の巻物だった。縁は擦り切れ、ところどころ虫に食われている。
広げられた羊皮紙には、古い書体で文字が綴られていた。末尾には、二つの印。片方はグレンヴァルトの狼の紋。もう片方は、王家の獅子の紋だ。
「建国の誓約書だ。初代グレンヴァルト伯と、初代国王が交わしたものだ」
父の指が、褪せた文字をなぞる。
グレンヴァルトは、森を封じる。魔物を退け、瘴気を浄め、国の東を守る盾となる。
王家は、グレンヴァルトを支える。盾が朽ちぬよう、民と糧と誉れをもって報いる。
「盾と、それを支える腕。二つで一つの約束だった。だが王家は、とうの昔に腕を引っ込めた。我々だけが、律儀に盾を構え続けてきたというわけだ」
父の声に、自嘲の色が混じった。
*
翌朝、屋敷の広間に家族と村の顔役たちが集まった。
鍛冶屋のトマス、ハンナ婆さん、羊飼いの頭。みな、リーゼの身に起きたことをすでに聞いていた。狭い村だ。噂は風より早く回る。
広間の空気は、重く沈んでいた。
口火を切ったのは、リーゼだった。
「国のための守りを、やめましょう」
ざわめきが走った。
「森の境界すべてに杭を打つのは、もうやめる。村と畑の周りだけを守る。浄化も、自分たちの暮らしに必要な分だけ。それ以外は、放っておくの」
トマスが、太い腕を組んで唸った。
「そんなことをしたら、魔物は西へ流れるぞ。王都のほうへ」
「ええ。流れるでしょうね」
リーゼは静かに答えた。
広間が、しんと静まり返る。誰もが、その意味を噛みしめていた。
何百年ものあいだ、この土地の者たちは森を押しとどめてきた。それが当たり前だった。自分たちが倒れても、森の外へは一匹も出さない。祖父も、その祖父も、そうやって生きて、死んでいった。
ハンナ婆さんが、皺だらけの手を膝の上で組み替えた。
「あたしの亭主はね、杭を打ちに行って帰ってこなかったよ。三十年前の冬さ」
誰も、口を挟まなかった。
「王都の連中は、あの人の名前なんか知りゃしない。お嬢の名前だって、平気で取り上げる。そんな連中のために、これ以上誰かが死ぬ道理はないね」
沈黙を破ったのは、父だった。
杖を床に突き、ゆっくりと立ち上がる。広間の全員が、領主の顔を見上げた。
「先に約束を破ったのは、向こうだ」
父は、建国の誓約書を卓の上に広げた。
「グレンヴァルトは今日をもって、国の盾であることをやめる。我らが守るのは、我らの民と、我らの土地だけだ。異論のある者は」
誰も、手を挙げなかった。
代わりに、トマスがにやりと笑った。
「じゃあ杭は、半分で済むってことか。こりゃ楽になる」
どっと笑いが起きた。張りつめていた広間の空気が、一気にほどけていく。
テオが、待ちかねたように手を挙げた。
「それなら、ひとつ提案があるんだけど」
少年が卓の上に広げたのは、手書きの帳面だった。魔猪の牙、魔狼の毛皮、瘴気を吸って育つ黒苔。森で獲れるものと、それが他所でいくらで売れるかが、細かい字でびっしりと書き込まれている。
「討伐した魔物の素材、今までは干し肉にする以外、ほとんど捨ててたでしょう。でも、牙は薬になるし、毛皮は防具になる。東の隣国じゃ、いい値で買ってくれる商人がいるんだ」
「いつの間に、そんなことを調べたの」
「姉さんが嫁いでから。仕送りがないなら、自分で稼ぐしかないと思って」
テオは照れくさそうに、鼻の頭を掻いた。
国のための討伐なら、魔物は倒して終わりだった。死骸を焼き、瘴気が広がらないよう浄化するだけで、手間ばかりがかかる。けれど、自分たちのための狩りなら話は違う。必要な分だけ狩り、獲物は余さず使う。
リーゼは弟の頭を、少し乱暴に撫でた。
見ないうちに、背丈が自分に追いつきかけていた。
*
守りをやめて最初の討伐は、それから三日後のことだった。
夜明け前、グラウが低く唸ってリーゼを起こした。村の北、羊の囲いのあたりだ。外套を引っかけて飛び出すと、すでにテオが弓を手に待っていた。
「三頭。魔猪だと思う。足跡が深い」
「群れの頭は」
「一番でかいのが、囲いの柵を嗅ぎ回ってる」
弟の声は落ち着いていた。リーゼは頷き、腰の剣を確かめた。
霜の降りた草地を、身を低くして進む。白い息が、闇に溶けていく。囲いの向こうで、羊たちが怯えて身を寄せ合っていた。
杭の外側に、黒い影が三つ。
これまでなら、群れを森の奥まで追い返すところだった。森の外へ一頭も出さないために、深追いし、ときには命を賭けて。
けれど、今は違う。
守るのは、この囲いと、この村だけだ。
リーゼがグラウの背を軽く叩くと、灰色の影が闇の中へ走り出した。わざと吠え立て、群れの頭目を杭の際へ誘い出す。苛立った頭目が、地面を蹴って突進してきた。
テオの矢が、その前脚を射抜いた。
頭目がよろめいた隙に、リーゼは横から踏み込み、首筋へ刃を叩き込む。重い手応えとともに、巨体が霜の上に崩れ落ちた。
残る二頭は、頭目を失って逃げ出した。森へ。あるいは、西の街道のほうへ。
リーゼは、追わなかった。
剣の血を払い、乱れた息を整える。東の空が、白み始めていた。
「追わなくて、いいんだね」
弓を下ろしたテオが、ぽつりと言った。
「いいのよ。もう、わたしたちの仕事じゃない」
口にしてみると、不思議なほど肩が軽かった。
夜が明けると、村の女たちが総出で魔猪を解体した。肉は干し肉と燻製に。脂は灯り油に。牙と毛皮は、テオの帳面に書き込まれていく。捨てるところは、どこにもない。
羊飼いの頭が、無事だった羊の頭数を数え終えて、深々と頭を下げてきた。
リーゼは笑って首を振った。羊を守ったのは、自分たちの暮らしのためだ。礼を言われる筋合いはない。それでも、朝日の中で笑い合う村人たちの顔を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
国のために命を削っていたころには、一度も感じたことのない温かさだった。
*
それからの日々は、拍子抜けするほど穏やかだった。
杭は、村と畑をぐるりと囲む分だけになった。打ち直しの手間は半分以下だ。浮いた時間で、男たちは畑を耕し、女たちは機を織った。母の浄化も井戸と畑に絞られ、夕暮れまでに台所へ戻れる日が増えた。
森の境界を越えた魔物たちは、杭に囲まれた村を避けるように、西へと流れていった。街道沿いに、ゆっくりと。長いあいだせき止められていた水が、低いほうへと流れ出すように。
リーゼとグラウは、毎朝、村の外縁を見回った。
グラウの鼻は、今では瘴気の濃淡を嗅ぎ分けるだけでなく、群れの数まで教えてくれる。村に近づく魔物だけを狩り、牙と毛皮を剥いで、テオの帳面に書き込む。
ひと月ごとに、ヨハンの荷馬車がやってきた。素材を積み込み、隣国で売りさばいて、代わりに麦や塩や布を運んでくる。ヨハンはいつも、ミアからの短い手紙を携えていた。たどたどしい字で、元気でいること、侯爵家の様子が少しおかしいことが綴られていた。
なかでも黒苔は、隣国で解毒薬の原料として高値で取引された。瘴気の濃い土地でしか育たない苔が、ここでは土手にいくらでも生えている。荷馬車が村へ運んでくる品は、月ごとに増えていった。子供たちの足には新しい革靴が履かされ、三年閉め切っていた東棟の屋根にも、冬を前にようやく新しい瓦が載った。国の支援金ではなく、自分たちの手で稼いだ金で。
秋の終わり、村で小さな祭りが開かれた。
広場に焚き火が燃え、魔猪の肉が串に刺されて脂を滴らせている。子供たちが歓声を上げて走り回り、男たちは自家製の果実酒を回し飲みしていた。
こんなに賑やかな祭りは、何年ぶりだろう。
焚き火のそばに座ったリーゼの隣に、ハンナ婆さんが腰を下ろした。
「伸びたね、髪」
言われて、リーゼは首筋に手をやった。藍色の髪紐で結んだ髪は、いつの間にか、肩に触れるほどになっていた。
「兜をかぶる回数が減ったから」
「いいことさ」
ハンナ婆さんは、焚き火に照らされた村人たちの顔を眺めて、目を細めた。
笑っている。誰もが。
リーゼは、王都の澄んだ空を思い出した。あの空の下で、自分は何ひとつ持っていなかった。名前も、居場所も。
けれど、ここには全部ある。
焚き火の向こうから、ヨハンが手を振りながら近づいてきた。荷馬車を降りたばかりらしく、外套に土埃が積もっている。
「お嬢、聞いたかい。西の街道で、魔物が出たそうだ」
ヨハンは声を潜めた。
「王都から来た役人の馬車が、襲われたとか。何でも、こっちへ向かう途中だったらしいよ」
リーゼは、果実酒の杯を傾けた。甘く、少しだけ苦い。
「そう。それは大変ね」
焚き火の爆ぜる音に、遠く、狼の遠吠えが重なった。
グラウが耳を立て、じっと森のほうを見つめていた。
第四章 辺境流の挨拶
冬の初めの朝、森の縁には薄く霜が降りていた。
枯れ草の一本一本が白く縁取られ、踏むたびに乾いた音を立てる。吐く息が白い。リーゼは外套の襟を立て、丘の上から西の街道を見下ろしていた。
隣で、グラウが低く唸っている。
街道の向こうに、土煙が上がっていた。
金の装飾を施した黒塗りの馬車が一台。その周りを、揃いの青い外套をまとった騎兵が六騎、固めている。馬車の扉には、獅子の紋章が陽に光っていた。
王家の使者だ。
「今ごろ、何の用かしらね」
呟いた直後、街道脇の藪が大きく揺れた。
飛び出してきたのは、魔猪の群れだった。五頭。いずれも仔牛ほどの大きさがあり、牙は瘴気に黒く染まっている。冬を前に、餌を求めて森から出てきたのだろう。
騎兵たちの馬が、一斉に棹立ちになった。
怒号と悲鳴が入り混じる。剣を抜いた騎兵がひとり、魔猪の突進をまともに受けて落馬した。残る者たちは陣形を立て直すこともできず、馬の首を返す。馭者が狂ったように鞭を振るい、馬車は道を外れかけながら向きを変えた。
来た道を、西へ。土煙を上げて、一目散に。
落馬した騎兵も、這うようにして仲間の馬の背にしがみつき、そのまま運ばれていった。
グラウが、リーゼの顔を見上げた。行くか、と問うように。
リーゼは首を横に振った。
「放っておきなさい。あの人たちは、ここまで来る気がないのよ」
魔猪の一頭くらい、王都の騎兵なら仕留められたはずだ。グレンヴァルトの者なら、十五の少年でも仕留める。彼らは戦うより先に、逃げることを選んだ。
この土地のために剣を抜く理由など、最初から持ち合わせていないのだ。
魔猪たちは街道の真ん中で鼻を鳴らし、やがて悠々と西へ歩き去っていった。
騎兵たちが去ったあとの街道に、一本の剣が残されていた。
落馬した騎兵が取り落としたものだろう。拾い上げてみると、柄には金の細工が施され、鍔には獅子の紋章が刻まれていた。鞘も、磨き上げられた革に銀の鋲が打たれている。
見事な拵えだった。少なくとも、見た目は。
リーゼは剣を抜き、軽く振ってみた。
眉をひそめる。重心が、柄のほうに寄りすぎていた。刃を陽にかざすと、表面はきれいに研がれているのに、芯のほうにかすかな濁りが見える。
村に持ち帰ると、鍛冶屋のトマスが目を輝かせた。
「王都の騎士の剣か。どれ、見せてみろ」
トマスは分厚い指で刃を弾き、耳を寄せて音を聞いた。それから、ふんと鼻を鳴らした。
「見かけ倒しだな。飾りに金をかけて、鋼をけちってやがる。これじゃあ魔猪の骨に当たったら、一発で欠けるぞ」
鍛冶場の炉に、火が入れられた。
トマスは金の細工を惜しげもなく外し、刃を炉の中へ差し入れた。ふいごが唸りを上げ、炎が赤から白へと色を変えていく。飛び散る火花が、薄暗い鍛冶場に星のように散った。
リーゼとテオは、戸口に並んでそれを眺めていた。グラウは熱を嫌って、外の冷たい土の上に寝そべっている。
「外した金の細工、どうするの」
テオが尋ねると、トマスは槌を振るいながら答えた。
「隣国で売れ。そこらの剣が三本は買えるぞ」
「さすが」
弟の目が、すっかり商人のそれになっていた。
槌の音が、規則正しく鍛冶場に響く。トマスは森で採れる黒鉄を少しずつ混ぜ込みながら、何度も何度も刃を打ち直していった。瘴気を吸った黒鉄は扱いが難しいが、鍛え上げれば並の鋼よりはるかに粘り強くなる。辺境の鍛冶屋だけが知る技だ。
日が傾くころ、剣は生まれ変わっていた。
金の飾りも、獅子の紋章も消えた。黒みを帯びた刃は無骨で、王都の騎士なら見向きもしないだろう。けれど、リーゼが振ってみると、刃は吸いつくように手に馴染んだ。
「いい剣ね」
「当たり前だ。こっちは毎日、命がかかってる」
トマスは汗を拭い、にやりと笑った。
「王都の連中は、剣を飾りだと思ってる。こっちじゃ、剣は鍬と同じだ。使えなきゃ、ただの鉄くずよ」
リーゼは、生まれ変わった剣を鞘に収めた。
見た目ばかり整えて、中身をけちる。王都の剣は、王都そのもののようだった。そして、それはきっと、あの侯爵家も同じだ。
剣は、そのままテオに譲られた。十五の少年の腰には少し長かったが、テオは嬉しそうに、何度も柄を握り直していた。
*
ミアからの手紙が届いたのは、その数日後だった。
ヨハンが持ってきた手紙は、いつもより厚かった。たどたどしい字が、何枚にもわたって続いている。
王都の西の村で、魔物に家畜が襲われたこと。川の水が濁り、井戸の水を飲んだ子供が熱を出したこと。それを受けて、王宮から侯爵家へ使いが来たこと。
辺境伯家の血を引く侯爵夫人ならば、瘴気を浄められるはずだ。どうか力を貸してほしい、と。
手紙の最後は、こう結ばれていた。
セレナさまは、毎日おへやで泣いています。だんなさまは、とてもこわい顔をしています。
リーゼは手紙を畳み、暖炉の火を見つめた。
「浄化の要請、ね」
隣で手紙を覗き込んでいた母が、困ったように眉を下げた。
「浄化は、血だけでできるものではないのよ。何年も修練を積んで、ようやく身につくものなのに」
「向こうは、そうは思ってないんでしょう。名前さえあれば、中身は誰でもいいそうだから」
自分で口にしておきながら、リーゼは苦い笑いを噛み殺した。
ギルベルトの言葉が、皮肉なかたちで跳ね返ってきている。名前だけを奪っても、その名に宿る力までは奪えない。
*
ギルベルトの使者がやってきたのは、雪のちらつく午後だった。
王家の一行とは違い、彼らは街道を避け、南の山道を回ってきたらしい。荒くれた傭兵を四人引き連れ、その真ん中で、見覚えのある男が馬に揺られていた。
侯爵家の執事だ。
かつて恭しく身分証を受け取った手が、今は手綱を握りしめて白くなっている。慣れない山道と寒さのせいか、上等な外套は泥にまみれ、頬はげっそりとこけていた。
屋敷の門の前で、執事は馬を降りた。出迎えたのは、リーゼと父、それに鍬や斧を手にしたトマスたち村の男衆だった。グラウが、リーゼの足もとで牙をのぞかせている。
執事は魔狼の姿にたじろぎ、それから、取り繕うように咳払いをした。
「奥様。お迎えに上がりました」
「奥様?」
「旦那様の、寛大なお心遣いでございます。奥様が無断で屋敷を離れられた件は、不問に付すとの仰せです」
リーゼは黙って続きを待った。背後で、父の杖が雪を踏む音がした。
執事は懐から書状を取り出し、読み上げた。
侯爵夫人は直ちに王都へ戻ること。戻ったのちは、離れにて静かに過ごすこと。人前には出ず、名乗らず、侯爵家の指示に従って浄化の務めを果たすこと。その功は、侯爵夫人のものとする。
つまり、こういうことだ。
セレナの影として、セレナの代わりに浄化をしろ。手柄はすべて、セレナのものになる。
「援助金の話は」
「旦那様は、奥様の働きぶり次第でご検討くださると」
トマスが、雪の上に唾を吐いた。
執事はそれを見て見ぬふりをし、声を一段低くした。
「お断りになるのでしたら、旦那様は辺境伯家を訴えるおつもりです。婚姻の契約を一方的に破り、妻の務めを放棄した、と。身分証は侯爵家にございます。どちらの言い分が通るか、おわかりでしょう」
それから、思い出したように付け加えた。
「ああ、それと。奥様の逃亡を手引きした下働きの娘は、すでに暇を出しました。紹介状もなく放り出しましたので、今ごろどうしているやら」
その言葉を聞いた瞬間、リーゼの中で何かが静かに切れた。
怒りは、熱くはなかった。むしろ冷たく、澄んでいた。森の奥で手負いの魔物と向き合うときと同じだ。間合いを測り、足を踏みしめ、迷わず踏み込む。
一歩。
執事が顔を上げた瞬間には、リーゼはすでに懐へ踏み込んでいた。
腰の入った硬い拳が、男の頬骨を正確に撃ち抜く。鈍い音がして、執事の体は後ろに吹き飛び、雪の上を転がった。上等な帽子が宙を舞い、泥の中へぽとりと落ちる。
傭兵たちが剣の柄に手をかけた。
同時に、村の男衆が一斉に鍬と斧を構えた。グラウが身を低くし、喉の奥から地鳴りのような唸りを上げる。傭兵たちの顔から、さっと血の気が引いた。
彼らの目が、素早く左右を走った。雇われた以上、執事を守るのが役目だろう。けれど、ここで剣を抜けばどうなるか。数でも地の利でも、分が悪いのは自分たちのほうだ。その計算が、顔に手に取るように浮かんでいた。張りつめた空気のなか、柄を握っていた指が、ゆっくりと離れていく。
正しい判断だ、とリーゼは思った。
リーゼは、雪の上で呻く執事を見下ろした。
「帰って、旦那様に伝えなさい」
声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「わたしは、あなたの望む影にはならない。名前を返す気がないのなら、二度と使いをよこさないで。次は、門の外に立つ前に追い返すわ」
執事は鼻血を押さえながら、這うようにして馬にすがりついた。傭兵たちも、ちらちらと魔狼を振り返りながら後に続く。雪の積もり始めた山道を、一行はもつれるように下っていった。
その背中が見えなくなってから、父が大きく息を吐いた。
「……見事な一撃だった」
「褒めないでよ、父さん」
言いながら、リーゼは拳を開いた。指の関節が赤く腫れ、じんじんと痛む。
テオが、門の陰から顔を出した。
「殴ったね」
「殴ったわ」
「たぶん、って言ってたもんね」
弟の満面の笑みに、リーゼは肩をすくめた。周りの男衆からも、こらえきれない笑いが漏れる。トマスが、これで杭打ちの腕も鈍らんなと豪快に笑い、リーゼの背中を叩いた。
けれど、リーゼの胸には別の重さが残っていた。
紹介状もなく放り出された、十四歳の娘。
王都の冬は、辺境ほどではないにせよ、寒い。行くあてのない娘がひとりで越せるほど、甘くはない。
*
それから五日後の夕暮れ、ヨハンの荷馬車が、いつもより早く村に着いた。
門の前で荷馬車が止まると、幌の中から小さな影が転がり出てきた。擦り切れた外套に、ぼさぼさの髪。雪道を長く揺られてきたのか、頬は真っ赤にかじかんでいる。
ミアだった。
「奥様!」
駆け寄ってきたミアは、リーゼの前で足を止め、くしゃりと顔を歪めた。
「わたし、追い出されちゃいました。それで、ヨハンおじさんに頼んで……迷惑だったら、ごめんなさい」
「迷惑なわけないでしょう」
リーゼは膝をつき、冷えきった小さな体を抱きしめた。
迎えに行くと約束したのに、向こうから来てしまった。それが申し訳なくて、そして、どうしようもなく嬉しかった。
「それと、奥様じゃないわ。リーゼでいいの」
ミアは鼻をすすりながら、こくこくと頷いた。
屋敷から、母が湯気の立つ椀を手に出てきた。グラウが、新しい客の匂いを確かめるように鼻を寄せる。ミアは一瞬びくりと身を固くしたが、グラウが手の甲をぺろりと舐めると、泣き顔のまま笑い出した。
その夜、暖炉の前で、ミアは王都で見聞きしたことを語った。
セレナが、王宮の命で西の村へ浄化に出向いたこと。村人たちの前で両手をかざし、祈りの言葉を唱えたこと。そして、何も起きなかったこと。
濁った井戸を前に立ち尽くすセレナを、村人たちがどんな目で見ていたか。それを語るミアの声は、小さく震えていた。
「みんな、言ってました。辺境伯のお姫さまなのに、どうして、って」
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。
リーゼは、揺れる炎を黙って見つめていた。
名前だけを奪っても、その名に宿るものまでは奪えない。そのことに、王都の人々がようやく気づき始めている。
窓の外では、雪が音もなく降り積もっていた。
第五章 剥がれた嘘
宰相補佐ラインハルト・オーベルクの執務机は、ここひと月で報告書の山に埋もれていた。
西の街道で、商隊が魔物に襲われた。西部の三つの村で、家畜が食い荒らされた。王都の西を流れるリーベ川の水が濁り、下流の町で熱病が出た。
どの報告書にも、同じ言葉が並んでいる。前例なし。原因不明。
ラインハルトは眼鏡を外し、眉間を指で揉んだ。三十を少し過ぎたばかりだというのに、この冬で白髪が増えた気がする。
窓の外では、王都の尖塔が冬の薄日に白く光っていた。石畳を行き交う人々の足取りは、まだのどかだ。噂は届き始めているが、自分の身に降りかかるとは誰も思っていない。
つい半年前まで、ラインハルト自身もそうだった。
原因を探して、彼は王宮の書庫に三日籠もった。
埃をかぶった棚の奥から引きずり出した記録は、どれも同じ方向を指していた。
魔物の被害は、決まって東から始まっている。そして、東の辺境に接するグレンヴァルト領を越えて西へ出てきた魔物の記録は、この二百年でただの一件もなかった。
ここ数か月を除いては。
最後に開いた古い箱の底に、それはあった。
黄ばんだ羊皮紙の写し。建国の誓約書だ。グレンヴァルトは森を封じる盾となり、王家はその盾を支える。そう記された文言の下に、二つの紋章が並んでいる。
ラインハルトは、続けて財務の記録を繰った。
グレンヴァルトへの支援金は、三十年前に半分に削られていた。十年前に、さらに半分。そして昨年、辺境伯からの爵位返上の願いを退けた際の記録には、わずかな見舞金の額と、担当官の走り書きが残されていた。
捨て置いても差し障りなし。
ラインハルトは、しばらくその一行から目を離せなかった。
「差し障りなし、か」
乾いた笑いが、静まり返った書庫に吸い込まれていった。
報告を聞いた宰相は、白い髭を撫でながら気だるげに頷いた。
「建国の誓約など、おとぎ話のようなものだ。今さら持ち出してどうする」
「おとぎ話ではありません。現に、彼らが守りをやめた途端に、魔物が西へ流れ出しています」
「守りをやめた? それは反逆ではないか」
宰相の目が、細く光った。
ラインハルトは、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。先に約束を破ったのはどちらか。それを口にしたところで、この老人の耳には届かないだろう。
「まずは、辺境伯家と話をすべきです」
「王家の使者なら、魔猪に追われて逃げ帰ってきたと聞いたが」
宰相は鼻で笑い、手を振ってラインハルトを下がらせた。
*
同じころ、ヴァイデン侯爵邸の一室で、セレナは鏡の前に座っていた。
鏡の中には、銀の髪と白い肌の娘が映っている。幼いころから、母に言われ続けてきた。あなたの取り柄は、その見た目だけ。だから、髪の一筋、肌の染みひとつにまで気を配りなさい、と。
男爵家は、父の代で傾いた。借金は膨らみ、屋敷の調度品は次々と売られていった。そんなとき、ギルベルトが手を差し伸べてきた。借金はすべて肩代わりする。その代わり、ある女の代わりを務めてくれ、と。
断る理由など、どこにもなかった。
グレンヴァルトの名を名乗り、美しく着飾って、夜会で微笑んでいればいい。それだけで、家族が救われる。そう思っていた。
西の村へ、浄化に向かわされた日までは。
セレナは、自分の両手を見つめた。白く、細く、爪の先まで磨き上げられた手。母が自慢した手。
あの日、この手を濁った井戸にかざしても、何も起きなかった。
祈りの言葉を三度唱えた。四度目には、声が震えていた。井戸を取り囲む村人たちの目が、期待から戸惑いへ、戸惑いから疑いへと変わっていくのが、手に取るようにわかった。
熱にうなされる子供を抱いた母親が、すがるように言ったのだ。
お願いします、辺境伯のお嬢様。この子を助けてください、と。
セレナは、何も答えられなかった。
鏡越しに、扉が開くのが見えた。
ギルベルトだった。苛立ちを隠そうともせず、大股で部屋に入ってくる。
「冬至の夜会には、予定どおり出るぞ」
「でも、旦那様。あの村のことは、もう噂に」
「だからこそだ。堂々と顔を出して、噂を黙らせる。お前は、笑っていればいい」
ギルベルトは、鏡の中のセレナを見下ろした。
その目に映っているのが自分ではないことに、セレナは気づいていた。この男が見ているのは、グレンヴァルトの名と、それを飾る見た目だけだ。母と同じように。
「わたしは、浄化なんてできません」
「できなくていい。あの田舎女は、次こそ力ずくでも連れ戻す。それまで、お前は名前を守っていろ」
吐き捨てるように言って、ギルベルトは部屋を出ていった。
扉の閉まる音が、やけに大きく響いた。
セレナは鏡に向き直り、震える指で髪を梳いた。銀の髪が櫛に絡んで、数本抜け落ちる。ここひと月で、眠れない夜が増えた。目の下には、白粉でも隠しきれない影が浮いている。
見た目しか取り柄がない。その見た目すら、少しずつ崩れ始めていた。
セレナは櫛を置き、鏡の中の自分から目を逸らした。
辺境に逃げ帰ったという本物のリーゼロッテは、今ごろどんな顔をしているのだろう。日に焼けて、髪もぼさぼさで、それでも。
きっと、自分よりはずっとましな顔をしている。そんな気がした。
*
冬至の夜会は、例年どおり盛大に催された。
王宮の大広間には千の燭台が灯され、天井のシャンデリアが虹色の光を降らせている。楽団が優雅な円舞曲を奏で、色とりどりのドレスが花のように広間を彩っていた。西の村々で家畜が食われ、子供が熱に苦しんでいることなど、ここでは誰も口にしない。
ラインハルトは壁際に立ち、葡萄酒の杯を手に広間を眺めていた。
視線の先に、ヴァイデン侯爵夫妻がいる。
ギルベルトは相変わらず華やかに着飾っていたが、その笑顔はどこか強張っていた。腕にすがる侯爵夫人は、噂どおりの美しさだ。銀の髪を高く結い上げ、真珠の首飾りが白い喉もとで光っている。
けれど、ラインハルトの目には、その顔色がひどく青ざめて見えた。
西の村での浄化の失敗は、すでに貴族たちのあいだで囁かれ始めている。扇の陰から向けられる視線を、侯爵夫人は懸命に笑顔で受け流していた。
異変は、円舞曲が三曲目に差しかかったときに起きた。
庭園に面した硝子扉の向こうで、悲鳴が上がった。
次の瞬間、硝子が砕け散った。冷たい夜気とともに、黒い影が二つ、広間へ躍り込んでくる。
魔狼だった。
その毛並みは、瘴気を吸って煤のように黒ずんでいる。赤く濁った目。牙の間から、黒い涎が糸を引いて床に垂れた。川沿いの水路を伝って入り込んだのか。考える暇もなく、広間は恐慌に陥った。
ドレスの裾を踏んで転ぶ令嬢。燭台を倒して逃げる楽師。悲鳴と怒号が入り混じり、千の灯が揺れる。
近衛騎士たちが剣を抜いて駆けつけた。だが、魔狼は斬られても怯まない。瘴気に侵された獣は、痛みを知らないのだ。
「浄化を! 瘴気を祓わなければ、止まらんぞ!」
騎士団長の怒声が響いた。
その場にいた全員の目が、ひとりの女に向けられた。
辺境伯家の血を引く、侯爵夫人。
「リーゼロッテ様! どうか、お力を!」
誰かが叫んだ。人垣が割れ、侯爵夫人の前に道ができる。その先で、魔狼が低く唸りながら身を屈めていた。
侯爵夫人は、震えていた。
白い顔から血の気が引き、真珠の首飾りが小刻みに揺れている。ギルベルトが、その背を乱暴に押した。
「何をしている。やれ! お前は、グレンヴァルトの娘だろう!」
「できるわけないでしょう!」
悲鳴のような声が、広間に響き渡った。
「わたしはリーゼロッテなんかじゃない! セレナよ! 男爵家の、ただのセレナなの! あの女の代わりをしろって言ったのは、あなたじゃない!」
広間が、凍りついた。
魔狼の唸り声だけが、静まり返った空間に響いている。
その静寂を破ったのは、騎士団長の剣だった。魔狼の首を落とし、続けてもう一頭の胴を貫く。黒い血が大理石の床に広がり、獣はようやく動かなくなった。
だが、誰もそちらを見ていなかった。
千の視線が、ヴァイデン侯爵夫妻に突き刺さっている。
ギルベルトは、口を半開きにしたまま立ち尽くしていた。整った顔が、みるみる土気色に変わっていく。セレナはその場に崩れ落ち、声を上げて泣き出した。
壁際で一部始終を見ていたラインハルトは、静かに杯を置いた。
ようやく、糸が一本につながった。
*
その夜のうちに、ヴァイデン侯爵邸は近衛によって封鎖された。
ラインハルト自ら立ち会った家探しは、半刻もかからずに終わった。ギルベルトの書斎の、鍵のかかった引き出し。その奥から、革の筒が見つかった。
中には、グレンヴァルトの狼が刻まれた銀の徽章と、王家の印が押された貴族籍の証書。
証書に記された名は、リーゼロッテ・グレンヴァルト。
ラインハルトは、それを手のひらに載せた。徽章は小さく、思いのほか軽かった。この軽い銀の欠片ひとつで、ひとりの人間の名前と身分が奪われたのだ。
捕らえられた執事は、腫れの引かない頬を押さえながら、すべてを白状した。契約のこと。援助の反故。身分証の取り上げ。辺境まで出向いて、奥方に殴り飛ばされたこと。
最後のくだりで、立ち会った近衛のひとりが、咳払いで笑いをごまかした。
ギルベルトは、取り調べの席で最後まで喚き続けた。
「私は騙されたのだ! あんな田舎娘を押しつけられて、侯爵家の体面がどうなると思う。悪いのは、令嬢らしくもないあの女のほうだ!」
ラインハルトは、黙ってその顔を見つめた。
この男は、最後まで何もわかっていない。自分が何を手放したのかも。
「あなたは、あの方の名前を奪った」
ラインハルトは、静かに言った。
「その名前が、何を背負っていたのかも知らずに」
*
三日後、王の御前で会議が開かれた。
居並ぶ重臣たちの結論は、あらかじめ決まっていたようなものだった。
ヴァイデン侯爵ギルベルトは、婚姻契約の詐欺、身分の詐称、ならびに辺境伯家への不当な扱いの罪に問われる。爵位は剥奪。財産は没収。
そして、此度の魔物被害は、侯爵の非道に憤った辺境伯家が一時的に守りを緩めたことによるものとする。王家は辺境伯家の名誉回復に努め、事態の収拾を図る。
ラインハルトは、その発表文の草案を読んで、奥歯を噛みしめた。
どこにも、王家の名はなかった。三十年かけて支援を削り、捨て置いても差し障りなしと書き捨てた過ちは、一行も記されていない。すべての罪は、ひとりの愚かな侯爵が背負うことになる。
国の威信のために。
会議が終わったあと、ラインハルトは宰相を呼び止めた。
「辺境へは、私が参ります」
「お前が? また魔猪に追い返されるだけだぞ」
「ならば、歩いて参ります」
宰相は呆れたように眉を上げ、それから肩をすくめた。好きにしろ、という意味だった。
翌朝、ラインハルトは供を二人だけ連れて、王都の東門を出た。
胸の隠しには、革の筒が収められている。銀の徽章と、貴族籍の証書。
これを、持ち主に返す。それが、この国が最初にすべきことだ。そして、おそらくは最も小さな償いに過ぎない。
東の空は、鉛色の雲に覆われていた。その向こうに、まだ見ぬ辺境と、名を奪われた令嬢がいる。
ラインハルトは手綱を握り直し、凍てついた街道へ馬を進めた。
第六章 見捨てられた土地の答え
冬の終わりは、辺境でいちばん危うい季節だ。
雪解けとともに、森の奥で冬を越した魔物たちが飢えて這い出してくる。ぬかるんだ大地からは瘴気が立ちのぼり、朝靄に混じって鼻の奥をつんと刺した。
その朝、見回りに出たリーゼを、グラウが強く引いた。
いつもの道ではない。西の街道へ下る、丘の斜面のほうだ。鼻先を地面すれすれに這わせ、耳を伏せている。群れの気配だ、とリーゼは察した。それも、かなり近い。
斜面を駆け下りると、街道脇の岩場に、三つの人影が追い詰められていた。
取り囲んでいるのは、魔狼の群れだった。七頭。瘴気に黒ずんだ毛並みが、靄の中で揺らめいている。人影のうち二人は剣を構えているが、腰が引けていた。真ん中のひとりは、剣すら持っていない。木の枝を一本握りしめ、それでも二人の前に立とうとしていた。
馬の姿は、どこにもなかった。
「グラウ」
短く呼ぶと、灰色の影が矢のように飛び出した。
群れの頭目に横から食らいつき、そのまま泥の中へ引き倒す。群れが乱れた隙に、リーゼは岩場へ踏み込んだ。剣を抜き、一頭目の首を払う。返す刃で、二頭目の前脚を断つ。
血と泥が跳ねた。
残る魔狼たちは頭目を失い、低く唸りながら後ずさった。やがて、森のほうへと逃げ散っていく。
リーゼは剣の血を払い、振り返った。
枝を握りしめたままの男が、呆然とこちらを見ていた。三十がらみの、痩せた男だ。上等そうな外套は泥にまみれ、眼鏡の片方の硝子にはひびが入っている。
「怪我は?」
「……ありません。おかげさまで」
男は枝を下ろし、ようやく自分が何を握っていたのかに気づいたように、それを見つめた。
「馬は、どうしたの」
「三日前に、魔猪に驚いて逃げました。それからは、歩いて」
男は泥だらけの顔で、生真面目に一礼した。
「宰相補佐、ラインハルト・オーベルクと申します。グレンヴァルト辺境伯家に、お届けするものがあって参りました」
グラウが、男の匂いを確かめるように鼻を鳴らした。ラインハルトは一瞬だけ身を固くしたが、逃げはしなかった。
王家の使者は、魔猪の群れを見ただけで逃げ帰った。この男は、馬を失っても歩いてきた。
リーゼは剣を鞘に収めた。
「屋敷まで案内するわ。歩けるなら」
「歩けます」
即答だった。
歩き出す前に、ラインハルトはグラウの前で足を止めた。しばらく迷うように手をさまよわせてから、ぎこちなく頭を下げる。
「……助かりました」
グラウは鼻を鳴らし、ふいと顔を背けて先に歩き出した。ラインハルトが所在なげに手を下ろすのを見て、リーゼは笑いを噛み殺した。
*
屋敷の広間で、ラインハルトは父と向き合った。
暖炉に薪がくべられ、母が温めた葡萄酒を運んでくる。ミアが不安そうに戸口から覗き、テオは壁にもたれて腕を組んでいた。リーゼは父の隣に座り、使者の顔をまっすぐに見据えた。
ラインハルトは懐から、革の筒を取り出した。
見覚えのある筒だった。リーゼの胸が、どくんと鳴った。
「ヴァイデン侯爵の書斎から、見つかりました」
卓の上に置かれた筒を、リーゼは震える指で開けた。
銀の徽章。森を背に剣を掲げる狼。そして、王家の印が押された貴族籍の証書。
証書に記された名を、リーゼは指でなぞった。
リーゼロッテ・グレンヴァルト。
たったそれだけの文字だった。けれど、王都の石段の上で失ったものが、すべてそこにあった。
「遅くなりました。本来なら、真っ先にお返しすべきものでした」
ラインハルトが、深く頭を下げた。
リーゼは、すぐには言葉が出なかった。徽章を握りしめると、冷たい銀が少しずつ手のひらの熱を吸っていく。母がそっと、娘の肩に手を置いた。
ラインハルトは、王都で起きたことを包み隠さず語った。
冬至の夜会。セレナの告白。ギルベルトの捕縛。
ギルベルトは爵位を剥奪され、財産はすべて没収された。今は西部の瘴気に侵された土地へ送られ、労役についているという。杭を打ち、泥をすくい、汚れた水路を掘り返す日々だそうだ。
ラインハルトは、眉ひとつ動かさずに付け加えた。
「監督官の報告では、ひと月で爪はすべて割れたそうです。ご自慢の髪も泥で固まって、今では見る影もないと」
セレナは男爵家から勘当された。今は西部の施療院に身を寄せ、熱病の子供たちの世話をしているという。磨き上げられていた白い手は、すっかり荒れてしまったそうだ。
「杭打ちを、ね」
リーゼは小さく呟いた。
割れた爪。泥に固まった髪。日に焼けた顔。かつて自分が蔑んだものを、今はあの男自身がまとっている。王都の誰かが今の彼を見たら、生理的に無理だと顔を背けるのだろうか。
いい気味だ、と思った。思ってから、胸がすっとしている自分に気づいて、リーゼは苦笑した。
壁際で、テオが盛大に吹き出した。
ラインハルトは、姿勢を正した。
「本題に入ります。王家は、グレンヴァルト家に、これまでどおり森の守りを担っていただきたいと願っております」
広間の空気が、すっと冷えた。
「これまでどおり、とは」
父が、低い声で問い返した。
「申し上げにくいことですが、王都での公の発表では、此度の魔物被害はヴァイデン侯爵の非道に端を発したものとされています。王家の名は、どこにも出ておりません」
ラインハルトは、そこで言葉を切った。
眼鏡の奥の目が、まっすぐにリーゼと父を見ていた。
「ですが、私は書庫で記録を見ました。三十年かけて支援を削り、捨て置いても差し障りなしと書き捨てたのは、王家です。先に誓約を破ったのは、我々のほうだ。公にはできませんが、それだけは、この場で認めます」
ラインハルトは椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。
「どうか、お力をお貸しください。西部では、瘴気に侵された水で、今も子供たちが熱に苦しんでいます。民に、罪はありません」
頭を下げたままの男を、リーゼは黙って見つめていた。
誠実な人なのだろう、と思う。都合の悪い記録から目を逸らさず、馬を失っても歩いてきた。王都で出会った誰よりも、まともな人間だ。
けれど、だからこそ。その言葉の底に沈んでいるものが、はっきりと見えてしまった。
「顔を上げて」
静かな声に、ラインハルトがゆっくりと身を起こす。
「民に罪はない。ええ、そのとおりね」
リーゼは、窓の外に目をやった。灰色の畑の向こうに、村の墓地がある。粗末な木の墓標が、春を待つ風に傾いていた。
「でも、この土地の民にも、罪はなかったわ」
ラインハルトの肩が、かすかに強張った。
「ハンナの旦那さんは、杭を打ちに行って帰ってこなかった。三十年前の冬よ。父の脚は、十年前の討伐で魔物に噛み砕かれた。去年の冬には、熱を出した赤ん坊に薬が買えなくて、母親がひと晩じゅう抱いて泣いていた。そのとき王都から、誰が来たの?」
答えは、なかった。
「誰も来なかったわ。わずかな見舞金と、捨て置いても差し障りなしの一行。それが、王都の答えだった」
リーゼは、卓の上に広げられた建国の誓約書に指を置いた。
「あなたは、ここへ来る前に考えたはずよ。記録を認めて、頭を下げて、民の命がかかっていると言えば、グレンヴァルトは動く。何百年も黙って盾を構えてきた一族だもの。どうせ見捨てられやしない、って」
ラインハルトの顔から、すっと血の気が引いた。
図星だったのだ。眼鏡の奥の目が、初めて揺らいだ。
「……否定は、できません」
絞り出すような声だった。
「それが、この三十年、王家がわたしたちにしてきたことよ。魔物や瘴気の恐ろしさを忘れて、こちらの責任感に甘えて、何も返さない。あなたは他の誰よりもましだけれど、やっていることは同じ」
広間が、しんと静まり返った。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、やけに大きく響く。壁際のテオが、息を詰めて姉の横顔を見つめていた。ミアは戸口で、両手を胸の前で固く握りしめている。
「それに、公にはできないけれど認める、と言ったわね」
リーゼは、ラインハルトの目をまっすぐに見返した。
「この部屋の中だけの謝罪で、誰が救われるの。死んだ者の名前は、どこにも残らない。王都の人たちは、明日もあの侯爵ひとりを憎んで、それで終わり。あなたの気が少し晴れるだけよ」
「では、国が倒れても構わないと? この領地とて、無事では済みますまい」
ラインハルトの声に、わずかに焦りが滲んだ。
答えたのは、リーゼではなかった。
「さて、どうでしょうな」
それまで黙っていた父が、杖に両手を重ねて口を開いた。
「東の隣国の商人たちは、うちの黒苔や魔物の素材を、王都の倍の値で買っていく。近ごろは、向こうの領主殿からも、ぜひ一度ご挨拶をと書状が届く始末でしてな。王都がなくとも、我々はさほど困らんのですよ」
穏やかな口調だった。だが、その意味がわからないほど、ラインハルトは愚かではなかった。
辺境伯領が隣国と結べば、国の東は丸裸になる。森を封じる盾は、そのまま隣国の盾に変わるのだ。
ラインハルトは、長いあいだ口を開かなかった。
膝の上で握りしめた拳が、白くなっている。泥に汚れた外套。ひびの入った眼鏡。王都から歩き通してきた男の肩が、初めて小さく見えた。
やがて彼は眼鏡を外し、ひびの入った硝子を指でなぞった。
「私は、思い上がっていたようです」
かすれた声だった。
「王都の誰よりも、この土地のことをわかっているつもりでした。記録を読み、誓約を知り、それで十分だと。ですが、私が知っていたのは紙の上のことだけだった。その紙の向こうで、あなた方が何を失ってきたのか。本当には、考えていなかった」
眼鏡をかけ直し、ラインハルトは背筋を伸ばした。
そこにはもう、頭を下げて許しを乞う使者の顔はなかった。交渉の席に着いた、ひとりの男の顔だった。
「グレンヴァルト家の要求を、お聞かせください。王家の代理として、すべて持ち帰ります」
リーゼは父と目を見交わした。父が、かすかに頷く。
リーゼは、誓約書の上に手を置いた。
「ひとつ。ヴァイデン家との婚姻を、正式に無効とすること。わたしの名前と身分を、記録の上でも元に戻すこと」
「必ず」
「ふたつ。守りは、もう義務としては引き受けない。王家とは、契約を結び直します。森のどこを、どれだけ守るか。その対価がいくらか。すべて紙に書いて、王家の印を押してもらう。この土地のことはこの土地の者が決めて、王都に口出しはさせない」
ラインハルトは懐から紙とペンを取り出し、泥に汚れた指で書き留めていく。
「みっつ」
リーゼの声が、一段低くなった。
「新しい契約書の頭に、一文を入れること。王家は建国の誓約を怠り、グレンヴァルトの民を見捨てた。それを認める、と。王家の印を押して」
ペンが、止まった。
「それは」
ラインハルトが顔を上げた。
王家に、文書で過ちを認めさせる。それがどれほどのことか、宰相補佐である彼にわからないはずがない。公の発表で、すべての罪をひとりの侯爵に押しつけた王家だ。威信を何より重んじる重臣たちが、首を縦に振るとは思えなかった。
「公にしろとは言わないわ。広場に張り出せとも言わない。でも、紙の上には残してもらう。この土地で死んだ人たちのために。そして王家が二度と、この土地を裏切らないように」
リーゼは、ゆっくりと言葉を継いだ。
「それができないなら、この話はここまでよ。お引き取りを」
ラインハルトは、目を閉じた。
長い沈黙が落ちた。暖炉の薪が崩れ、火の粉が小さく舞い上がる。
やがて、彼は目を開けた。
「宰相も重臣たちも、猛反対するでしょう。正直に申し上げて、通せるかどうかはわかりません」
「でしょうね」
「ですが、通らなければ、私がここへ戻ってきて、そう報告します。そのときあなた方が隣国と結ぶとしても、それを止める言葉を、私は持ちません」
リーゼは、目の前の男をあらためて見つめた。
口先だけの約束ではなかった。この男は、自分の首を賭けている。王都の誰も、そんなことはしなかった。
「それまでのあいだ、西の街道筋だけでも守っていただくことは、できませんか。子供たちのために、とはもう申しません。王家の代理として、取引をお願いしたい」
言い直したラインハルトに、リーゼは小さく笑った。少しは、わかってきたらしい。
「いいわ。ただし、対価は前払い。相場の三倍よ」
「三倍」
「歩いてきたあなたに免じて、三倍で済ませてあげるの」
ラインハルトは、しばらく呆気にとられた顔をしていた。
それから、ひびの入った眼鏡を押し上げ、力なく笑った。
「手強い方だ。王都の古狸どもを説き伏せるより、よほど骨が折れる」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
戸口のミアが、ほうっと大きく息を吐いた。
*
春の訪れは、ひと月遅れでやってきた。
ラインハルトが王都へ戻ってから、ふた月。ヨハンの荷馬車が、王家の印が押された契約書を運んできた。前払いの対価と、婚姻無効の通知書と、ラインハルトからの短い手紙を添えて。
契約書の頭には、小さな字で一文が記されていた。
王家は建国の誓約を怠り、グレンヴァルトの民に報いることをしなかった。これを認める。
公の発表には、一行も載らなかった。それでも、王家の印が押された紙の上に、それは確かに刻まれていた。
リーゼはその一文を、ハンナ婆さんに読んで聞かせた。婆さんは何も言わなかった。皺だらけの指で文字をなぞり、長いこと目を閉じていた。
ラインハルトの手紙には、古狸どもは三匹ほど噛み殺してやりました、とだけ書かれていた。
リーゼは声を上げて笑い、手紙を母に回した。
村の広場では、春の祭りの支度が始まっていた。
灰色だった畑の一角に、今年は薄緑の芽が出ている。母とミアが、根気よく浄化を続けた区画だ。ミアには、わずかながら浄化の素質があった。母の手ほどきを受けて、井戸ひとつを澄ませられるようになったのは、つい先週のことだ。
この春、ミアは故郷の母へ、初めて自分の手で手紙を書いた。代筆の神父に頼らず、リーゼに教わった字で、一文字ずつ。封をする前に、ミアは何度も、宛名と自分の名前を指でなぞっていた。
子供たちが花冠を編み、男たちは新しい白木の杭を削っている。村を囲む杭と、契約に記された街道筋の杭。それ以上は、打たない。
ヨハンの荷馬車は、もう一台では足りなくなっていた。黒苔の噂を聞きつけた隣国の商人が、自ら馬車を仕立てて買い付けに来るようになったのだ。王都では麦の値が上がり続けていると聞く。見捨てられたはずの土地のほうが、今ではよほど豊かに腹を満たしていた。
リーゼは、丘の上から村を見下ろしていた。
風が、髪をなびかせた。藍色の髪紐で結んだ栗色の髪は、もう肩を越えている。それでも、王都の令嬢たちに比べれば、まだまだ短い。肌は相変わらず日に焼けていて、手のひらは硬い。
それでいい、とリーゼは思った。
この髪も、この肌も、この手も。全部、この土地で生きてきた証だ。
「リーゼ!」
丘の下から、弟の声がした。
テオが大きく手を振っている。その隣で、ミアが跳ねるようにして叫んだ。
「リーゼさん! 祭りの準備、手伝ってくださーい!」
広場のほうからも、声が上がる。
「お嬢!」
「リーゼロッテ様ぁ!」
ハンナ婆さんの嗄れた声。子供たちの甲高い声。トマスの野太い声。
みんなが、自分の名前を呼んでいる。
王都では、誰ひとり呼んでくれなかった名前。書類の上で奪われ、他人のものにされていた名前。それが今、春の風に乗って、こんなにも当たり前に響いている。
胸の奥が、じんと熱くなった。
リーゼは胸の隠しに手を当てた。そこには、銀の徽章が収まっている。けれど、名前を本当に取り戻させてくれたのは、この小さな銀の欠片ではない。
足もとで、グラウが急かすように鼻を鳴らした。
「わかってる。行くわよ」
リーゼは、丘を駆け下りた。
背後には、黒い森が今日も静かに横たわっている。国に見捨てられた土地。見捨てられた民。
けれど、ここには帰る場所があって、名前を呼んでくれる人たちがいる。
それだけあれば、どこまでだって逞しく生きていける。




