第3話「正しく対応しました」
その通報は、夕方の忙しい時間帯に入った。
商店街から少し外れた集合住宅。声が大きい、物を投げた音がしたかもしれない、という曖昧な内容だった。
私は相棒とともに現場へ向かった。
胸の奥に、あの感覚がある。
本来なら、もっと早く通報されていてもおかしくなかった。
階段を上ると、すでに静かだった。
ドアは閉まり、廊下には生活の匂いだけが残っている。
インターホンを鳴らすと、しばらくして女性が顔を出した。三十代半ば。乱れた様子はない。髪も服も整っている。
「大丈夫です。もう落ち着きました」
その一言で、状況はほぼ終わる。
事件性は低い。被害の申告もない。
室内には、男性がいた。こちらも冷静で、声を荒げることはない。
双方から話を聞き、記録を取り、注意喚起をする。
すべて、マニュアル通りだ。
「何かあれば、また連絡してください」
私がそう言うと、女性は小さく頷いた。
「はい。警察が来てくれただけで、安心しました」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が重く沈んだ。
それで終わりではないと、分かってしまったからだ。
私は部屋を出る直前、もう一度だけ室内を見回した。
壊れた物はない。家具も整っている。
だが、女性の手が、わずかに震えている。
——通報は、これで最後になる。
理由は分からない。
だが、確信だけがあった。
交番へ戻り、私は報告書を作成した。
事案なし。注意のみ。
それ以上、書くことはできない。
「対応、完璧だったな」
相棒が言った。
「はい」
否定できない。
正しい対応だった。
それでも、その夜、私は眠れなかった。
あの部屋で、言われなかった一言が、ずっと頭から離れない。
数日後、再び同じ集合住宅の近くを巡回した。
通報は入っていない。
近隣からの苦情もない。
静かだ。
静かすぎる。
私は建物の前で立ち止まり、上階を見上げた。
洗濯物が干され、窓も開いている。日常だ。
——事件は、起きていない。
だが、終わってもいない。
その日の夕方、交番に一本の電話が入った。
内容は別件。迷子の相談だ。
通報は、いつも通りに鳴る。
受話器を置いたあと、私はふと考えた。
もし、あの女性がもう一度電話をかけるとしたら。
それは、どんなときだろうか。
限界を超えたときか。
それとも——もう、遅いときか。
警察は、通報があって初めて「事件」にできる。
だが、通報しなくなった瞬間から、
その人は一人で耐える側に回る。
私は日誌の余白に、誰にも見せない一行を書いた。
――正しく対応した。それでも、足りなかった。
書き終えて、ペンを置く。
この一行は、何も変えない。
だが、消すこともできない。
交番の外では、夕暮れが街を包んでいた。
今日も、110番は鳴っている。
そして同じ数だけ、鳴らなかった声がある。
私は、その両方を、同じ重さで覚えてしまった。




