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第1話「110番が鳴らなかった夜」

夜の交番は、音が少ない。

遠くで車が走り去る音と、蛍光灯の微かな唸り。時計の秒針だけが、規則正しく時間を刻んでいる。

巡回表を確認しながら、私は湯気の抜けた缶コーヒーを机に置いた。夜勤は慣れている。事件が起きなければ、それでいい。交番勤務の正解は、いつだって「何も起きないこと」だ。

——そのはずだった。

胸の奥に、引っかかる感覚が走った。

理由はない。音もない。電話も鳴らない。

だが私は知っている。

今、この管内で110番が入るはずだった。

そういう瞬間が、時々ある。初めて気づいたのは何年も前だ。説明はできない。勘と呼ぶには具体的で、直感と呼ぶには重すぎる。ただ、「通報されなかった」という事実だけが、はっきりと分かる。

受話器は静かなままだ。

私は立ち上がり、上着を羽織った。

「巡回、出ます」

相棒にそう告げ、夜の空気の中へ出る。

住宅街は眠っている。街灯の下に影が伸び、植え込みの葉がわずかに揺れた。人の気配はない。

歩きながら、感覚の向かう先を辿る。

交番から三つ目の角を曲がったところで、それは強くなった。

一軒の家。

新しくも古くもない、どこにでもある二階建て。玄関灯は消え、カーテンの隙間からも光は漏れていない。静かすぎるほど静かだ。

私は門の前で立ち止まった。

耳を澄ましても、争う声も物音もない。通報が入らない理由はいくらでもある。留守かもしれないし、単に何も起きていないだけかもしれない。

それでも、ここだと分かる。

規則が頭をよぎる。

正当な理由なき訪問は控えるべきだ。越権行為になりかねない。

——だが、何もしない理由も、今はない。

私はインターホンを押した。

チャイムの音が、夜に溶けていく。

しばらくして、玄関が開いた。中年の男性が顔を出す。穏やかな表情で、少しだけ驚いた様子だった。

「こんばんは。巡回中です。お変わりありませんか」

「ああ……はい、大丈夫です」

声は落ち着いている。視線も逸れない。

嘘をついているようには見えなかった。

「何かありました?」

「いえ。何かあれば、また声をかけてください」

それだけのやり取りで、私はその家を離れた。

背中に視線を感じることもない。すべてが、穏便に終わった。

交番に戻る途中、胸の奥の違和感は消えなかった。

通報されなかった事実だけが、そこに残っている。

勤務を終え、記録を確認する。もちろん、その家に関する報告は何もない。記録に残らない判断は、存在しなかったことと同じだ。

数日後、巡回ルートを見直した私は、あの家の前を再び通った。

相変わらず静かで、変化はない。

——それが、異変だった。

人は、何かが起きれば通報する。

だが、何度も起きれば、しなくなる。

私は立ち止まり、しばらく玄関を見つめた。

呼び鈴を押す理由は、もうない。

それでも、胸の奥で何かが重く沈んでいく。

通報されない夜が続く。

それは、平穏の証かもしれない。

同時に、慣れの始まりでもある。

交番に戻ると、電話が鳴った。

内容は、騒音の相談。緊急性は低い。だが、通報は通報だ。

「はい、こちら——」

受話器を取る手が、少しだけ震えた。

通報された声と、されなかった沈黙。その差は、紙一重だ。

私は思う。

警察は、通報があって初めて動く。

だが、本当に怖いのは、誰も通報しなくなった場所だ。

窓の外、夜は変わらず静かだった。

110番は鳴らない。

——それでも、何かは確かに起きている。

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