第8話 証拠
六回目のループ。土曜日の朝。今夜、結衣が死ぬ。
目を開ける。天井のシミ。アラーム。六時四十五分。
体が重い。いや、正確には逆だ。軽すぎる。存在の厚みがさらに減っている。布団の中で手を握ったり開いたりする。感覚はある。指は動く。でも手のひらの色が薄い。
立ち上がる。洗面台の鏡。顔が映っている。まだ映っている。だが輪郭がにじんでいる。
今日の夜までが、結衣が生きている最後の時間。六日、四日、三日、二日、二日ときて、今回は一日もない。土曜の朝から夜まで。半日ちょっと。これまでで最も短い。
やるべきことを始める。
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九時過ぎ。智也は結衣のマンションの近くにいる。
土曜日。結衣は出勤しない。前のループで確認済みだ。午前中にコンビニに出るだけで、あとは部屋にいる。
マンションのエントランスが見える場所で待つ。通りの向こう側。街路樹の陰。
九時半。結衣がエントランスから出てくる。
私服だ。薄手のコートにジーンズ。髪はおろしている。平日のスーツ姿とは違う、休日の結衣。手ぶらに近い。財布とスマホだけ持っているのだろう。
智也は五度のループを経て、結衣のほとんどを知っている。しかし「休日の結衣」を見たのは、二回目のループで一瞬だけだった。あのときはただ「私服だ」と認識しただけだった。
今は違う。
コートの襟を少し立てている。朝の風が冷たいのだ。歩き方が平日と違う。肩の力が抜けている。営業先を回るときの隙のない歩き方ではなく、少しだけゆるい足取り。目元のこわばりもない。永尾の視線がない空間で、結衣の顔はほんの少しだけ柔らかい。
コンビニに入っていく。ガラス越しに、棚の前で何かを選んでいる姿が見える。手に取って、戻して、別のものを手に取る。迷っている。たぶん朝ごはんか、おやつ。そんな些細な選択に時間を使える、最後の朝。
智也はつり革を握っていた電車の中ではなく、十月の朝の路上から、結衣を見ている。最後に見る結衣。
五度のループで積み上げた全ての知識が、今の視界に重なる。この人が何と戦っていたか。何に怯えていたか。何を守ろうとしていたか。「逃げない」と決めた強さ。PMSの不正に気づいた聡明さ。菜紗に電話をかけた日の声。遺書に「そらのいろ」をねじ込んだ意志。
コンビニ袋を提げた結衣が店から出てくる。朝日が横顔を照らしている。
この人のことを、僕は知っている。たぶん、世界で一番。
電車のドア横に立つ結衣しか知らなかった自分が、五度のループの果てに、コンビニから出てくる休日の結衣を見ている。笑顔の鎧を脱いだ素の横顔を見ている。
結衣がマンションに入っていく。エントランスのドアが閉まる。
これが最後だ。もう二度と、この人の生きている姿を見ることはない。
あなたが蒔いた種は、無駄にしない。
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十時。ファミリーレストランに入る。ノートパソコンを開く。
注文の際、ウェイトレスに「ここです」と声をかける。代償はさらに進んでいる。声を出さなければ完全に透明。
証拠の文書化を進める。五度のループで得た情報を紙の上に落とす。
一。PMDAの公開データから再構成した、ゼノプレスの有害事象報告件数と競合薬の比較表。不自然な乖離を示すグラフと数値。
二。結衣のスマホのメモに残されていた症例番号が、公開報告データに存在しないことの確認記録。
三。ゼノファーマの組織図と、有害事象報告フローにおける営業部長の介入可能ポイントの分析。
これらを印刷する。一部は規制当局への匿名送付用。封筒に入れ、宛先を書き、差出人は空白。もう一部は菜紗に渡すため。
さらに、便箋に症例番号を手書きする。PMS症例39。症例52。症例17。症例68。症例71。乞実に届けるメモ。
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午後。菜紗に電話する。六度目の「初対面」。
「もしもし」
「突然すみません。藤波といいます。お姉さんの小野寺結衣さんのことで話があります。お姉さんの勤務先で重大な不正が行われている。お姉さんはそれに気づいて、上司の永尾雅人に追い詰められています」
「永尾……。姉が怖がってた人」
「お姉さんに連絡を取ってみてください。つながらないかもしれませんが」
「なんでそんなことを——あなた誰なんですか」
「詳しい資料があります。明日、直接お渡ししたい。場所と時間をメッセージで送ります」
「明日……」
「お願いします。時間がないんです」
電話を切る。明日は日曜。結衣の死後。菜紗はまだ死を知らない。しかし姉に連絡がつかないことで不安が膨らんでいるはずだ。
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土曜日の夕方。
ファミリーレストランの窓から、夕暮れの空が見える。
今夜、結衣が死ぬ。
助けに行けば、一時的には救える。三回目のループでそれは証明した。インターホン越しに声をかけて、結衣を外に出させることはできる。
でも、その後は。三回目の教訓。死を一日止めても、根本原因が残る限り、別の日に同じことが起きる。
さらに。もし今夜を救出に使ったら、明日以降の証拠配置が間に合わない。規制当局への郵送。乞実へのメモ。菜紗への資料受け渡しと遺書検証。残りの「見える時間」は数えるほどしかない。
智也はテーブルに額を押しつける。
助けたい。六度のループで、結衣のことを世界で一番知っている人間になった。その人が今夜死ぬ。
でも結衣は言った。「逃げたら、あの人たちの思うつぼです」。結衣が命を賭けて守ろうとしたのは、自分の命ではなく、真実だった。
結衣が蒔いた種を、芽が出る場所に届ける。それが、結衣の選択を受け継ぐということだ。
この選択が正しいのかはわからない。永遠にわからないだろう。でも、結衣が最後まで守ろうとしたものを無駄にはしない。
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土曜の夜。
マンションの方角の空を、窓から見上げる。雲が出ている。星は見えない。
結衣がいなくなる。六回目の、最後の夜。
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日曜日の朝。
ポストに封筒を投函する。規制当局宛の匿名資料。差出人なし。
次。ゼノファーマのオフィスビル。日曜だが一階ロビーは開いている。社内メール便の集荷ボックスに「松本乞実様」宛の封筒を入れる。月曜の集荷で届く。
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日曜日の午後。菜紗と会う。
大学近くのカフェ。菜紗は不安な顔で来ている。昨夜から結衣にLINEも電話もつながらない。
「藤波さん。姉に連絡がつかないんです。昨日からずっと」
「菜紗さん。これを受け取ってください」
智也は資料の束を差し出す。PMDAの分析結果。組織図。フロー分析。
「お姉さんの身に何が起きたとしても、この資料を然るべきところに届けてほしい。外部の弁護士でも、マスコミでも。規制当局には僕のほうから別ルートで送ってあります」
「身に何か——藤波さん、姉は大丈夫なんですか」
「……明日、お姉さんのマンションに行ってみてください。直接。それから、もし最悪の事態になったら——お姉さんのスマホのメモ帳と、遺書と、勤務先のロッカーの中のファイルを確認してください」
「遺書って何ですか。なんでそんな言葉が出てくるんですか」
菜紗の目が恐怖で見開かれている。智也は答えられない。
「お願いします。あなたにしかできないことがある。お姉さんのことを一番知っているあなたにしか」
菜紗は震えながら資料を受け取る。
「藤波さんは一緒にやるんじゃ——」
「僕は明日以降、動けなくなるかもしれません」
「……わかりました。私がやります」
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月曜日。
ニュースが出る。六回目の同じ記事。
菜紗から電話が来る。泣き声。「姉が死んだ」。日曜の夜、菜紗が警察に相談し、月曜朝に確認が入った。
智也は菜紗に伝える。
「菜紗さん。遺品が戻ってきたら、スマホのメモ帳を確認してください。PMSの症例番号が残っているはずです。それから遺書の中に、菜紗さんにしかわからない言葉が隠されているかもしれない」
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火曜日。遺品が菜紗のもとに返される。
菜紗から連絡。
「メモ帳に『PMS症例39、症例52、報告されていない』ってある。藤波さんの分析と一致します」
「遺書は」
「見ました。全体的に硬い。姉の文体じゃない。反省文みたい。でも一箇所だけ——『そらのいろが、もう見えません』って」
「心当たりは?」
沈黙。菜紗の声が割れる。
「これ……姉の言葉だ。『そらのいろ』。私たちだけの言葉。小さい頃からずっと。『なっちゃん、今日のそらのいろ、見た?』って。ひらがなで。子供の頃からの癖で——」
五度のループで解けなかったものが、今、解ける。
「これは姉から私へのメッセージだ。永尾に書かされた反省文の中に、姉が自分の意志で入れた一文。真実が隠されることを、私にだけわかる言葉で伝えようとした」
結衣が蒔いた種。姉妹しか知らない暗号を、反省文という檻の中にねじ込んだ最後の抵抗。
「菜紗さん。遺書の分析も全部まとめてください。それが結衣さんの最後のメッセージです。あなたに届けるために残したものです」
「わかりました。姉の分も、私がやります」
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火曜日の夕方。菜紗にメッセージを送る。
「お姉さんの勤務先に私物を引き取りに行くとき、ロッカーの中のファイルの中身を丁寧に確認してください。業務資料に紛れて、お姉さんが自分で残した記録があるかもしれません」
送信。既読。返信。「わかりました」。
これで、智也にできることは全部やった。
夕暮れの空を見上げる。雲が橙と紫に染まっている。結衣が好きだった空の色。
智也は自分の手を見る。
向こうの景色が、わずかに透けて見える。手のひらの輪郭の向こうに、夕焼けの橙がうっすらと透過している。
体が、物理的に透明になり始めている。




