第1話 空席
午前六時四十五分。アラームが鳴る。
藤波智也は目を開け、天井のシミを三秒だけ見つめてから体を起こす。築二十年のワンルーム。壁は薄く、隣の部屋の目覚ましが自分のより二分早く鳴るのを、智也は知っている。隣人の名前は知らない。
洗面台の鏡に映る自分の顔を確認する。別に確認する必要はない。昨日と同じ顔だ。明日も同じ顔だろう。歯を磨き、髭を剃り、ユニクロの白シャツに袖を通す。紺のスラックス。黒のベルト。量産品のような身なりだと自分でも思うが、誰に見せるわけでもない。
玄関を出て、駅までの道を歩く。十二分。信号二つ。コンビニで缶コーヒーを買う。毎朝同じ銘柄。微糖。レジの店員は智也の顔を覚えていない。毎朝来ているのに。まあ、それはお互い様だ。
七時十八分の電車に乗る。三号車の二つ目のドア。つり革は左から三番目。これが藤波智也の朝のすべてであり、藤波智也の朝はいつも過不足なく完了する。
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会社はベッドタウンから四十分ほど都心に入った雑居ビルの六階にある。従業員六十人程度の中小IT企業。智也はシステムエンジニアとして三年目になる。
席に着き、パソコンを起動する。メールを確認する。自分宛のものは業務連絡が三通。CCに入っているだけのものが十二通。社内チャットの未読は昨夜の飲み会の写真が大量に流れていて、智也はスクロールして既読だけつける。自分はその飲み会に誘われていない。正確に言えば、誘い忘れられている。
「あー、おはよ。……えーと」
隣の席の田中が声をかけてくる。二年同じフロアにいる。
「藤波です」
「そうそう、藤波くん。昨日のあれ、コードレビュー終わった?」
「昨日のうちに出してます」
「お、マジで。仕事早いね」
田中は軽く笑って自分のモニターに向き直る。名前を忘れられることにはもう慣れた。智也の仕事は確実で速い。それは誰もが認めている。ただ、それを「智也がやった」と覚えている人は少ない。コードは残るが、書いた人の顔は残らない。そういうポジションだ。
昼休み、一人でコンビニの弁当を食べる。休憩室にはグループがいくつかできていて、それぞれが会話に花を咲かせている。智也はその輪に入らない。入れないのではなく、入らないのだ――と自分では思っている。
それが本当に「入らない」なのか「入れない」なのか、二十九年生きてきていまだにわからない。
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智也の視線が、無意識に車両の中ほどに向く朝がある。三号車、ドア横の手すりのそば。いつもそこに立っている女性がいる。黒髪のセミロング。背は中くらい。いつもスマホを見ていて、時折窓の外に目をやる。名前は知らない。話したこともない。ただ毎朝、同じ車両の同じ場所にいる、それだけの存在。
通勤電車とはそういう空間だ。毎日同じ顔ぶれが、毎日同じ場所に立ち、毎日同じように目を合わせない。匿名の群衆。名前のない関係。
ただ、智也は一度だけ、その女性と言葉を交わしたことがある。
二週間ほど前のこと。混雑した車内で、彼女の手からワイヤレスイヤホンがこぼれ落ちた。小さな白い粒が、乗客の足元に転がった。彼女は気づいていない。智也はそれを拾い上げて、「落としましたよ」と差し出した。
彼女は少し驚いた顔をして、それからふわりと笑った。
「ありがとうございます」
その声は思ったより低くて、少しかすれていて、でもはっきりしていた。
それだけだ。そのあと二人はまた「同じ電車に乗る他人」に戻った。彼女のほうは、翌日にはもう智也の顔を覚えていなかっただろう。
でも智也は覚えていた。あの「ありがとうございます」を。他人から感謝されることが少ない人間にとって、それは些細だが妙に鮮明な記憶として残る。
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月曜日の朝。
電車に乗り、いつもの位置に立つ。視線が自然にあの場所に向かう。ドア横の手すりのそば。
いない。
金曜まではいた。いつもと変わらず、スマホを見て、時折窓の外に目をやって。木曜には少しだけ表情が硬い気がしたが、気のせいかもしれない。金曜もいつもどおりだった。
週末を挟んで、月曜日。いない。
智也は一瞬だけ違和感を覚え、すぐに打ち消す。体調不良かもしれない。有休かもしれない。赤の他人がいつもの場所にいないだけのことに、意味を見出すほうがおかしい。
周囲の乗客は誰も気にしていない。当然だ。誰もあの場所に誰が立っていたかなど覚えていない。見ていなかったのだから。
でも智也は見ていた。毎朝見ていた。だから「いない」ことに気づいた。
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同じ月曜日の昼休み。
会社の休憩室で弁当を食べながら、智也は何となくスマホでニュースを眺めている。ローカルニュースの欄に、短い記事が出ている。
『製薬会社勤務の女性(27)自宅マンションで死亡 自殺か』
記事は素っ気ない。名前は小野寺結衣。都内の製薬会社でMRとして勤務。自宅マンションの一室で遺体が発見された。遺書があり、警察は自殺と見て捜査中。
小さな顔写真が添えられている。社員証か何かから引き伸ばしたような、やや不鮮明な写真。
智也の指が止まる。
この顔を知っている。毎朝見ていた横顔。イヤホンを落として、拾ったら笑った人。
記事を読み直す。発見は死後約二日。会社では「体調不良で有休を取っているもの」と認識されていたため、週末を挟んでも不在を不審に思う者がおらず、発見が遅れた。
二日間。
金曜日の朝には、いつもの場所にいた。あの場所に立って、スマホを見ていた。いつもと同じ顔で。
それが最後だったのだ。
あれだけ毎朝電車に乗り、あれだけ人と接する仕事をしていた人間が、週末に死んでも、月曜の朝まで誰にも気にされなかった。
智也はスマホの画面を見つめたまま、弁当の箸を置く。食欲が消えている。
彼女の名前を、今日初めて知った。小野寺結衣。二十七歳。あの「ありがとうございます」の声を持っていた人。あのかすれた、でもはっきりした声の人。
自殺。
遺書がある。仕事のプレッシャーに耐えきれなかった、と。
そうなのだろうか。智也には判断する材料がない。毎朝電車で見ていただけだ。何も知らない。知らないから、口を出す権利もない。
でも。
あの笑顔の裏に、そんなものがあったのか。あの二週間前の「ありがとうございます」のとき、彼女はもう追い詰められていたのか。
智也は思う。
僕は彼女の何を見ていたんだろう。
毎朝同じ電車で、同じ場所に立つ彼女を見ていた。でも「見ていた」のか? 本当に? 横顔の輪郭と、髪の長さと、スマホを見る姿勢。それだけだ。その奥にある人間を、何一つ見ていなかった。
それは智也だけではない。あの電車に乗っていた全員がそうだ。誰も彼女を見ていなかった。名前も、仕事も、何に苦しんでいるかも。
金曜日まで隣にいたのに。金曜日に最後に見たのに。そのとき何も感じなかった。
智也だけが「いない」と気づいた。それは「見ていた」と呼べるのか。呼べないだろう。ただの違和感だ。空席を見つけた、その程度のこと。
でも、その程度のことに気づいたのが自分だけだという事実が、胸のどこかに刺さって抜けない。
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定時で退社する。いつも定時だ。残業するほどの仕事がないのではなく、智也が効率的に片づけてしまうからだが、それを評価する上司もいなければ、感謝する同僚もいない。「あいつ、いつの間にか帰ってるよな」と言われているのは知っている。
駅前の商店街を抜け、住宅地に入ったところに、その店はある。
「やまざき」と書かれた暖簾。カウンター八席と小上がりが二つの、個人経営の定食屋。智也が引っ越してきた三年前から通っている。
暖簾をくぐると、カウンターの向こうで山崎さんが振り返る。六十代。白髪交じりの髪をひとつに束ね、割烹着を着た小柄な女性。
「あら、智也くん。今日もいつもの?」
「はい、いつもので」
生姜焼き定食。ご飯大盛り。味噌汁は豆腐とわかめ。
山崎さんは「はいはい」と笑って厨房に向かう。この何気ないやりとりが、智也にとっては世界との数少ない接点だ。「いつもの」で注文が通じる場所がある。名前で呼んでもらえる場所がある。それがどれだけありがたいか、智也は普段あまり考えない。考えると、自分の生活の貧しさを直視することになるからだ。
生姜焼きを食べながら、結衣のことを考える。
彼女にも、こういう場所はあったのだろうか。「いつもの」で通じる場所。名前で呼んでもらえる場所。帰る場所。
二十七歳。MR。営業職だから、人と会うのが仕事だ。毎日何人もの医師や看護師と顔を合わせる。智也よりずっと多くの人と接していたはずだ。
なのに、週末に死んでも月曜まで気づかれなかった。
人と接することと、人に見られていることは、違うのかもしれない。
ご飯粒を最後のひとつまで食べ、「ごちそうさまでした」と言う。山崎さんが「はい、おつかれさま」と返す。
外に出ると、十月の夜気が冷たい。見上げると、ビルの隙間に細い月が出ている。結衣も、この空を見ていたのだろうか。電車の窓から、時折外を見ていたあの視線は、何を見ていたのだろう。
もう確かめる方法はない。
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アパートに戻り、シャワーを浴び、ベッドに横になる。
天井のシミ。今朝と同じシミ。明日の朝も同じシミを見る。同じ缶コーヒーを買い、同じ電車に乗る。ただ、あの場所にはもう誰も立っていない。
結衣の顔が浮かぶ。正確には、ニュース記事の不鮮明な写真と、イヤホンを受け取ったときの笑顔が、重なって浮かぶ。
あの笑顔は本物だったのか。営業職の人間は笑顔が商売道具だ。作り笑いなんて朝飯前だろう。でも、あのときの「ありがとうございます」には、少しだけ驚きが混じっていた気がする。落とし物を拾ってもらったことへの驚き。そんな些細なことを気にしてくれた人がいた、という驚き。
――それは智也の思い過ごしかもしれない。たぶんそうだ。
でも、思い過ごしだとしても、彼女は確かにあの瞬間笑っていた。そしてその週末に死んだ。
自殺。遺書。仕事のプレッシャー。
それで終わりなのか。
本当に?
記事にはほとんど情報がなかった。名前と年齢と職業と、死因と、遺書の存在。それだけだ。二十七年の人生が数行に圧縮されて、明日にはもう誰もこの記事を覚えていない。
智也は目を閉じる。
閉じた瞼の裏に、電車の光景が浮かぶ。三号車、ドア横。彼女が立っていた場所。今はただの空間。あそこに人がいたことを知っている人間が、この世界に何人いるだろう。
戻りたい、と思う。
明確な計画があるわけではない。何ができるかもわからない。ただ、あの空席が埋まっていた時間に戻りたい。彼女がまだそこに立っていた朝に。「ありがとうございます」が、まだ現在形だった時間に。
戻りたい。
思いは輪郭を持たないまま、意識の中で渦を巻く。瞼が重くなる。今日一日の疲労が体を沈ませていく。
戻りたい。
眠りに落ちる直前、世界がずれる。
それは物理的な感覚だ。目眩とも違う、耳鳴りとも違う、地面が二センチだけ横に動いたような。時間が一拍だけ止まって、巻き戻されたような。体の奥で何かが「減った」感覚がある。最初から少なかったものが、さらに少しだけ減った。
何が減ったのかはわからない。ただ、軽くなった。自分という存在の重さが、ほんの少しだけ軽くなった。
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目が覚める。
天井のシミ。同じシミ。アラームが鳴っている。午前六時四十五分。
月曜日。
スマホの日付を見て、智也は凍りつく。先週の月曜日になっている。
夢だ、と思う。しかし体は目覚めている。シーツの感触がある。窓から差し込む朝日の角度がある。隣室の目覚ましが二分前に鳴ったばかりの残響がある。
すべてが「一週間前の月曜日」だ。
頭がうまく回らないまま、智也は朝のルーティンをこなす。歯を磨き、髭を剃り、白シャツに袖を通す。コンビニで缶コーヒーを買う。駅に向かう。
七時十八分の電車。三号車。二つ目のドア。
乗り込んだ瞬間、智也の足が止まる。
ドア横の手すりのそば。
彼女がいる。
黒髪のセミロング。スマホを見ている。時折、窓の外に目をやる。何も変わらない、いつもの朝の、いつもの光景。
小野寺結衣が、生きている。
智也は息を呑む。心臓がうるさい。手が震えている。隣の乗客がちらりとこちらを見て、すぐに視線を戻す。
彼女は気づかない。智也のことなど見ていない。当然だ。イヤホンを拾ってもらったことなんて、もう覚えていないだろう。彼女にとって智也は「同じ電車に乗る無数の他人のひとり」にすぎない。
でも、彼女は生きている。
今週の土曜の夜に死ぬ人が、今、ここで、スマホを見ている。




