第5話「それでも通報されない夜に」
夜勤明けの朝は、いつも街が眩しい。
事件も事故も起きていないはずの通りを、人々は何事もなかったように歩いている。
私は交番の裏口で立ち止まり、深く息を吸った。
あの夜から、胸の奥に残った感覚は消えていない。
動かなかった判断が、記録にも残らず、誰にも問われないまま、そこに沈んでいる。
その日の夜、私は再び夜勤に入った。
相棒は別の応援に回り、交番には私一人だった。
時計は二十三時を回っている。
電話は鳴らない。
無線も静かだ。
——そして、来た。
胸の奥が、きしむように重くなる。
理由は分からない。だが、はっきりと分かる。
今夜も、通報されなかった。
感覚は、あの住宅街の方向だった。
最初にインターホンを押した、あの家。
私は椅子から立ち上がり、しばらくその場で動かなかった。
前回と同じ選択をすれば、何事もなく終わる。
越権しなければ、問題は起きない。
——だが、沈黙もまた、問題を起こす。
私は上着を羽織り、外に出た。
これは職務質問でも、立ち入りでもない。
ただの巡回だ。ただの声かけだ。
夜の住宅街は、相変わらず静かだった。
街灯の下、あの家の前に立つ。
胸の奥の感覚は、逃げ場を失ったように、そこに集まっている。
私はインターホンに手を伸ばし、しかし押さなかった。
代わりに、玄関の前で声を出した。
「巡回です。警察です」
数秒。
反応はない。
もう一度、同じ声量で繰り返す。
「何かあれば、ここにいます」
沈黙が続く。
それでも、私は立ち去らなかった。
やがて、鍵の回る音がした。
ドアが少しだけ開き、中から女性が顔を出す。
前に見た男性ではない。
目の下に、深い影がある。
「……通報じゃないんです」
彼女は、先にそう言った。
私は頷いた。
「分かっています」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の肩がわずかに落ちた。
「でも」
彼女は続けた。
「警察を呼ぶほどじゃないと思って」
「そういうこともあります」
それだけの会話だった。
事情を聞くこともしない。
記録も取らない。
だが、彼女は続けた。
「……誰かに、来てもらえると、助かる夜もありますね」
それだけだった。
助けてほしいとも、被害に遭ったとも言わない。
ただ、来てほしかった。
私は、その場で何かを解決することはできない。
逮捕も、注意も、指導もない。
それでも、彼女は話した。
声を出した。
それが、今夜のすべてだった。
交番に戻ると、電話が鳴った。
緊急性のない相談だ。
だが、確かな通報だった。
受話器を置いたあと、私は日誌を開いた。
そこに、こう書いた。
——通報なし。だが、声あり。
それは正式な記録ではない。
だが、私にとっては、初めて沈黙が破れた証だった。
警察は、通報があって初めて動く。
それは変わらない。
それでも、
通報されない夜に、立ち止まることはできる。
交番の外で、風が木を揺らした。
街は静かだ。
だが今夜、少なくとも一つの沈黙は、
確かに声に変わった。
私は、その重さを忘れない。




