第4話「記録に残らない判断」
交番の夜勤は、判断の連続だ。
動くか、動かないか。
書くか、書かないか。
そのどちらも、結果がすぐに見えるとは限らない。
その日は、管内で小さなトラブルが重なっていた。
自転車の盗難未遂、酔客の口論、行方不明者の照会。どれも緊急度は低いが、時間を取られる。
私は端末を見つめながら、胸の奥に、久しぶりの感覚を覚えていた。
——今、この区域で通報が来るはずだった。
だが、電話は鳴らない。
巡回表を確認すると、その感覚は、例の集合住宅の方向と重なっていた。
以前の通報で訪れた、あの部屋だ。
私は立ち上がりかけて、止まった。
既に対応済み。
記録もある。
それ以上、動く理由はない。
「忙しいな」
相棒が椅子にもたれながら言った。
「今夜は当たりだ」
私は何も答えなかった。
“今は動けない”という言葉が、頭の中で形を持つ。
正しい。
今、あの家に行っても、何も見つからない可能性が高い。
それどころか、過剰対応だと判断されるかもしれない。
私は、座ったまま時間をやり過ごした。
——その瞬間だった。
胸の奥で、あの感覚が、すっと消えた。
違和感ではない。
諦めに近い静けさだ。
私ははっきりと分かった。
自分が、沈黙に加わった。
通報されなかった夜は、こうして完成する。
誰かが止めたからではない。
誰も動かなかったからだ。
翌朝、引き継ぎを終えた私は、帰宅途中でコンビニに立ち寄った。
レジの横に置かれた新聞の見出しが、目に入る。
——「集合住宅で軽傷者」
管内だ。
住所を確認すると、あの建物だった。
内容は簡単だった。
深夜、家庭内で口論。
近隣が異変に気づき、ようやく通報。
大事には至らず、事件性は低い。
——大事には至らなかった。
その一文が、胸に刺さった。
交番に戻り、記録を確認する。
昨夜、私が動かなかった時間帯。
何も書かれていない。
私の判断は、最初から存在しなかったことになっている。
相棒が言った。
「結果論だよ」
「……そうですね」
否定はできない。
もし動いても、何も変わらなかった可能性は高い。
それでも、私には分かる。
動かなかった判断が、次の通報を遅らせた。
私は日誌の余白に、また一行を書いた。
——感覚あり。動かず。
正式な記録ではない。
誰かに提出するものでもない。
それでも、書かずにはいられなかった。
その夜、再び巡回に出る。
集合住宅の前を通り過ぎるとき、胸の奥は静かだった。
通報は、もう鳴っている。
だが、鳴るまでの沈黙は、誰の責任にもならない。
私は足を止め、しばらく建物を見上げた。
窓の明かりが一つ、二つと消えていく。
警察の仕事は、事件を処理することだ。
だが、事件になる前の判断は、
記録にも、評価にも、残らない。
それでも、その夜の沈黙は、確かに私の中に残った。
消せない形で。




