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第2話 七日前

 彼女が生きている。


 その事実だけが、智也の頭の中を占領している。電車は揺れ、乗客は押し黙り、車内アナウンスが次の駅名を告げる。すべてが一週間前の月曜日の朝として完璧に機能している。


 小野寺結衣は、ドア横の手すりのそばに立ち、スマホの画面に目を落としている。時折、まばたきをする。呼吸をしている。生きている。


 智也はつり革を握る手に力を込める。心臓はまだうるさい。しかし少しずつ、思考が回り始める。


 土曜日の夜。


 六日後の土曜の夜に、この人は死ぬ。ニュースでは自殺と書かれていた。遺書があったと。発見は死後約二日、月曜日。会社では体調不良で有休を取っているものと認識されていたため、週末を挟んでも不在に疑問を持つ者がいなかった。


 六日間。智也に与えられた時間は、六日間。


 電車が駅に着き、乗客が入れ替わる。結衣は動かない。彼女はあと三駅で降りる――ことを智也は知っている。毎朝見ていたから。彼女が降りる駅の名前だけは知っている。名前も、仕事も、何に追い詰められているかも知らないのに、降りる駅だけ知っている。それが「見ていた」の中身だ。


 結衣がスマホから顔を上げ、窓の外を見る。その横顔を、智也はじっと見つめる。


 ――今の自分には、何が見えている?


 背格好。髪の長さ。服装。黒のジャケットに白のブラウス。足元はローヒールのパンプス。鞄は暗い茶色の、少しくたびれたトート。仕事用だろう。


 表情は穏やかだ。少なくとも、そう見える。六日後に死ぬ人の顔には見えない。でも「死ぬ人の顔」がどういうものか、智也には基準がない。


 結衣が降りる駅に着く。彼女はスマホをポケットにしまい、ドアに向かう。智也との距離は二メートルほど。彼女は智也を見ない。見る理由がない。


 ドアが開く。結衣が降りる。人の流れに紛れて、あっという間に見えなくなる。


 智也はつり革を握ったまま、彼女がいなくなった空間を見つめる。


---


 会社に着いても、仕事が手につかない。


 コードを書きながら、頭の中では別のことを考えている。六日間で何ができるのか。そもそも何をすべきなのか。


 まず、事実を整理する。


 小野寺結衣、二十七歳。製薬会社のMR。自宅マンションで死亡。遺書あり。自殺として処理。


 智也が知っているのはこれだけだ。ニュースの数行分。これだけの情報で、彼女の死を止める方法があるだろうか。


 昼休み、智也は休憩室を出てビルの非常階段に行く。一人になれる場所。スマホを取り出し、考える。


 まともな方法から試すべきだ。


---


 最初に警察に電話をかけた。


 管轄の警察署ではなく、まず相談窓口。「#9110」をダイヤルする。呼び出し音が三回鳴って、女性の声が応答する。


「はい、警察相談窓口です」


「あの、知り合いが――いえ、知り合いというほどではないんですが、ある女性が自殺するかもしれないと思うんです」


「はい。その方とはどういったご関係ですか?」


「関係は……ありません。毎朝同じ電車に乗っているだけです」


 一瞬の沈黙。


「お話をお伺いしますね。その方が自殺すると思われる根拠はありますか? 何か具体的な言動を確認されましたか?」


 智也は言葉に詰まる。根拠。あるにはある。彼女が死ぬことを「知っている」。ただし、それは一週間後の未来から来たからだ。そんなことを言えるわけがない。


「……直接的な言動は確認していません。ただ、様子がおかしいように見えて」


「お気持ちはわかります。ただ、面識のない方ですと、こちらから介入するのは難しいのが正直なところです。もしその方の連絡先やお住まいをご存知でしたら、最寄りの警察署にご相談いただくか、いのちの電話などの相談機関に繋ぐこともできますが」


「連絡先は知りません」


「そうですか……。では、もしその方と直接お話しする機会があれば、相談窓口の番号をお伝えいただくのがいいかと思います」


 丁寧だが、要するに「どうしようもない」ということだ。面識のない人間が「あの人は自殺するかもしれない」と言っても、何も動かない。当然だ。もし自分が相談員だったとしても、同じ対応をするだろう。


---


 次に、結衣の勤務先に電話をかけた。


 ニュースで社名は報じられていなかったが、ここは未来の記憶が使える。記事に「都内の製薬会社」とあった。智也は一週間後の記憶を頼りに、スマホで製薬会社を検索する。彼女が降りる駅の周辺にオフィスがある中堅の製薬会社。たぶん、ここだろう。


 代表番号にかける。


「はい、ゼノファーマ株式会社でございます」


「お忙しいところ恐れ入ります。営業部の小野寺結衣さんにお伝えしたいことがあるのですが」


「小野寺ですね。少々お待ちください。……失礼ですが、どういったご関係の方でしょうか」


「……面識は、ありません」


「面識がないとのことですが、どういったご用件でしょう」


 何と言えばいいのか。「彼女が六日後に死ぬので伝えたいことがある」。言えるわけがない。


「……すみません。個人的な用件なので」


「申し訳ございませんが、社員への個人的なお取り次ぎは致しかねます。ご了承ください」


 電話が切れる。


 当たり前だ。見ず知らずの男が、名指しで女性社員に連絡を取りたいと言っている。取り次ぐ会社があるわけがない。


---


 火曜日。智也は有給を取った。


 三年間でほとんど使っていない有給が山のように残っている。上司に申請すると、「あ、いいよ」と五秒で承認された。誰も理由を聞かない。智也がいなくても業務は回る。そのことは前から知っていたが、今日はそのことが少しだけ便利に感じる。


 朝、いつもの電車に乗る。いつもの車両。結衣はいつもの場所にいる。スマホを見ている。昨日と変わらない。


 結衣が降りる駅で、智也も降りる。


 ここから先は、智也自身がやったことのない行為だ。見ず知らずの他人の後を追う。考えるだけで胃が重くなる。


 改札を出た結衣が歩き始める。智也は十メートルほどの距離を保って、その後を歩く。


 自分がやっていることの意味を、智也は痛いほどわかっている。これは尾行だ。電車で見かけるだけの女性を追いかけている。名前はニュースで知った。勤務先は推測で突き止めた。そしてその人物の行動を追跡している。


 ストーカーだ。


 客観的に見れば、これはストーカー行為そのものだ。動機が「善意」だとしても、やっていることの形は変わらない。結衣がこの状況を知ったら、恐怖を感じるだろう。通報されても文句は言えない。


 智也は歩きながら、自分に問いかける。


 やめるか?


 やめて、どうする。電話は繋がらなかった。警察は動けない。正規のルートはすべて塞がっている。土曜の夜にこの人は死ぬ。そのことを知っているのは世界でたった一人、自分だけだ。


 それでもやめるか?


 やめない。


 やめられない。


 智也は自分の気持ち悪さを引き受けたまま、歩き続ける。


---


 結衣はゼノファーマの入ったオフィスビルに入っていく。推測は正しかった。


 そのまま建物の前で待ち続けるわけにもいかないので、智也は周辺を歩き回る。ビルの近くにあるカフェに入り、窓際の席でコーヒーを飲みながら、出入り口を見る。


 午前中が過ぎる。結衣はオフィスから出てこない。MRなら営業先の病院に行くはずだが、今日は内勤なのかもしれない。


 午後一時過ぎ。結衣がビルから出てくる。黒いジャケットに書類鞄。歩き方は速い。営業先に向かうのだろう。智也はカフェを出て、また距離を取りながら後を追う。


 結衣が向かったのは、駅から二つ先の大きな総合病院だった。正面玄関から入っていく。智也はロビーのソファに座り、出てくるのを待つ。


 一時間ほどで結衣が出てくる。スマホで何かを確認しながら歩いている。表情は変わらない。仕事モードの、きちんとした表情。営業スマイルとでも言うべきもの。隙がない。


 この人が、五日後に死ぬ。


 嘘だろう、と思う。こんなにしっかりした人が。こんなに普通に仕事をしている人が。


 でも「普通に見える」ことと「普通である」ことは違う。智也だって毎日普通に仕事をしている。普通に出社し、普通にコードを書き、普通に退社する。その「普通」の内側で、心が凍りついていたとしても、誰にもわからない。


---


 水曜日。会社に出勤する。


 午前中、隣の席の田中が話しかけてくる。


「あ、えーと、君……」


「藤波です」


「そうだ、藤波くん。昨日休みだったんだっけ? 気づかなかった」


 田中は悪気なく笑う。智也は「ですよね」と返す。いつものことだ。


 ――ただ、今日はいつもと少し感じ方が違う。


 先週の月曜日にもこの会社にいた。あの時間軸でも田中は智也の名前を一瞬忘れた。今回もまた忘れている。同じことの繰り返し。


 しかし、何かが引っかかる。前回――リープ前の月曜日――のときは、田中は「えーと」と詰まりながらも、すぐに「藤波」と思い出した。今回は「えーと、君……」で完全に止まった。こちらから名乗るまで出てこなかった。


 微妙な違い。気のせいかもしれない。元々智也は印象が薄い人間だ。曜日や体調によって、思い出しやすさに差があるだけかもしれない。


 ――この時点では、それが代償だとは気づいていない。


---


 木曜日。再び有給を取り、結衣を追う。


 今日の結衣は、これまでと少しだけ違う。午前中、オフィスで働いている様子は変わらない。しかし昼過ぎ、建物から出てきたとき、スマホを耳に当てている。表情が硬い。眉間に力が入り、唇が薄く引き結ばれている。


 距離が遠すぎて声は聞こえない。結衣は電話を切ると、数秒だけ立ち止まり、目を閉じる。深呼吸をひとつ。そして、何事もなかったように歩き出す。営業スマイルが戻る。


 智也は見ている。今の一瞬を、自分は確かに見た。あの数秒の停止。あの深呼吸。あれは何だったのか。


 わからない。でも覚えておく。


---


 金曜日。


 智也は結衣のマンションを突き止める。木曜日の退社後、結衣の帰宅ルートを辿って特定した。駅から徒歩八分ほどの、七階建てのマンション。築十年くらい。エントランスにオートロック。


 夕方、結衣が帰宅する。疲れた表情。肩が少し落ちている。火曜日の帰宅時より、明らかに足取りが重い。


 四階の角部屋に明かりが灯る。


 明日の夜、あの部屋で彼女は死ぬ。


 智也はマンションの前に立ち尽くす。何かできることはないか。直接声をかけるか。「死なないでくれ」と言うか。面識のない男にそんなことを言われたら、恐怖しか感じないだろう。


 でもこのまま何もしなければ、彼女は死ぬ。


---


 土曜日。


 結衣が死ぬ日。


 智也は朝から結衣のマンションの近くにいる。結衣は出勤するのだろうか。MRは土曜に出勤することもあるはずだ。


 九時過ぎ。結衣がマンションから出てくる。私服。薄手のコートにジーンズ。休日の格好だ。今日は出勤ではない。近くのコンビニに入り、袋を提げて戻ってくる。


 それきり、結衣は外に出てこなかった。


 午後が過ぎる。夕方になる。四階の窓に明かりが灯ったり消えたりする。部屋の中を移動しているのだろう。


 日が暮れる。


 智也はマンションの前で立ち尽くしている。行くべきか。行ってどうする。何を言う。インターホンを押すか。押して何と言う。「死なないでください」。根拠は。「一週間後の未来から来ました」。正気を疑われて終わりだ。


 行くべきだ。理屈じゃない。この人が今夜死ぬなら、何でもいいから止めるべきだ。通報されてもいい。気持ち悪がられてもいい。


 智也はマンションのエントランスに向かって足を踏み出す。しかし、オートロックのガラス扉の前で足が止まる。部屋番号もわからない。四階の角部屋だと見当はつくが、確証はない。適当な部屋を鳴らして不審者として通報されれば、二度と近づけなくなる。


 ――結局、智也は動けなかった。


 マンションの前で夜を過ごす。十月の夜気が冷たい。街灯の光。時折通り過ぎる車のヘッドライト。四階の窓の明かりは、深夜のどこかで消えた。


---


 日曜日の朝。


 結衣の死を確認する方法がない。ニュースが出るのは月曜日だ。しかし智也には「知っている」という確信がある。一週間後の記憶。あの記事。あの写真。あの数行の文章。


 日曜日は何もできないまま過ぎる。


 月曜日。ニュースが流れる。


 小野寺結衣、二十七歳。自宅マンションで死亡。遺書あり。自殺として処理。発見は死後約二日。


 同じ記事。同じ文面。同じ結末。一文字も変わっていない。


---


 月曜日の夜。智也は自分のアパートのベッドに座り、壁を見つめている。


 一週間あった。六日間。そのうち二日を調査に使い、正規ルートを試し、彼女の生活を追いかけた。そして最後の日、何もできなかった。


 勤務先を突き止めた。自宅を突き止めた。彼女が電話の後に立ち止まる瞬間を見た。それだけだ。彼女が何に苦しんでいるのか、遺書に何が書かれているのか、誰が彼女を追い詰めたのか。何一つわからないまま、結局「外側から見ていた」だけだった。


 一回目と同じだ。電車の中で横顔を眺めていたのと、何が違う。距離が近くなっただけで、本質は変わらない。見ていただけ。


 もう一度、と智也は思う。


 今度こそ。今度こそは、外側からじゃない。彼女の内側に踏み込む。彼女が何と戦っていたかを知る。知って、止める。


 でも――本当に、戻れるのか?


 月曜の夜に起きたことが、もう一度起きる保証はない。あれが何だったのか、智也にはわかっていない。時間が巻き戻った。それだけは確かだ。しかし、なぜ自分に、どうやって、どんな条件で。何もわからない。


 ひとつだけ気になることがある。あのとき、体の奥で「何かが減った」感覚があった。最初から少なかったものが、さらに少しだけ減った、という感覚。


 今もその感覚は残っている。体が以前より軽い。物理的な体重の話ではなく、存在の「厚み」のようなものが薄くなっている気がする。


 ――気のせいだろう。たぶん。


 智也はベッドに横になる。


 目を閉じる。結衣の横顔を思い浮かべる。電車のドア横。スマホを見ている姿。電話の後に目を閉じた一瞬。あの深呼吸。


 もう一度。


 あの朝に。


 もう一度。


 意識が沈んでいく。眠りの縁。世界がずれる感覚。前回と同じだ。時間が一拍止まり、巻き戻される。体の奥で、また何かが減る。前回より少し多く減った気がする。


 不安がよぎる。でも、もう止まれない。


---


 目が覚める。


 アラーム。午前六時四十五分。


 スマホの日付を見る。水曜日。土曜の夜まで四日。前回は月曜に戻って六日間あったが、今回は水曜日。結衣の死までの猶予が短くなっている。


 なぜ縮まったのか。考えている暇はない。四日。前回より二日少ない。まるでリープが、結衣の死の時点に引き寄せられるかのように。


 智也は支度をして、電車に乗る。三号車、いつもの位置。


 結衣がいる。


 今度の智也の目には、前のループで見たものが重なっている。穏やかに見える表情。でもその奥に、木曜日のあの硬い表情が潜んでいることを、智也は知っている。


 スマホを見る手。その指先が、よく見ると微かに力が入りすぎている。画面を「見ている」のではなく、画面を「盾にしている」ように見える。周囲と目を合わせないための、遮断の道具。


 前のループでは気づかなかった。知識が増えると、同じ光景が違うものに見える。


 結衣が窓の外に目をやる。その視線が遠い。車窓の景色を見ているのではなく、もっと遠くの、ここではないどこかを見ている。


 智也は思う。今度こそ。今度こそ、この人が何と戦っていたかを知る。


 電車は走る。智也と結衣を乗せて、朝の街を走る。

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