第3話 救えない理由
二回目のループ。水曜日の朝。土曜の夜まで四日。
電車に乗る。三号車、いつもの位置。結衣がいる。
前のループでは「穏やかな表情の女性」にしか見えなかった。しかし今の智也の目には、その穏やかさの下に潜む別の色が見える。
スマホを持つ手の力加減。指の関節がわずかに白い。画面を見ているようで、視線の焦点が合っていない。口元は微かに微笑んでいるが、それは表情筋の癖であって感情ではない。仕事柄、笑顔が初期設定になっているのだ。
そして時折、窓の外を見る。その視線の空虚さが、前のループで目撃した木曜日の表情――電話の後に目を閉じたあの数秒――と重なる。あれは木曜日だけの出来事ではなかった。水曜日の時点で、もうこの人の中に何かが積もっている。
智也はつり革を握りながら思う。前のループでは、この表情の意味がわからなかった。今はわかる。わかるというより、「わかりたい」という意志が、同じ光景を別のものに変えている。
知ることは見ることを変える。
だが今回のループの目的は「知る」ことではない。止めることだ。
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前のループの失敗を、智也は分析している。
正規ルートはすべて塞がっている。警察は動かない。会社は取り次がない。見ず知らずの他人が他人の死を止める手段は、この社会にはほとんど用意されていない。
さらに、前回はオートロックで物理的に阻まれた。部屋番号がわからず、エントランスの前で立ち尽くした。
ならば、タイミングを変える。結衣がマンションに入る前に接触する。帰宅途中の路上で。
四日間。準備する時間はある。
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水曜から金曜。智也は結衣の行動パターンを改めて確認する。前のループで得た知識がある。退社時刻。帰宅ルート。マンションの位置。
木曜日、結衣が電話の後に立ち止まる場面を再び目撃する。前のループで見たのと同じだ。硬い表情。目を閉じる。深呼吸。そして何事もなかったように歩き出す。
同じことが、同じタイミングで起きている。ループの中で、結衣の運命は同じ軌道を辿っている。
金曜日、別部署の女性とエレベーターで乗り合わせる。女性は智也のほうを見て一瞬怪訝な顔をした。「この人誰だっけ」という顔。同じビルで三年働いているのに。
前のループでは田中に名前を忘れられた。今回は別部署の人間の反応。範囲が広がっている気がするが、気のせいかもしれない。今は気にしている場合ではない。
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土曜日。結衣が死ぬ日。
智也は夕方からマンション周辺で待つ。結衣は今日、出勤していない。前のループと同じなら、午前中にコンビニに行っただけで、あとは部屋にいるはずだ。
問題は夜だ。結衣がマンションの外に出る瞬間があるかどうか。ずっと部屋にいるなら、接触の機会がない。
十八時過ぎ。賭けに出る。マンションのエントランスの前で待つ。住人が出入りするたびにドアが開く。その隙にロビーに入り、エレベーターホールの脇に立つ。四階の角部屋。前のループで窓の位置から推測した部屋番号。
四階に上がる。角部屋のドアの前。表札はない。ドアの向こうから微かにテレビの音が漏れている。
智也は深呼吸をして、インターホンを押す。
数秒の沈黙。
「……はい」
インターホン越しの声。低くて、少しかすれていて、でもはっきりしている。結衣の声だ。
「すみません。突然お邪魔して申し訳ありません。小野寺さん、ですよね」
沈黙。
「……どちら様ですか」
「藤波といいます。面識はないです。でも、どうしても伝えたいことがあって」
「知らない人に部屋番号知られてるの、怖いんですけど」
当然だ。見知らぬ男が部屋の前にいる。恐怖しかない。
「わかってます。すみません。警察を呼んでもらっても構いません。ただ、お願いがひとつだけあります」
「……何ですか」
「今夜、一人で過ごさないでほしい。友達でも、家族でも、誰かのところに行ってほしい」
長い沈黙。インターホンのスピーカーから、結衣の呼吸だけが聞こえる。
「……意味がわからない。あなた、私のこと調べたんですか。ストーカーですか」
「違います。……いや、客観的に見たら違わないかもしれません。でも、害を加えたいんじゃない。あなたに生きていてほしいだけなんです」
智也は自分の声が震えているのがわかる。インターホン越しの会話。ドア一枚を隔てた二人。結衣の顔は見えない。見えないまま、声だけで届ける。
十秒。二十秒。
インターホンが切れる。
終わった、と智也は思う。通報されるだろう。ここで待っていれば警察が来る。
しかし、三十秒後。ドアが薄く開く。チェーンがかかったまま、隙間から結衣の目が見える。
目が合う。
結衣の目は赤い。泣いていたのだ。つい今しがたまで、この部屋の中で。
「……あなた、なんで」
「お願いします。今夜だけでいい」
結衣はしばらく智也の顔を見つめている。チェーン越し。隙間からの光。智也の目を読もうとしている。
結衣はドアを閉める。終わりかと思う。しかし、ドアの向こうから電話をかける声が微かに聞こえる。
「……もしもし、乞実? ごめん、急なんだけど、今夜泊めてもらえない? うん。うん、大丈夫。ちょっと……うん、いろいろあって」
ドアが再び薄く開く。
「友達のところに行きます。これでいいですか」
「……ありがとうございます」
「感謝されるようなことじゃないです。あなたのことは通報するかもしれません」
「わかってます」
「二度と来ないでください」
ドアが閉まる。今度は完全に。鍵がかかる音。
十五分後、結衣がマンションのエントランスから出てくる。小さな鞄を持っている。泊まり支度。智也を探すように一度だけ周囲を見回すが、智也は通りの向こう側に退いている。結衣は足早に駅の方向へ歩いていく。
止めた。
今夜の死は、止めた。
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日曜日。
結衣は乞実のもとで一夜を明かした。智也はそれを確認する術がないが、少なくとも土曜の夜にマンションに戻ってはいない。四階の窓に明かりは灯らなかった。
月曜日。通勤電車。結衣がいつもの場所に立っている。生きている。表情は土曜日の夜より少しだけ和らいでいる。誰かと話したことで、何かが一時的にほぐれたのかもしれない。
智也はそれを見て、ほんの一瞬だけ安堵する。
しかし、その安堵は長くは続かない。
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火曜日。
智也は有給を取り、ゼノファーマのビルの近くで張り込む。結衣が出勤し、午前中を過ごし、午後に営業先に出かけるパターンは変わらない。
夕方。結衣がオフィスビルから出てきたとき、その後ろに男がいる。
前のループで見た男だ。背が高く、恰幅がよく、高そうなスーツ。髪がきれいに整えられ、表情は柔和。結衣に声をかけている。距離は遠いが、結衣の体がこわばるのが見える。肩が上がり、背筋が硬くなる。それでも結衣は振り返り、笑顔を作る。
男が何か言いながら結衣の肩に軽く手を置く。結衣は微動だにしない。凍りついたまま笑っている。男は満足そうに頷き、ビルの中に戻っていく。
何も変わっていない。
結衣を追い詰めている構造は、何一つ変わっていない。
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水曜日の夕方。
智也は結衣がオフィスから出るのを待ち、思い切って声をかける。土曜の夜の男だと気づかれるリスクがあるが、今の智也には他に手がない。
結衣は智也を見て、一瞬だけ足を止める。しかし――予想に反して、通報されるどころか、結衣のほうから口を開いた。
「あなた、土曜の人ですよね」
「……はい」
「なんでまだいるんですか」
「あなたが心配だからです」
結衣は智也を見つめる。警戒はある。しかし土曜の夜とは質が違う。あのとき結衣は泣いていた。そしてその夜、乞実のもとに行き、一夜を過ごした。何かが、ほんの少しだけ変わっている。
「……変な人」
「よく言われます」
結衣は微かに笑う。営業スマイルではない、もっと小さな、戸惑いを含んだ笑い。
しかし、智也が「逃げてくれ」と言ったとき、結衣の表情は一変した。
「逃げる? 何から」
「あなたを追い詰めているものから。会社から。上司から」
「……何を知ってるんですか」
「詳しいことは知りません。でも、あなたが怖がっている人がいることはわかる。あの人――あなたの肩に手を置いた男」
結衣の目が見開かれる。見られていたことへの驚き。そして数秒後、結衣は首を横に振る。
「逃げたら、あの人たちの思うつぼです」
「思うつぼって――」
「私が黙って辞めたら、全部なかったことになる。それだけは嫌なんです」
結衣はそう言って、智也に背を向ける。「もう来ないでください」。今度は土曜の夜より静かな声で。
智也はその背中を見送る。追いかけない。
この人はただの被害者ではない。「逃げない」と決めている人だ。何かと戦っている。何かを守ろうとしている。
しかし――。
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次の週の木曜日。
結衣は死んだ。
土曜の夜を乗り越えた結衣は、その後も出勤を続けた。月曜、火曜、水曜。智也が遠くから見る限り、少しずつ表情が沈んでいった。あの男が結衣に接する場面を何度か目にした。「君のためを思って」と前置きしてから何かを言い、結衣が笑顔を貼りつけて「はい」と頷く。
木曜日の夜。マンションの四階の角部屋に明かりが灯り、深夜に消えた。
金曜日。結衣は出勤しなかった。土曜日も。日曜日。月曜日、ニュースが出る。
小野寺結衣、二十七歳。自宅マンションで死亡。遺書あり。自殺として処理。
日付が変わっただけだ。死ぬ曜日が土曜から木曜に変わっただけで、結末は同じだ。記事の文面もほとんど同じ。会社では「体調不良で有休を取っているもの」と認識されていた。発見は死後数日。
遺書がある、と記事は言う。前回と同じように、「仕事のプレッシャーに耐えきれなかった」という内容。
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智也はアパートの床に座り込んでいる。
止めた。確かに止めた。あの土曜の夜、結衣は乞実のところに泊まった。死ななかった。でも翌週の木曜日に、また死んだ。
死の日付が変わっただけだ。原因は何も変わっていない。
あの男。肩に手を置いた男。「君のためを思って」と言った男。結衣を笑顔のまま凍りつかせた男。
そして「逃げたら、あの人たちの思うつぼです」という結衣の言葉。結衣は何かを知っている。何かに気づいている。そしてそれを黙っていることを拒んでいる。だから追い詰められている。
遺書。今回も遺書があると報じられた。「仕事のプレッシャーに耐えきれなかった」。前回と同じ内容。同じ文面が二度出てきたということは、あの遺書は偶発的に書かれたものではない。用意されたものだ。誰かが、結衣に書かせた可能性がある。
考えろ、と智也は自分に言い聞かせる。
結衣は製薬会社のMRだ。医師に薬の情報を提供する仕事。あの男は結衣の上司だろう。結衣はその上司の何かに気づいた。告発しようとした。しかし封じ込められた。
死を止めるだけでは意味がない。結衣を一時的に救っても、原因が残っている限り、日付が変わるだけで同じことが繰り返される。
原因を断たなければ。
あの男が誰なのか。何をしているのか。結衣は何に気づいたのか。なぜ「逃げない」と言ったのか。その全てを知る必要がある。
「止める」から「知る」への転換。
この決意が、智也の中で形を成す。
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もう一つ、この週で見えたことがある。
結衣の周辺には人がいる。乞実という友人。土曜の夜に泊めてくれた人。そして結衣の家族。ニュース記事には「遺族」という言葉があった。家族がいる。
結衣の死の真相を知る手がかりは、結衣の周囲の人間が持っているはずだ。友人。家族。同僚。結衣を「知っている」人間に接触すれば、結衣の内側に近づける。
そしてあの遺書。中身を確認する方法があるかもしれない。遺族が持っている可能性がある。
ただし、それらの情報は結衣の死後にしか手に入らない。生きている結衣に直接「何と戦っているのか教えてくれ」と聞いても、彼女は答えなかった。「もう来ないでください」と言われた。あの警戒を突破する方法は、今の智也にはない。
ならば、ループの使い方を変える必要がある。
次のループでは、結衣の死を前提として動く。生前にできる限りの情報を集め、死後に遺族や友人に接触し、彼女が何と戦っていたかを突き止める。そのためには――結衣が死ぬ前と後の、両方の時間を使う必要がある。
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智也はベッドに横になる。
三度目のリープを覚悟する。「戻りたい」と念じる。あの朝に。結衣がまだ電車に立っている朝に。
今度の目的は明確だ。止めるのではなく、知る。
結衣が何と戦っていたのかを。誰が追い詰めたのかを。「逃げない」と言った彼女が守ろうとしていたものを。
そのために、まず結衣の家族に接触する。結衣の死後に、遺族として情報を持っているはずの人間に。
意識が沈んでいく。世界がずれる。三回目の感覚は前より鋭い。減る量も多い。体の輪郭がぼやけるような、自分と外界の境目が薄くなるような。
ずれていく意識の中で、ひとつだけ直感がある。リープはいつも、結衣の死の「手前」に落ちる。自分がどの時点から飛んでも、着地は結衣が死ぬ前のどこかだ。そして毎回、その猶予が縮んでいる。リープは「距離」ではなく「彼女の死」を起点に動いている。
構わない。
次こそ。結衣が何と戦っていたかを知る。




