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第6話 組織


 五回目のループ。金曜日の朝。土曜の夜まで二日。


 前回と同じだ。二日。縮まっていない。減少が底を打ったのか、それとも次に一気に来るのか。


 どちらにせよ、この二日間の使い方は前回とは変える。前のループでは公開データの分析と、死後の菜紗・乞実への接触に使った。今回は、もう一つ踏み込む。永尾雅人の実態を、自分の目で確認する。


---


 ゼノファーマのオフィスビル。


 智也はロビーに入る。社員証がなくてもロビーまでは入れる。ソファに座る。


 ここで、代償の進行を実感する。受付の女性が入口のほうを見る。視線が智也の上を滑っていく。智也の顔で止まらない。壁のポスターのほうに流れていく。


 前のループでは「誰だっけ」という反応だった。今回は違う。視線が智也を捉えられない。そこにいるのに、知覚のフィルターが智也を除外している。


 見えていない。


 いや、正確にはわからない。網膜には映っているかもしれない。しかし脳が「人がいる」と解釈しない。智也の存在が、認識の閾値を下回っている。


 皮肉なことに、これは今の目的には好都合だ。誰にも気づかれずにロビーに座り続けられる。透明であることが、武器になっている。


---


 昼前。エレベーターホールの近くに移動する。社員が出入りする。昼食に出る人。営業先に向かうMR。


 十二時過ぎ。永尾雅人がエレベーターから出てくる。


 グレーのスーツ。きれいに整えた髪。柔和な笑顔。前のループで名前を聞いた男。結衣が怖がっていた男。「君のためを思って」の男。


 部下を二人連れている。若い男性社員と、女性社員。永尾が何か言い、二人が笑う。和やかな光景。


 しかし智也は、二人の笑い方を見ている。タイミングが早い。永尾が言い終わる前に笑っている。内容に反応しているのではなく、「笑うべきタイミング」に反応している。条件反射。この部署では「永尾が冗談を言ったら笑う」が基本動作になっている。


---


 十三時過ぎ。永尾が昼食から戻ってくる。すれ違った若い女性社員に声をかける。


「あ、松田さん。例の資料、午後イチでもらえる?」


「はい、永尾部長。すぐご用意します」


「助かるよ。いつも頼りにしてる」


 柔らかい声。笑顔。理想の上司。


 十分後。三十代くらいの男性社員が書類を持って永尾のもとに来る。何か報告をしている。永尾の表情が変わる。笑顔は消えないが、目の温度が下がる。


「うん、それはさ、君のためを思って言うんだけど」


 声は穏やかだ。怒鳴ってはいない。しかし一言一言が削っている。


「この数字だとちょっと厳しいよね。先方にどう説明するの? 僕が尻拭いすることになるんだよ。わかる?」


 男性社員は「すみません」を繰り返しながら体を縮めている。


 善意の形をした刃物。「君のために」「僕が尻拭い」「わかる?」。反論すれば「恩知らず」になる。完璧な檻。


 ロビーの端から、智也はそのやり取りを見ている。


 そして同時に、別の人間もそれを見ていることに気づく。


 エレベーターホールの脇。書類の束を抱えた小柄な女性が立っている。丸い目。


 松本乞実だ。


 乞実は永尾と男性社員のやり取りを見ている。明らかに不快そうな顔をしている。眉間にしわが寄り、唇がきゅっと結ばれている。


 しかし、数秒後、乞実は視線を逸らす。書類を抱え直し、エレベーターに乗り込む。行ってしまう。


 智也はその一部始終を見ている。


 見た。不快に感じた。でも何もしなかった。目をそらした。日常に戻った。


 組織とはそういうものだ。恩と恐怖で人を縛り、沈黙を「忠誠」に変える。結衣はその構造に一人で立ち向かった。


---


 土曜日。結衣が死ぬ日。


 五度目の「この日」。智也はマンションの近くには行かない。


 自宅で過ごす。分析資料を整理する。次のループのための準備。菜紗に最短で情報を伝えるための資料構成。規制当局に送る匿名文書のフォーマット。


 夜。窓の外。曇天。星は見えない。


 結衣がいなくなる。五回目の、同じ夜。


---


 日曜日。


 結衣が死んでから数時間。まだニュースにはなっていない。発見は明日以降になるだろう。しかし智也は知っている。


 智也は大学に向かう。菜紗に接触する。五度目の初対面。


 キャンパスは日曜日で静かだ。菜紗が来るかどうかはわからないが、前のループで日曜にも院生室に来ていたことがある。


 十四時過ぎ。菜紗が校門から入ってくる。ジーンズにパーカー。休日の格好。


「菜紗さん」


 菜紗が足を止める。智也を見る。しかし視線がわずかに逸れる。見つけにくそうにしている。


「こっちです」


 声で修正する。菜紗が智也の顔に焦点を合わせる。眉間にしわ。


「……どちら様ですか」


「藤波といいます。お姉さんの小野寺結衣さんのことで話があります。お姉さんの勤務先で重大な不正が行われている。お姉さんはそれに気づいて、営業部長の永尾雅人に追い詰められています」


「永尾……。姉が怖がってた人」


「お姉さんに連絡を取ってみてください。今すぐ。つながらないかもしれませんが」


 菜紗は不安な顔でスマホを取り出す。結衣に電話をかける。呼び出し音。応答なし。LINEも既読にならない。


「……出ない」


「もう一度、今夜も試してください。明日も。それから、僕に連絡をください」


 番号を交換する。菜紗は困惑している。見知らぬ男が姉の危険を告げ、連絡が取れない姉。不安が膨らんでいる。


---


 日曜の夕方。菜紗と大学の近くを歩く。


 菜紗は何度も結衣にLINEを送っている。既読にならない。電話も出ない。


「姉は普段、こんなに連絡がつかないことはないです。忙しくても、既読はつける人なのに」


「お姉さんの状況は、僕が思っているより深刻かもしれません」


「藤波さん。あなたは一体何を知ってるんですか。姉の会社のことも、永尾さんのことも」


「全部は説明できません。でも、お姉さんが命がけで守ろうとしていたものがある。明日以降、それが明らかになるかもしれない」


 菜紗は足を止め、空を見上げる。日曜の夕方。薄い雲の向こうに、夕焼けの橙が滲んでいる。


「藤波さん。最近、人に忘れられることが多くないですか」


 智也の足が止まる。


「……なぜそう思うんですか」


「さっき、キャンパスですれ違った事務の人が、私には挨拶したのに、藤波さんのことは完全にスルーしてた。それに、私も最初、藤波さんの顔がすぐ見つけられなかった」


 透明。菜紗がその違和感を言語化しかけている。


「心理学で、こういう研究があるんです。他者から認知されないと、自己の輪郭が曖昧になるっていう。認知科学だと、もっと踏み込んだ話がある。量子力学の観測者効果の援用で——観測することで状態が確定する。逆に言うと、誰にも観測されていないものは、存在と非存在の間を揺れている」


 智也は黙って聞いている。


「量子消しゴムっていう実験があるんです。一度確定した観測結果を、情報を消すことで『未観測状態』に戻せるっていう。まるで、確定したはずの事実が巻き戻されるみたいに」


 学問的な興味で語っている菜紗。しかし智也には、その言葉が別の意味で突き刺さる。確定した時間を巻き戻す。その代償として、観測者が「未観測状態」に戻される——。


 まだ言語化できない。でも、体の奥で何かが響いている。


「藤波さん? 顔色悪いですよ」


「大丈夫です。面白い話でした」


---


 日曜の夜。アパートに戻る。


 コンビニに寄った。店員の視線が智也を素通りした。商品だけを見てバーコードを通し、「ありがとうございました」は言われなかった。


 代償の加速。


 しかし今夜はリープしない。明日、ニュースが出る。菜紗が姉の死を知る。そのあと、菜紗に最後の指示を伝える必要がある。


 もう一日だけ、この時間軸にいる。


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