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最終話 あなたの知らない乗客

 松本乞実の朝は、六時半のアラームで始まる。


 スマホの画面を指で払い、音を止める。しばらく布団の中でぼんやりして、それからのろのろと体を起こす。築浅のワンルーム。異動先のオフィスに近い場所を選んで引っ越した。前の部屋は結衣と同じ路線沿いだった。それが嫌で引っ越したわけではないが、結果的にそうなった。


 洗面台で顔を洗う。鏡の中の自分。丸い目。少し伸びた前髪。切りに行く時間がない、と思いながら三週間が過ぎた。


 コーヒーを淹れる。パンをトースターに入れる。テレビはつけない。朝のニュースを見る習慣はなくなった。結衣が死んだ頃、テレビのニュースを見るのがつらくなって消した。それきり、つけなくなった。


 結衣が死んでから、四ヶ月が経っている。


---


 乞実は異動先の部署で、新しい担当エリアのMRをしている。前の部署——永尾がいた部署——からの異動は、乞実自身が希望した。理由は「キャリアの幅を広げたい」と書いた。本当の理由は書かなかった。


 新しい部署は忙しい。新しい取引先、新しい医師、新しいルーティン。覚えることが山ほどあって、考える暇がない。それが乞実にはありがたかった。考える暇があると、結衣のことを思い出す。思い出すと、胸の奥がちくりと痛む。


 結衣のこと。


 結衣は「仲の良い同僚」だった。入社時期が近くて、営業先が被ることが多くて、昼休みに一緒にご飯を食べることもあった。結衣は明るい人で、愛想が良くて、医師や看護師からの受けも良かった。乞実は結衣のそういうところが好きだった。


 でも、結衣が何に苦しんでいたのか、乞実は知らなかった。


 嘘だ。知らなかったわけじゃない。


 知っていた。少なくとも、何かがおかしいことには気づいていた。結衣の表情が変わっていったこと。笑顔の質が変わったこと。永尾部長と話すときの結衣の体のこわばり。ある日の夕方、永尾が別の部下を「君のためを思って言うんだけど」と詰めているのを見たとき、結衣の顔が一瞬だけ凍りついたのを、乞実は見ていた。


 見ていて、目をそらした。


 自分のデスクに戻って、自分の仕事に向き直った。見なかったことにした。


 なぜ。


 怖かったから。永尾に逆らうことが怖かった。入社直後、大口の取引先からのクレーム対応で窮地に立たされたとき、永尾が矢面に立ってくれた。「松本の責任じゃない。現場の判断としてはこれで正しい」と言い切ってくれた。あのとき、永尾は乞実を守ってくれた。


 その恩がある。あの人は怖いけど、いざというとき守ってくれる。それが乞実の中の永尾像だった。


 だから結衣が苦しんでいても、永尾のほうに非があるとは思いたくなかった。結衣がPMS——市販後調査の件で思い詰めた顔をしていたのは見ていた。でも「永尾部長がうまくやってくれるだろう」と思った。「結衣も真面目すぎるんだよ」と思った。


 そして結衣は死んだ。


 「まあ、自殺だったんでしょ? 仕事のプレッシャーって聞いたし」


 菜紗ちゃんにそう言った自分の声が、四ヶ月経った今でも耳に残っている。あの言葉を口にしたとき、菜紗ちゃんの目から光が消えたのを覚えている。失望の顔。それを見て、乞実は話題を変えた。


 蓋をした。結衣の死に、蓋をした。


---


 蓋をしたのは、あのとき一度だけではない。


 結衣が死んだ直後のことだ。異動願を出す前、まだ前の部署にいた頃。社内メール便で、差出人のない封筒がデスクに届いた。


 茶色い封筒。「松本乞実様」と手書きの宛名。差出人は空白。


 中には便箋一枚。数字が並んでいるだけだった。


 PMS症例39。症例52。症例17。症例68。症例71。


 それだけ。説明なし。署名なし。


 乞実はその数字を見つめた。心臓が止まるかと思った。ゼノプレスの市販後調査の症例番号だ。結衣が生前、気にしていた薬だ。「乞実、ゼノプレスのPMSデータ、ちょっと見てくれない?」と言われたことがある。「忙しいから後で」と返した。後で、は来なかった。


 誰が送ってきたのか。差出人がない。封筒の裏にも手がかりはない。


 この症例番号が何を意味しているのか、乞実にはうっすらとわかった。わかりたくなかった。これを追い始めたら、蓋が開く。結衣の死が、自殺ではなかったかもしれないという可能性に向き合わなければならなくなる。永尾の恩を裏切ることになる。自分が「見て見ぬふり」をしたことを直視しなければならなくなる。


 乞実は便箋を封筒に戻し、デスクの引き出しの奥に押し込んだ。


 異動するとき、デスクの中身を段ボールに詰めた。封筒もその中に紛れた。私物の箱はアパートに持ち帰り、部屋の隅に積んだ。四ヶ月間、一度も開けなかった。


---


 水曜日の夕方。


 菜紗から連絡が来る。


 乞実のスマホにLINEのメッセージ。「乞実ちゃん、姉のことで話がある。会えませんか」


 四ヶ月ぶりの連絡。前回会ったときは、あのカフェで。「まあ自殺だったんでしょ」と言って、菜紗ちゃんを失望させた、あのとき。


 返事を打つ手が重い。でも、部屋の隅に積んだ段ボールの中の封筒が頭に浮かぶ。四ヶ月間、見ないふりをしてきたあの便箋。


「会えるよ。土曜の午後でいい?」


---


 土曜日。駅前のカフェ。前と同じチェーン店。


 菜紗が先に来ている。四ヶ月前より少し痩せたが、目の力が違う。前回はどこか揺らいでいた目が、今日はまっすぐだ。何かを決めた人間の目。


「乞実ちゃん。単刀直入に言うね」


 菜紗はテーブルの上に、クリアファイルを置く。


「姉は自殺じゃなかった。殺されたんだ。永尾雅人に」


 乞実の手が、アイスティーのグラスの上で止まる。


「……菜紗ちゃん、何言って」


「これを見て」


 菜紗がファイルを開く。中身は複数の資料。公開データの分析結果。PMDAの副作用報告件数と、競合薬との比較表。統計的に不自然な乖離を示すグラフ。


「ゼノプレスの有害事象報告が、組織的に握り潰されていた。永尾が主導して、都合の悪い症例を報告から除外していた。姉はそれに気づいて、告発しようとした。永尾は姉を追い詰めて、社内で孤立させて、反省文を書かせた。その反省文が、死後に遺書として扱われた」


 乞実はグラフを見つめている。数字が頭に入ってこない。入ってこないのではなく、入れたくないのだ。四ヶ月前と同じだ。引き出しに押し込んだ便箋と同じだ。見たくない。でも——


「この分析をしたのは誰なの」


「わからない」


「わからない?」


「誰かに教えてもらったの。でも、誰だったか思い出せない。電話をかけてきた人がいて、すごく詳しかった。でも名前も顔も……思い出せない。声が遠かったことだけ覚えてる」


 乞実は菜紗の顔を見る。嘘をついている顔ではない。本当に思い出せないのだ。


「それに、これ」


 菜紗がもう一つのクリアファイルを出す。有害事象報告のスプレッドシート。赤ペンで丸がつけてある。「実際には未報告」と書き込まれた、結衣の字。


「姉が自分のロッカーに隠してた。遺品を引き取りに行ったとき、業務ファイルに紛れてた。これ、姉の字だよ。間違いない」


 乞実は結衣の字を知っている。何度も見た。営業報告書の、几帳面で少しだけ右に傾いた字。その字で「実際には未報告」と書いてある。


「それから、遺書」


 菜紗が遺書のコピーを出す。


「姉の遺書の中に、こういう一文がある。『そらのいろが、もう見えません』。これは姉から私へのメッセージ。姉妹の間でしか使わない言葉。姉は永尾に書かされた反省文の中に、自分の意志でこの一文を入れた。真実が隠されると知っていたから、私にだけわかる言葉を残した」


 乞実は遺書のコピーを手に取る。結衣の字だ。全体は確かに硬い。「自身の未熟さを深く反省しております」。結衣はこんな言い方をしない。これは——永尾の言い方だ。部下に言わせる言葉。


 そして、「そらのいろが、もう見えません」。この一行だけが結衣の声で書かれている。ひらがなの「そらのいろ」に、乞実は結衣の笑顔を思い出す。営業先から出たとき、空を見上げて「今日、空きれいだね」と言っていた結衣。


 資料を読み終えた乞実は、しばらく黙っている。


 菜紗が待っている。


「……乞実ちゃん。前に会ったとき、PMSのこと聞いたよね。知らないって言ったよね」


 乞実は目を閉じる。


「知ってた」


 声が、自分の喉から絞り出される。


「知ってた。結衣がPMSのことで悩んでたのは知ってた。永尾部長のことも。結衣が追い詰められてるの、見てた。目の前で見てた」


 菜紗は何も言わない。


「永尾部長が部下を詰めてるのも見た。結衣がそれを見て凍りついた顔も見た。全部見てた。見てて、何もしなかった」


 乞実の目から涙が落ちる。止められない。四ヶ月間、蓋をしていたものが溢れ出す。


「それだけじゃない。結衣が死んだ直後に、私のデスクにメモが届いたの。差出人がなくて、ゼノプレスのPMS症例番号だけが書いてあった。あの番号が何を意味してるか、私にはわかった。わかったのに——引き出しに押し込んだ。四ヶ月間、見ないふりをしてた。菜紗ちゃんに『自殺だったんでしょ』って言ったのと同じ。ずっと、蓋をし続けてた」


 声が途切れる。菜紗はテーブルの向こうで、静かに乞実を見ている。


「結衣のことを、私は見ていなかった。見てたのに、見てなかった。目の前にいたのに。毎日一緒にご飯食べてたのに。苦しんでるの知ってたのに、何もしなかった。永尾部長に恩があったから。逆らうのが怖かったから。メモが届いたときも、まだ怖かった。それで結衣を——」


「乞実ちゃん」


 菜紗の声は静かだ。怒りでも許しでもない。ただ事実を確認する声。


「今からでも、やれることがある」


---


 乞実は涙を拭い、顔を上げる。


「……やる。やらせて。私がやる」


 乞実は鞄から、あの封筒を取り出す。四ヶ月間、部屋の隅の段ボールに眠っていた茶色い封筒。今朝、家を出る前に箱を開けて掘り出してきた。菜紗に会うと決めた瞬間に、これを持っていかなければと思った。


「菜紗ちゃん、これ見て」


 便箋を見せる。PMS症例39。症例52。症例17。症例68。症例71。


「結衣が死んだ直後に、社内メール便で届いた。差出人なし。四ヶ月間、段ボールに入れたまま放置してた」


 菜紗が便箋を見つめる。症例番号。結衣のロッカーに残っていた資料に赤ペンで丸がつけてあった番号と、一致する。


「……誰が、これを」


「わからない。でも、結衣が気にしてた症例番号と同じだよね」


「同じ。姉がロッカーに残してた資料の番号と、完全に一致してる」


 二人は顔を見合わせる。


 菜紗のデータ分析。結衣のロッカーの証拠。乞実に届いた差出人不明のメモ。そして、菜紗が「誰かに教えてもらった」知識。全てが「誰かが準備してくれた」としか思えない形で繋がっている。


 菜紗が言う。


「規制当局からも、会社に照会が入ったらしい。ゼノプレスの有害事象報告について」


「照会? いつ」


「先週。匿名の情報提供があったって。社内で噂になってるって、前の部署の子から聞いた」


 匿名の情報提供。規制当局への。


 乞実は理解する。誰かが——菜紗にも乞実にもわからない誰かが——この全てを仕組んだ。証拠を集め、分析し、菜紗に渡し、乞実にメモを送り、規制当局に匿名で通報した。


 その「誰か」が誰なのか、もう誰にもわからない。名前がない。顔がない。記憶にない。しかし、その人がした「こと」だけが、差出人不明の荷物のように、世界のあちこちに届いている。


「誰かが、私たちの代わりにここまでやってくれた」


 乞実はそう言って、自分の言葉に打たれる。


 私たちの「代わりに」。


 本当なら、乞実がやるべきだったことだ。結衣の隣にいた人間が。結衣の異変に気づいていた人間が。永尾の暗部を見ていた人間が。メモまで届けてもらっていた人間が。


 それをしなかった。四ヶ月間。二重に、三重に。逃げた。蓋をした。押し込んだ。


 その間に、顔も名前も知らない誰かが、全てをやってくれた。


 乞実は便箋を握りしめる。


「私が動く。今度は、私が」


---


 翌週。乞実は動き始める。


 まず、菜紗と一緒に証拠を照合する。乞実にはMRとしての知識がある。症例番号の意味がわかる。社内のデータフローがわかる。どの段階で報告が止められたのかを、実務者の目で特定できる。


 社内システムにアクセスする。異動後もアクセス権は一部残っている。メモにあった症例番号を引く。


 症例39。降圧剤ゼノプレスを投与された患者に、重度の肝機能障害が発生。現場MR(結衣)が有害事象として報告書を作成。しかしシステム上のステータスは「報告不要・部長判断」。永尾のアカウントで処理されている。


 症例52。同薬を投与された患者に、横紋筋融解症の疑い。結衣が報告書を提出。同じく「報告不要・部長判断」。


 症例17、68、71。すべて同じパターン。現場MRが報告を上げ、営業部長権限で「報告不要」として処理されている。


 乞実はモニターの前で唇を噛む。全部、永尾だ。全部、握り潰されている。結衣が気づいて、声を上げようとして、潰された。


---


 乞実は菜紗に連絡する。


「全部確認した。菜紗ちゃんの資料の通り。社内データでも裏が取れた」


「乞実ちゃん……」


「弁護士に相談しよう。外部の。会社の顧問じゃない、独立した弁護士。薬機法に詳しい人」


「知り合いの先生がいる。姉のことを相談したとき、紹介してもらった人。まだ連絡してなかったけど」


「連絡して。私も一緒に行く」


 菜紗は一拍置いて、言う。


「ありがとう、乞実ちゃん」


「ありがとうじゃないよ。私がもっと早く動いていれば、結衣は——。あのメモが届いた時点で動いていれば——」


「それは言わないで。今動いてくれてること。それが全部」


---


 弁護士との面談の約束が取れる。来週の月曜日。薬機法と内部告発に詳しい女性弁護士。菜紗が証拠一式を持っていく。乞実は社内データの裏付けと、現場の証言者として同行する。


 規制当局からの照会も動いている。ゼノファーマの経営陣は対応に追われ始めている。まだ表沙汰にはなっていないが、社内では「何かが起きている」という空気が流れ始めている。


 波紋は確かに広がっている。


---


 月曜日の朝。


 乞実は七時過ぎの電車に乗る。異動してから通勤路線が変わった。以前は結衣と同じ路線だった。今は違う。


 車内は混んでいる。月曜の朝。スーツの群れ。スマホを見る人。目を閉じている人。イヤホンをしている人。互いの名前も知らない、匿名の乗客たち。


 乞実はつり革を握りながら、車内を見回す。ふと、車両の中ほどで、ある席だけが空いているのが目に入る。


 ロングシートの、左から三番目あたり。両隣には人が座っている。その席の前にも立っている人がいる。なのに、その一席だけ誰も座っていない。


 混んでいるのに。


 月曜の朝の、この混雑の中で。


 不思議だ。空いているなら誰かが座りそうなものだ。でも誰もその席に目を向けない。その席の存在に気づいていないかのように、みんな素通りする。


 乞実はその空席を見つめる。


 なぜか目が離せない。理由はわからない。ただ、そこに何かがある気がする。いや、何かが「あった」気がする。その席に、かつて誰かが座っていた。あるいは、その近くに誰かが立っていた。


 名前はわからない。顔もわからない。その人が誰だったのか、乞実には思い出せない。思い出す以前に、知っていたのかどうかすらわからない。


 でも。


 その空席のそばを通ったとき、乞実の中で何かが動く。胸の奥の、言葉にならない場所。結衣のことを思い出す。電車のドア横に立っていた結衣。毎朝同じ場所にいた結衣。いなくなっても、誰にも気づかれなかった結衣。


 あの人も、こうやって誰かの隣に立っていたのだ。


 そしてもう一人。もう一人、いた気がする。結衣がいなくなったことに気づいた人がいた。その人が、動いてくれた。証拠を集め、菜紗ちゃんに渡し、規制当局に送り、乞実にメモを届けた。


 あなたの知らない乗客。


 名前も顔も知らない。会ったことがあるのかもわからない。でもその人が残したものが、今、乞実の手元にある。差出人不明のメモ。四ヶ月間箱の中に押し込んでいたメモ。その人は、乞実がいつか蓋を開けることを信じて、あのメモを送ってくれたのだろうか。


 乞実は空席を見つめたまま、静かに思う。


 結衣のことを、私は見ていなかった。目の前にいたのに。毎日隣にいたのに。


 メモが届いたときも、見なかった。引き出しに押し込んだ。あの人が命をかけて届けてくれたかもしれないものを。


 でも、今は見える。結衣が何と戦っていたか。何を残そうとしたか。あの遺書の中の「そらのいろ」が何を意味していたか。


 そして、もう一人の「あなた」が何をしてくれたか。


 電車が揺れる。乗客が入れ替わる。空席はまだ空いている。誰もそこに座ろうとしない。まるで、そこに誰かがいるかのように。


 乞実はつり革から手を離し、その空席の前に立つ。


 何もない。ただの青いシート。汚れもない。へこみもない。誰かが座っていた痕跡は、何も残っていない。


 でも乞実にはわかる。ここに、誰かがいた。


 今度は、私が見る。


 結衣のことを。あの人が残してくれたものを。もう二度と、目をそらさない。もう二度と、引き出しに押し込まない。


---


 電車が駅に着く。ドアが開く。乞実は降りる。


 改札を出て、空を見上げる。十二月の朝。冷たい空気。雲ひとつない青空。


 そらのいろ。


 今日の空は、澄んだ青だ。結衣が好きだった空。


 乞実は鞄の中の資料を確かめる。今日の午後、弁護士との面談がある。菜紗ちゃんと待ち合わせている。結衣が残した証拠と、名前のない誰かが集めたデータを持って、次の一歩を踏み出す。


 乞実は歩き出す。冬の朝の光が、アスファルトを白く照らしている。


 背後で電車のドアが閉まる。発車のベルが鳴る。電車が動き出す。


 車両の中ほどの空席は、まだ空いている。


 次の駅で誰かが座るかもしれない。座らないかもしれない。


 でも、その席にかつて誰かがいたことを、乞実は知っている。


 知っているのは乞実だけだ。


 いや——乞実ですら、知っているわけではない。「誰かがいた気がする」という、名前のない感覚があるだけだ。それは記憶ではない。知識でもない。もっと曖昧な、しかし確かな何かだ。


 存在は消えた。名前は消えた。顔は消えた。


 でも、行為は残った。


 結衣が蒔いた種を、名前のない誰かが拾い上げ、芽が出る場所に届けた。その芽を、今度は乞実が育てる。乞実の次には、また別の誰かが引き継ぐかもしれない。


 走者は消えても、バトンは残る。


 存在は消えても、行動は残る。


 それが、あなたの知らない乗客が、この世界に残したすべてだ。



――『あなたの知らない乗客』 完――

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