第9話 透明
水曜日の朝。結衣が死んでから四日。
智也は目を開ける。天井のシミ。もう何度目かわからない、この天井。しかし今朝は見え方が違う。シミの輪郭が妙にくっきりしている。壁の質感、窓から差し込む光の粒子、カーテンの繊維の一本一本。世界の解像度が上がっている。
自分の体の解像度だけが、下がっている。
手を顔の前にかざす。昨日の夕方はうっすらだった透過が、一晩で進行している。手のひらの向こうに天井のシミが見える。握る。感触はある。骨の硬さ、筋肉の収縮。自分の体は自分には感じられる。ただ、世界のほうが智也を感じられなくなっている。
立ち上がる。洗面台の鏡。映っている。映っているが、輪郭がにじんでいる。顔のパーツはわかるが、「誰の顔か」が読み取りにくい。自分で自分の顔を見て、一瞬「誰だっけ」と思う。
シャワーを浴びる。水は体に当たる。まだ物理的な実体はある。タオルで拭く。服を着る。白シャツに袖を通す。紺のスラックス。量産品の身なり。
やるべきことが残っている。立ち止まっている暇はない。
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外に出る。
十月の朝。空気が冷たい。息が白くなる——はずだが、智也の吐く息は白くならない。体温が世界に影響を与えなくなっている。
歩く。足は地面を踏んでいる。まだ踏んでいる。しかし足音が小さい。以前より確実に小さい。アスファルトが智也の体重を受け止めきれていないような、半分だけ接地しているような感覚。
駅に向かう。改札。ICカードをかざす。
反応しない。
もう一度かざす。反応しない。カードリーダーが智也の手を——智也がカードを持っているという事実を——認識できなくなっている。
有人改札の駅員は、智也を見ていない。目の前を通り過ぎても、視線が追わない。
智也は改札の横をすり抜ける。ゲートのセンサーが反応しない。機械にとっても「いないもの」になりかけている。
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ゼノファーマのオフィスビル。
昨夜、菜紗にメッセージを送った。「お姉さんの勤務先に私物を引き取りに行くとき、ロッカーの中のファイルの中身を丁寧に確認してください」。返信は「わかりました」。
今日の午前中、菜紗が遺族としてゼノファーマに結衣の私物を引き取りに来る。昨日のうちに菜紗が会社に連絡を入れ、今日のアポイントを取り付けた。
智也はビルのロビーで待つ。もう誰にも認識されない。ソファに座っていても、目の前を通る社員の視線が一切向かない。完全な透明。
十時過ぎ。菜紗がビルに入ってくる。受付で「小野寺結衣の遺族です」と名乗る。担当者が迎えに来る。総務部の女性。事務的な表情で菜紗を案内する。
智也は後をついていく。菜紗のすぐ後ろ。総務の女性は智也を認識していない。菜紗も——昨日までは辛うじて智也を見ることができたが、今日はもう見えていない。ただ、智也が近くにいると、菜紗は時折後ろを振り返る。「誰かがついてきている気がする」。名前も顔もない、ただの気配。
エレベーターで上階に上がる。社員用フロア。結衣が使っていたロッカーのある更衣室に通される。
総務の女性がロッカーを開ける。中身は少ない。予備のブラウス。折り畳み傘。マグカップ。ポーチ。仕事用の資料ファイルが二つ。
「こちらが小野寺さんのお荷物です。ご確認いただけますか」
菜紗が一つずつ確認する。ブラウスを手に取り、折り畳む。姉の匂いがするのだろうか。少しだけ手が止まる。しかしすぐに動き出す。今は感傷に浸る時間ではない。
マグカップ。白い磁器。花柄。ポーチの中身。リップクリーム、目薬、飴玉が二つ。
資料ファイル。
一つ目を開く。営業資料。病院への提案書。通常の業務文書。
二つ目を開く。
菜紗の手が止まる。
ファイルの中に、業務資料に紛れて、別の書類が挟まっている。印刷されたスプレッドシート。有害事象報告のフォーマット。症例番号、患者情報(匿名化済み)、有害事象の内容、報告日、報告ステータス。
複数の症例の「報告ステータス」欄に、赤ペンで丸がつけてある。「報告済」となっている欄に、結衣の字で「実際には未報告」と書き込まれている。
結衣が残した証拠だ。
社内の生データのコピー。市販後調査の有害事象報告記録。公式には「報告済」とされている症例が、実際には規制当局に報告されていないことを示す内部記録。
結衣は自分のロッカーにこれを隠していた。外部に持ち出すことはできなかった。社内メールで送れば足がつく。USBに入れて持ち出せばセキュリティに引っかかる。だから紙に印刷して、私物のファイルに紛れさせた。
最後まで戦った人の、最後の痕跡。
総務の女性は菜紗の後ろで待っている。ファイルの中身を覗き込むほど近くはいない。赤ペンの書き込みの意味には気づいていない。
菜紗は一瞬だけ動きを止め、それから何食わぬ顔でファイルを閉じ、他の私物と一緒に紙袋に入れる。
「ありがとうございます。全部持ち帰ります」
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ビルの外。菜紗は紙袋を抱えて公園のベンチに座る。
ファイルを開き直す。赤ペンの書き込みを読む。症例番号を確認する。智也がPMDAの公開データと照合した症例39、症例52がそこにある。さらにそれ以外にも十件近い症例に「実際には未報告」の書き込み。
菜紗の手が震えている。
これは結衣が自分の手で残した証拠。告発のルートを全て塞がれた後も、証拠を残すことをやめなかった人の痕跡。「後に続く誰か」が、いつかこのロッカーを開けることを信じて。
菜紗はファイルを閉じ、紙袋を胸に抱く。
「姉ちゃん……」
声が震えている。でも涙は流さない。やることがある。
菜紗の背後に、智也が立っている。見えない。聞こえない。でもそこにいる。菜紗が姉の遺志に触れた瞬間を、世界でただ一人見ている。
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午後。
智也はすべてを確認する。
規制当局への匿名資料は日曜に投函済み。届いているはずだ。
菜紗の手元には、公開データの分析結果と遺書の解読と、今日見つかったロッカーの証拠がある。三つの資料が揃った。
乞実のデスクには、月曜の集荷で症例番号のメモが届いているはずだ。
二重、三重のセーフティネット。智也が消えた後も、複数のルートで証拠が世界に残る。どれか一つが機能すれば、波紋は広がる。
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夕方。智也は街を歩いている。
すべてのタスクが終わった。もうやるべきことは残っていない。
歩きながら、ふと足元を見る。影がない。夕日が斜めに差しているのに、アスファルトの上に智也の影が落ちていない。体が光を遮らなくなっている。
智也は足を止める。
空を見上げる。夕焼け。雲が橙から紫に変わっていくグラデーション。結衣が好きだった空の色。
六度のループ。その間に智也は結衣を知り、菜紗を知り、乞実を知り、永尾を知り、この世界の構造を知った。
そして一つ、ずっと答えが出なかった問いに、今、答えが見える。
なぜ自分がリープできたのか。
菜紗が言っていた。観測されないものは存在が確定しない。量子力学の観測者効果。そして量子消しゴム——確定した事実を巻き戻すと、観測者が「未観測状態」に戻される。
智也は元々、誰にもほとんど観測されていない人間だった。名前を覚えてもらえない。飲み会に誘われない。一日休んでも気づかれない。家族とは疎遠。親友はいない。死んだら発見が遅れるタイプの人間。
社会的に、半分透明だった。
だから時間の壁を超えられた。時間軸に強く固定されていなかったから。他の人間なら——家族に愛され、友人に囲まれ、職場で必要とされている人間なら——多くの人の認識によって存在が「確定」しているから、因果の壁を超えることはできない。
しかし智也は違った。誰にも強く観測されていなかったから、時間の隙間を滑り抜けることができた。そしてその代償として、超えるたびに固定がさらに弱まり、最終的に完全な「未観測状態」——つまり存在しない状態に至る。
僕が透明だったから、できた。透明だったから、消える。
智也は小さく笑う。皮肉だ。でも不思議と苦くない。
透明だったから気づけた。結衣がいなくなったことに。毎朝同じ電車で見かけるだけの人のことを、智也が覚えていたのは、智也自身が「忘れられる側」の人間だったからだ。忘れられる痛みを知っているから、他人が消えたことに気づけた。
弱さが武器だった。武器を使い切ったから、消える。
それでよかったのだと、思える。
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定食屋に行く。
商店街を歩く。足音はもうほとんど聞こえない。すれ違う人は誰も智也を感じない。
「やまざき」の暖簾。
暖簾の隙間から中を覗く。
山崎さんがカウンターの中にいる。いつもの割烹着。いつもの白髪交じりの束ね髪。テレビでニュースが流れている。常連客が一人、カウンターの真ん中あたりで焼き魚定食を食べている。
山崎さんは笑顔で常連客と何か話している。声は聞こえない。智也の耳に店内の音が届かなくなっている。ガラス越しのように、あるいは水中から水面の上を見ているように、光景だけが無音で流れている。
でも山崎さんの表情は見える。あの柔らかい笑顔。「あら智也くん」と言ってくれたときと同じ種類の笑顔を、別の誰かに向けている。
ここに自分の居場所があった。三年間。週に四回。生姜焼き定食。ご飯大盛り。味噌汁は豆腐とわかめ。カウンターの端の席。テレビの天気予報。「おつかれさま」の声。
覚えていてほしいと思う。
叶わないと知っている。
それでも思う。ここにいたことを。ここに通った人間がいたことを。
「ごちそうさまでした」
声に出す。聞こえないとわかっていて、言う。暖簾の向こうで山崎さんは何も反応しない。常連客との会話が続いている。
智也は暖簾から手を離す。
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夜。公園のベンチに座っている。
アパートに帰る必要はもうないだろう。鍵を差し込めるかどうかもわからない。
空を見上げる。十月の夜空。雲が切れて、星が見えている。街の灯りで数は少ないが、いくつかの光が暗闇の中に点っている。
菜紗のことを考える。
六度のループで、六回出会った。菜紗にとっては毎回初めてで、智也にとっては毎回続きだった。
一回目。警戒する目。「姉とどういう関係なんですか」
二回目。驚く目。「なんでそれを知ってるんですか」
三回目。信頼の目。「私にできることを教えてください」
四回目。決意の目。「わかりました。私がやります」
五回目。不安の目。「大丈夫ですか」
六回目。——六回目は、智也の姿がもう見えなかった。
六回分の菜紗を、智也は全部覚えている。話し方の癖。コーヒーカップを両手で包む仕草。空を見上げたときの横顔。姉を語るときの声の震え。「許せない」と言ったときの静かな怒り。「わかりました。私がやります」の決意。
好きだ、と思う。
いつからかはわからない。三回目の出会いからか。四回目か。毎回初対面として信頼を築き直すたびに、菜紗という人間の新しい側面を見つけて、そのたびに惹かれていった。
しかしこの感情を伝えることは、永遠にない。菜紗にとって智也は「姉のことを調べてくれた、名前もよく思い出せない人」だ。六回目のループでは顔すら見えていなかった。記憶に残るのは「電話をかけてきた、声の遠い人」程度だろう。それすらも、やがて薄れる。
君は僕を知らない。
でも僕は君を知っている。
六回分の君を知っている。それで十分だ。
嘘だ。十分なわけがない。でも、十分だと思わなければ、この先に進めない。
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夜が深まる。
智也の体は、もうほとんど見えない。公園のベンチに座っているが、通りすがりの人間には空のベンチにしか見えないだろう。
手を見る。街灯の光が手のひらを完全に透過している。手の向こうにベンチの木目が見える。
寒くない。風が吹いている。木の葉が揺れている。でも智也の髪は揺れない。風が智也を通り抜けている。
足元を見る。影はとうに消えている。
時間だ。
やるべきことは全部やった。
「藤波智也という人物の情報」は世界から消える。写真から顔が消え、名簿から名前が消え、人々の記憶から固有名詞が抜け落ちる。
しかし。
智也が印刷した資料は残る。誰が印刷したかは不明になるが、資料は菜紗の手元にある。
智也が匿名で送った封筒は届いている。差出人の手がかりはないが、中身は規制当局の担当者が読む。
智也が乞実に送ったメモは届いている。差出人不明の、症例番号だけが書かれた紙。
智也が菜紗に口頭で伝えた情報は、菜紗の中に「知識」として残る。誰に聞いたかが思い出せなくなるだけで、知識そのものは消えない。
行為の結果は残る。人は消えても、その人がしたことは消えない。
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体の輪郭が溶けていく。
手も、足も、胴体も。世界との境界線がなくなっていく。自分がどこまでで、空気がどこからか、区別がつかなくなっていく。
最後に浮かぶのは、三つの顔だ。
結衣。電車のドア横。「ありがとうございます」。あの声。あの笑顔。あなたのことを、知ることができてよかった。
菜紗。学食の窓際。コーヒーカップを包む両手。「わかりました。私がやります」。あの声を、信じている。
山崎さん。カウンターの向こう。「あら智也くん、今日もいつもの?」。あの声を、最後まで覚えている。
三人の顔が遠ざかっていく。いや、智也のほうが遠ざかっている。世界から。存在から。
藤波智也は、静かに消える。
世界から、藤波智也という人間が消える。
写真から顔が消え、名簿から名前が消え、アパートの契約書から署名が消え、会社の社員名簿から一行が消え、コンビニの防犯カメラの映像から影が消え、すべての記録から「藤波智也」という文字列が消える。
人々の記憶から、その名前が消える。田中は「隣の席に誰かいたっけ」と一瞬思い、すぐに忘れる。山崎さんはカウンターの端の席が妙に磨かれていることに気づくが、理由は思い出せない。
菜紗は「誰かに教えてもらった」という知識だけを持っている。誰に。思い出せない。電話をかけてきた人がいた気がする。声が遠かった。名前は——名前は——。
消えた。
藤波智也がいた世界は、藤波智也がいなかった世界と区別がつかなくなる。
ただ一つだけ、違いがある。
差出人不明の資料が、規制当局に届いている。
赤ペンの書き込みがある証拠が、菜紗の手元にある。
症例番号だけが書かれたメモが、乞実のデスクに届いている。
「そらのいろ」の意味を知る人間が、一人増えている。
それが、藤波智也がこの世界に残したすべてだ。




