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第7話 忘却


 五回目のループの延長線上。月曜日の朝。


 ニュースが出る。五度目の、同じ記事。小野寺結衣、二十七歳。自宅マンションで死亡。遺書あり。自殺として処理。発見は死後約二日。


 智也はスマホの画面を見つめる。同じ文面。同じ写真。何度見ても、慣れない。慣れてはいけない。


 昼前、菜紗から電話が来る。


「藤波さん……っ」


 泣いている。声が割れている。


「姉が、姉が死んだって。警察から連絡が来て。昨日連絡つかなかったのは——」


「……知ってます」


「知ってるって、なんで——昨日の時点でわかってたんですか。なんで教えてくれなかったんですか」


 菜紗の声に怒りが混じる。当然だ。姉が死んでいることを知っていながら、「連絡を取ってみてください」と言った男。


「確証がなかった。でも菜紗さん、今から言うことを聞いてほしい。お姉さんの遺品が戻ってきたら、必ずスマホのメモ帳を確認してください。それから遺書の中に、菜紗さんにしかわからない言葉が隠されている可能性がある」


「何を言って——」


「お姉さんは最後まで抵抗した人です。何も残さずに死ぬような人じゃない。そして、勤務先に私物を引き取りに行くとき、ロッカーの中の業務ファイルを丁寧に確認してください。証拠が紛れているかもしれない」


 菜紗は泣きながら聞いている。混乱している。でも、昨日の会話で智也が伝えた情報——永尾の名前、不正の可能性——が、姉の死という事実と結びついて、菜紗の中で何かが組み上がりつつある。


「菜紗さん。もう一つだけ。僕がいなくなっても、調査を続けてください」


「いなくなるって——」


「連絡が取れなくなるかもしれない。体調が悪くなるかもしれない。でも、昨日渡した永尾の名前と、お姉さんのスマホと遺書とロッカーの中身。それだけあれば、真相に辿り着ける。菜紗さんなら」


「藤波さん、あなた大丈夫なんですか。声が遠い。昨日より——」


「大丈夫です。約束してください」


 長い沈黙。菜紗の嗚咽が遠くなり、やがて声が戻る。


「……約束します。何があっても、最後までやります」


「ありがとう」


 電話を切る。


---


 月曜日の夕方。定食屋に向かう。


 暖簾の前で立ち止まる。


 ここに来るのは、これが最後になるかもしれない。そう思うと、暖簾の布地の色まで鮮明に見える。白い生地に紺の文字。「やまざき」。三年間、何百回もくぐった暖簾。


 暖簾をくぐる。


 カウンターの向こうに山崎さんがいる。背中を向けて、何かを刻んでいる。とんとんとんと、まな板の音が響く。テレビでは天気予報が流れている。明日は晴れ。


 智也はカウンターの一番端の席に座る。いつもの席。


 山崎さんが振り返らない。


 十秒。二十秒。山崎さんは野菜を刻み続けている。テレビのアナウンサーが明日の気温を読み上げる。三十秒。


「すみません」


 智也の声は、自分の耳にはちゃんと聞こえる。


 山崎さんの手が止まる。振り返る。カウンター全体を見渡す。視線が智也の顔の上を滑っていく。滑っていって、智也の顔の横にある壁のカレンダーで止まる。


 山崎さんは首を傾げ、「……気のせいか」とつぶやいて、まな板に戻る。


 智也は凍りつく。


 見えていない。


 声は届いた。だから振り返った。しかし視線が智也を捉えられなかった。カウンターの席に座っているのに。一メートルと離れていない距離なのに。山崎さんの目は智也を見つけられなかった。


 智也はもう一度声を出そうとする。しかし喉が詰まる。声を出して、また「気のせいか」と言われたら。もう一度あの視線が自分を素通りしたら。


 それに耐えられる自信がない。


 智也はゆっくり席を立つ。椅子が微かに音を立てる。山崎さんは振り返らない。


 暖簾をくぐって外に出る。振り返る。暖簾の隙間から、山崎さんの背中が見える。まな板に向かっている。とんとんとん。いつもの音。いつもの背中。


 この人は三年間、智也に「智也くん」と呼びかけてくれた。「今日もいつもの?」と聞いてくれた。「おつかれさま」と送り出してくれた。この世界で、智也を名前で呼ぶ数少ない人間のひとりだった。


 その全部が、山崎さんの中から消えている。


 智也はしばらく店の外に立っている。十月の夕暮れの光が、商店街を橙色に染めている。どこかの家から夕飯の匂いがする。日常がそこにある。智也がいなくなっても、何一つ変わらない日常が。


「ごちそうさまでした」


 聞こえないとわかっていて、言う。暖簾の向こうで山崎さんは何も反応しない。まな板の音が続いている。


---


 アパートへの帰り道。


 怖い。


 消えるのが怖い。死ぬのとは違う。死ねば終わりだ。でも「消える」のは、自分がいた痕跡ごと無くなることだ。誰も悲しまない。悲しむ対象が存在しなくなるのだから。葬式もない。遺品もない。「あいつ、最近見ないな」と思う人間すらいない。


 それは結衣の死と何が違う。


 結衣も二日間、気づかれなかった。でも結衣には菜紗がいた。死に納得できない妹がいた。


 智也が消えたら、何も残らない。本当に何も。


「僕が消えても、誰も困らない。元々そうだった」


 夜道に自分の声が小さく響く。


「でも——」


 結衣の顔が浮かぶ。電車のドア横。「ありがとうございます」。


 彼女もそうだった。誰にも本当には見てもらえず、それでも毎朝電車に乗って、笑顔を作って、一人で戦って、一人で死んだ。


 それが「そういうもの」で終わっていいのか。


「いいわけない」


 智也は歩き出す。まだ地面を踏める。まだ歩ける。


---


 月曜日の夜。アパート。デスクに向かう。


 最後のリープに向けて、やるべきことをリスト化する。


 一。PMSの分析資料を完成させる。規制当局に匿名で送れる形式にまとめる。


 二。遺書の「そらのいろが、もう見えません」を解読する。菜紗の協力がいる。


 三。結衣がロッカーに証拠を残している可能性を確認する。菜紗が遺族として引き取りに行く際に。


 四。菜紗に全てを託す。


 五。乞実にも痕跡を残す。症例番号のメモを届ける。


 これを次のループの中でやる。しかも次のリープを発動した瞬間、代償はさらに進行する。


 そして問題がある。戻れる時間だ。


 六日、四日、三日、二日、二日。ループごとに縮んできた猶予。リープは結衣の死を起点に動いている。三回目のループで直感したことが、五回の経験で確信に変わった。どの時点から飛んでも、着地は結衣の死の手前。そしてその猶予が毎回狭くなる。


 次にリープすれば、猶予はさらに縮む。前回が二日なら、今回は一日か、それ以下。着地は土曜の朝、あるいはもっと遅い。


 土曜の朝なら、土曜の夜まで。一日もない。半日ちょっと。


 これまでで最も短い。結衣が生きている最後の時間帯に、数時間だけ触れることができる。その後は死を通過して、日曜以降の死後パートで残りの作業をやりきる。


 できるのか。


 やるしかない。


---


 ベッドに横になる。六回目のリープ。最後のリープ。


 ここまでのループで得た全ての情報が頭の中にある。結衣の行動パターン。永尾の支配構造。PMSの不整合。遺書の違和感と「そらのいろ」。菜紗の性格と、最短で信頼を得る方法。乞実の立場と弱さ。コンプライアンス窓口の無力さ。


 全部、次のループに持っていく。


 そして、自分が消えた後も残る形で、証拠を世界に配置する。匿名の資料。菜紗の手元の証拠。乞実へのメモ。差出人不明の荷物として世界に残る。


 全部、この最後のループに賭ける。


 目を閉じる。意識を集中する。


 戻る。最後に一度だけ。


 世界がずれる。六回目の感覚は、これまでで一番深い。体の奥で何かが大きく減る。ごっそりと。水が半分以下だった容器が、底をつく手前まで傾くような。


 意識が沈んでいく。


---


 目が覚める。


 アラーム。六時四十五分。


 スマホの日付を見る。


 土曜日。


 結衣が死ぬ日。


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