表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

第5話「それでも通報されない夜に」

夜勤明けの朝は、いつも街が眩しい。

事件も事故も起きていないはずの通りを、人々は何事もなかったように歩いている。

私は交番の裏口で立ち止まり、深く息を吸った。

あの夜から、胸の奥に残った感覚は消えていない。

動かなかった判断が、記録にも残らず、誰にも問われないまま、そこに沈んでいる。

その日の夜、私は再び夜勤に入った。

相棒は別の応援に回り、交番には私一人だった。

時計は二十三時を回っている。

電話は鳴らない。

無線も静かだ。

——そして、来た。

胸の奥が、きしむように重くなる。

理由は分からない。だが、はっきりと分かる。

今夜も、通報されなかった。

感覚は、あの住宅街の方向だった。

最初にインターホンを押した、あの家。

私は椅子から立ち上がり、しばらくその場で動かなかった。

前回と同じ選択をすれば、何事もなく終わる。

越権しなければ、問題は起きない。

——だが、沈黙もまた、問題を起こす。

私は上着を羽織り、外に出た。

これは職務質問でも、立ち入りでもない。

ただの巡回だ。ただの声かけだ。

夜の住宅街は、相変わらず静かだった。

街灯の下、あの家の前に立つ。

胸の奥の感覚は、逃げ場を失ったように、そこに集まっている。

私はインターホンに手を伸ばし、しかし押さなかった。

代わりに、玄関の前で声を出した。

「巡回です。警察です」

数秒。

反応はない。

もう一度、同じ声量で繰り返す。

「何かあれば、ここにいます」

沈黙が続く。

それでも、私は立ち去らなかった。

やがて、鍵の回る音がした。

ドアが少しだけ開き、中から女性が顔を出す。

前に見た男性ではない。

目の下に、深い影がある。

「……通報じゃないんです」

彼女は、先にそう言った。

私は頷いた。

「分かっています」

その言葉を聞いた瞬間、彼女の肩がわずかに落ちた。

「でも」

彼女は続けた。

「警察を呼ぶほどじゃないと思って」

「そういうこともあります」

それだけの会話だった。

事情を聞くこともしない。

記録も取らない。

だが、彼女は続けた。

「……誰かに、来てもらえると、助かる夜もありますね」

それだけだった。

助けてほしいとも、被害に遭ったとも言わない。

ただ、来てほしかった。

私は、その場で何かを解決することはできない。

逮捕も、注意も、指導もない。

それでも、彼女は話した。

声を出した。

それが、今夜のすべてだった。

交番に戻ると、電話が鳴った。

緊急性のない相談だ。

だが、確かな通報だった。

受話器を置いたあと、私は日誌を開いた。

そこに、こう書いた。

——通報なし。だが、声あり。

それは正式な記録ではない。

だが、私にとっては、初めて沈黙が破れた証だった。

警察は、通報があって初めて動く。

それは変わらない。

それでも、

通報されない夜に、立ち止まることはできる。

交番の外で、風が木を揺らした。

街は静かだ。

だが今夜、少なくとも一つの沈黙は、

確かに声に変わった。

私は、その重さを忘れない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ