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第5話 握り潰し


 四回目のループ。金曜日の朝。土曜の夜まで二日。


 六日、四日、三日、二日。結衣の死の手前に着地する猶予が、加速度的に縮んでいる。次があるとして、一日か。半日か。あるいはもう戻れないか。


 電車に乗る。三号車、いつもの位置。


 結衣がいる。


 今の智也には、彼女がまるで違う人間に見える。一話目の「穏やかな表情の女性」はもういない。代わりに見えるのは、恐怖を飲み込みながら毎朝ここに立っている人間の姿だ。


 スマホを見る手が微かに震えている。肉眼では気づかないほどの振動。でも智也は三度のループを経て、彼女の手の動きを知り尽くしている。普段の結衣は親指でスマホをスクロールする。でも今朝はスクロールしていない。画面を見ているふりをしているだけだ。指が動いていない。


 笑顔の下の恐怖。営業スマイルの向こう側。あの「ありがとうございます」の声を持つ人が、今この瞬間、何と戦っているのか。三度のループで、智也にはその輪郭が見え始めている。永尾雅人。PMS——まだ仮説だが。組織的な何か。


 結衣が窓の外に視線を向ける。朝の空。雲の切れ間から青が覗いている。菜紗が言っていた。姉は空が好きだった、と。雨の日にも空の色を見つけた人。


 今この瞬間、結衣は空に何を見ているのだろう。


---


 二日しかない。しかし今回の智也には、三度のループで積み上げた知識がある。


 前のループで菜紗が語ったこと。結衣は永尾への恐怖とは「別の、もっと大きな何か」を伝えようとしていた。「使命感」のようなものがあった。


 結衣はMRだ。医薬情報担当者。病院を回り、医師に薬の情報を提供する。そしてもうひとつ、MRの重要な業務がある。市販後調査——PMS。薬が市場に出た後に、副作用や有害事象を収集して報告する。


 もし結衣が気づいた「もっと大きな何か」がPMSに関するものだとしたら。有害事象報告が握り潰されていたとしたら。それは永尾個人の問題ではなく、組織的な不正だ。患者の安全に関わる問題だ。


 結衣が「逃げたらあの人たちの思うつぼ」と言った理由。逃げれば不正は埋もれる。患者は知らないまま薬を飲み続ける。だから逃げなかった。


 まだ仮説だ。しかし、公開情報から裏付けを取ることはできる。


---


 金曜日。智也は有休を取り、朝からファミリーレストランに籠もる。ノートパソコンを開く。


 ITエンジニアの本領。華やかな技術ではない。データベースの検索と照合。地道な作業。


 PMDA——医薬品医療機器総合機構のウェブサイト。副作用報告データベースが公開されている。ゼノファーマが販売する薬を調べる。主力製品は降圧剤「ゼノプレス」。市販後調査の結果が報告されているはずだ。


 同種の降圧剤——同規模の処方数を持つ競合薬の有害事象報告件数をダウンロードする。エクセルに並べて比較する。


 数字が並ぶ。グラフを描く。


 結果は明確だった。


 ゼノプレスの有害事象報告件数は、同規模・同適応の競合薬と比べて明らかに少ない。処方数に対する副作用報告の比率が、統計的に見て不自然なほど低い。報告されるべき症例が報告されていない可能性が高い。


 まだ決定的ではない。公開データだけでは「不自然に少ない」としか言えない。社内の生データ——どの症例が報告され、どの症例が除外されたか——がなければ、確定はできない。


 しかし、結衣がPMSの不正に気づいた可能性を裏付ける状況証拠にはなる。


 智也はこの分析結果を文書化し、ノートパソコンに保存する。後で使う。


---


 金曜の夕方。ゼノファーマのビルの近くで観察。


 結衣がビルから出てくる。疲弊した足取り。今回は永尾が後ろについてくるのは見えない。しかし結衣の表情は暗い。前のループで何度も見た、土曜日に向かって沈んでいく顔。


 智也はそのまま結衣のマンションまでの帰宅を遠くから見届ける。四階の角部屋に明かりが灯る。


 明日の夜、あの明かりが消える。


---


 土曜日。


 三度目の「結衣が死ぬ日」。


 智也はマンションの近くには行かない。行けば、止めたくなる。止めれば、また同じことの繰り返しだ。


 代わりに、死後パートの準備をする。菜紗への連絡方法。前のループで菜紗の大学と研究室を特定しているが、今回は日曜日ではなく月曜日——ニュースが出てから接触する。そのほうが菜紗に状況が伝わりやすい。


 自宅でPMSの分析資料を印刷する。菜紗に見せるための資料。


 夜。窓から外を見る。マンションとは反対方向の空。十月の夜空。雲が出ていて、星は見えない。


 同じ空の下で、結衣が最後の夜を過ごしている。


---


 月曜日。


 ニュースが出る。三度目の、同じ記事。小野寺結衣、二十七歳。自宅マンションで死亡。遺書あり。


 智也はすぐに大学に向かう。今回は月曜日に接触する。菜紗は今日中に警察から連絡を受けるはずだ。


 心理学研究科の建物。院生室の前。待つ。しかし今日は菜紗が来ない。警察対応で大学どころではないのだろう。


 夕方、菜紗のSNSを確認する。更新はない。当然だ。


 火曜日。再び大学に向かう。院生室の前で待つ。


 十四時過ぎ。菜紗が階段を上がってくる。前のループより明らかにやつれている。目の下にくまがある。昨日の服と同じものを着ている。着替える余裕もなかったのだろう。


「菜紗さん」


 菜紗が足を止める。智也を見る。赤い目。泣き腫らした目。


「……どちら様ですか」


「藤波といいます。お姉さんの小野寺結衣さんのことで、お話があります」


 菜紗の顔が歪む。姉の名前。今、その名前を聞くことが、菜紗にとってどれほど重いか。


「……今は、ちょっと」


「お姉さんの死は、自殺じゃないと思っています」


 菜紗の足が止まる。完全に。


「……何を」


「お姉さんの勤務先の営業部長・永尾雅人が、お姉さんを追い詰めていた。そしてお姉さんは、永尾とは別の、もっと大きな問題に気づいていた。たぶんPMS——市販後調査の有害事象報告に関するものです」


 菜紗の目が見開かれる。三度のループで磨かれた切り出し方。最短距離で菜紗の心を開く情報。初対面の男の言葉を信じさせるには、具体性がいる。


「なんで……あなた、なんでそれを」


「説明すると長くなります。でも、これを見てください」


 智也はPMDAの公開データの分析資料を差し出す。ゼノプレスの報告件数と競合薬の比較。グラフ。数値。統計的な乖離。


 菜紗は廊下に立ったまま、資料を読む。心理学の院生だが、統計の基本は理解している。グラフの意味を読み取るのに時間はかからない。


「これ……報告が少なすぎるってこと?」


「公開データの範囲ではそう見えます。お姉さんはMRとして現場でデータを集める立場にいた。この不自然さに気づいたんだと思います」


 菜紗は資料から目を上げ、智也を見る。


「座れるところ、行きましょう」


---


 学食。窓際の席。菜紗はコーヒーを両手で包んでいる。指先が白い。三度目のこの光景を、智也はもう忘れない。


「姉の遺品が、昨日返ってきたんです。警察が自殺と判断したから、捜査は短く終わって。スマホも一緒に」


「スマホの中身は確認しましたか」


「まだちゃんとは見てない。見る気力がなくて……。でもロック画面に通知が溜まってたから、パスコード入れて開けはしました。パスコードは姉妹で共有してたから」


「メモ帳アプリを見てもらえませんか」


 菜紗は怪訝な顔をしつつ、鞄から結衣のスマホを取り出す。ピンクのケース。画面のひびが一箇所。


 メモ帳アプリを開く。いくつかのメモ。買い物リスト。行きたいカフェのリスト。仕事のToDoリスト。


 そして、一つだけ異質なメモ。


「PMS症例39、症例52、報告されていない」


 菜紗がその文字を見つめる。


「PMS……。藤波さんが言ってたやつ?」


「はい。症例番号です。市販後調査で報告されるべき有害事象の症例。お姉さんは現場でこれらの症例を確認し、報告が上がっていないことに気づいた。メモに残したんです」


 菜紗はスマホを握りしめる。


「姉は……これを伝えようとしてたのか。あの電話で。私に」


「たぶん」


「私が出なかった電話で……」


 菜紗の声が詰まる。智也は待つ。


---


 菜紗が落ち着くのを待って、智也はもう一つの情報を求める。


「菜紗さん。遺書の写しは手元にありますか」


「遺書……。うん、警察が遺族に見せてくれた。コピーももらった」


 菜紗は鞄からクリアファイルを出す。中にA4の紙。手書きの遺書をスキャンした画像の印刷。


 智也は読む。


 文体は落ち着いている。整然とした字。内容は仕事への反省。自分の力不足。周囲への謝罪。「これ以上迷惑をかけたくない」という言葉。


 一読すると、確かに「自殺の遺書」として不自然ではない。しかし智也には、三度のループで蓄積された結衣についての知識がある。


 全体的に結衣の文体だが、ところどころに妙な硬さがある。「自身の未熟さを深く反省しております」。「業務に対する姿勢を改めることができなかった自分を恥じます」。二十七歳の女性が自発的に書く文体ではない。「反省文」だ。上司に提出するための文書。


 しかし、今の段階ではこの違和感を言語化しきれない。「何かがおかしい」としか言えない。もっと結衣を知る必要がある。結衣の自然な文体がどういうものか。この硬い箇所が誰の言葉なのか。


 それから、文面の終わり近くに一箇所、質感の違う文がある。


「そらのいろが、もう見えません」


 智也はその一文の前で止まる。前後の文脈とのつながりが薄い。ひらがなで「そらのいろ」。他の文は漢字を適切に使っているのに、ここだけひらがな。


「この一文、何か心当たりはありますか。『そらのいろが、もう見えません』」


 菜紗は遺書に目を落とす。


「……わからない。でも、姉は空が好きだったから。空が見えなくなったっていうのは、よっぽどのことだと思う」


 何かがある。この一文には何かがある。しかし今の智也にはまだ解けない。


---


 水曜日。


 菜紗が、結衣の元同僚・松本乞実に連絡を取ってくれた。


「姉のスマホの連絡先に入ってた。姉と仲が良かったみたい。でも、お通夜にも葬儀にも来なかった」


 乞実は水曜の夜なら時間が取れるという。待ち合わせは駅前のチェーンのカフェ。


 十九時過ぎ。乞実が現れる。小柄で、丸い目が印象的な女性。黒のジャケットに、少し疲れた顔。


「菜紗ちゃん、久しぶり。……こちらの方は?」


「知り合いの藤波さん。姉のことを調べてくれてるの」


 乞実が智也を見る。表情に警戒はないが、歓迎もない。座って、アイスティーを注文する。


「結衣ちゃんのこと、調べてるって……何を?」


「姉の死に、納得できないことがあって」


 乞実の表情が一瞬だけ固まる。すぐに柔らかい顔に戻る。


「……そっか。急だったもんね。信じられない気持ちはわかるよ」


「乞実ちゃん。姉が死ぬ前、会社で何かあったか知ってる?」


 乞実はアイスティーのストローを指で回す。


「何かって……仕事は大変そうだったよ。ノルマもきつかったし。永尾部長がね、結構プレッシャーかけるタイプの人だから。でもそれは結衣ちゃんだけじゃなくて、みんなそうだったし」


「それだけ?」


「うん。それだけ。結衣ちゃん、真面目だったから。プレッシャーに弱いってわけじゃなかったと思うけど……でも、まあ、自殺だったんでしょ? 遺書もあったって聞いたし」


 菜紗の手が、テーブルの下で握りしめられるのが智也には見える。


「自殺だった、って、そんな簡単に」


「簡単って言いたいわけじゃないよ。ただ、警察がそう判断したなら……。ごめんね、菜紗ちゃん。つらいのはわかるけど」


 乞実の声は優しい。しかしその優しさの底に、蓋をしようとする意志が透けている。この話を広げたくない。ここで閉じたい。


 智也は一つだけ試す。


「松本さん。結衣さんはPMSの件で何か言っていませんでしたか。有害事象報告のこと」


 乞実の手がストローの上で止まる。一瞬。本当に一瞬だけ。


「……PMS? うーん、わかんない。そういう話はしなかったかな」


 嘘だ、と智也は確信する。指の動きが止まった。視線が一瞬だけ泳いだ。乞実は何かを知っている。知っていて、隠している。


「そう……。ありがとう、乞実ちゃん」


 菜紗は引き下がる。乞実はほっとした顔をする。


 その後は当たり障りのない会話。結衣の思い出話。楽しかった頃の話。乞実は結衣のことを「明るくて、優しい子だった」と語る。それは本心だろう。しかし、結衣が何と戦っていたかは見なかった。見なかったのか、見ないことを選んだのか。


---


 カフェを出たあと、菜紗と二人で夜道を歩く。


「乞実ちゃん、何か隠してる」


「僕もそう思いました」


「PMSの話を出した瞬間、明らかに動揺してた。あの子は悪い人じゃないんです。でも、怖がってる。永尾さんのことが。会社のことが。だから蓋をしてる」


 菜紗は前を向いて歩いている。


「姉もそうだったのかな。最初は。怖くて、蓋をして、でもどこかで蓋を開けることを選んで、結局——」


 菜紗は言葉を切る。


 智也は黙って横を歩く。


---


 水曜の夜。菜紗と別れた後、アパートに戻る。


 今回のループで得たもの。PMSの公開データ分析。結衣のスマホのメモ(症例39、症例52)。遺書の存在と違和感。永尾雅人という名前の再確認。乞実の反応——知っていて隠している。「そらのいろが、もう見えません」という解けない一文。


 大きく前進した。しかしまだ足りない。


 遺書の違和感は「何かがおかしい」止まり。「そらのいろ」の意味が解けていない。結衣が社内に何を残したかも不明。永尾の不正の決定的な証拠もない。


 もう一つ。菜紗が言った。「姉は死ぬ前、永尾さんという人のことをすごく怖がっていた」。そして乞実は、永尾のことを知りながら蓋をしていた。


 二人の証言が指し示す先。永尾雅人。すべての線がこの男に向かっている。


 次のループが必要だ。


 智也はベッドに横になる。意識を集中する。あの朝に。


 世界がずれる。五回目。もう慣れた感覚だ。減る量が毎回大きくなっていることにも慣れた。体の奥で、また何かがごっそりと抜け落ちる。


 構わない。まだ終われない。

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