表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

第3話「正しく対応しました」

その通報は、夕方の忙しい時間帯に入った。

商店街から少し外れた集合住宅。声が大きい、物を投げた音がしたかもしれない、という曖昧な内容だった。

私は相棒とともに現場へ向かった。

胸の奥に、あの感覚がある。

本来なら、もっと早く通報されていてもおかしくなかった。

階段を上ると、すでに静かだった。

ドアは閉まり、廊下には生活の匂いだけが残っている。

インターホンを鳴らすと、しばらくして女性が顔を出した。三十代半ば。乱れた様子はない。髪も服も整っている。

「大丈夫です。もう落ち着きました」

その一言で、状況はほぼ終わる。

事件性は低い。被害の申告もない。

室内には、男性がいた。こちらも冷静で、声を荒げることはない。

双方から話を聞き、記録を取り、注意喚起をする。

すべて、マニュアル通りだ。

「何かあれば、また連絡してください」

私がそう言うと、女性は小さく頷いた。

「はい。警察が来てくれただけで、安心しました」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が重く沈んだ。

それで終わりではないと、分かってしまったからだ。

私は部屋を出る直前、もう一度だけ室内を見回した。

壊れた物はない。家具も整っている。

だが、女性の手が、わずかに震えている。

——通報は、これで最後になる。

理由は分からない。

だが、確信だけがあった。

交番へ戻り、私は報告書を作成した。

事案なし。注意のみ。

それ以上、書くことはできない。

「対応、完璧だったな」

相棒が言った。

「はい」

否定できない。

正しい対応だった。

それでも、その夜、私は眠れなかった。

あの部屋で、言われなかった一言が、ずっと頭から離れない。

数日後、再び同じ集合住宅の近くを巡回した。

通報は入っていない。

近隣からの苦情もない。

静かだ。

静かすぎる。

私は建物の前で立ち止まり、上階を見上げた。

洗濯物が干され、窓も開いている。日常だ。

——事件は、起きていない。

だが、終わってもいない。

その日の夕方、交番に一本の電話が入った。

内容は別件。迷子の相談だ。

通報は、いつも通りに鳴る。

受話器を置いたあと、私はふと考えた。

もし、あの女性がもう一度電話をかけるとしたら。

それは、どんなときだろうか。

限界を超えたときか。

それとも——もう、遅いときか。

警察は、通報があって初めて「事件」にできる。

だが、通報しなくなった瞬間から、

その人は一人で耐える側に回る。

私は日誌の余白に、誰にも見せない一行を書いた。

――正しく対応した。それでも、足りなかった。

書き終えて、ペンを置く。

この一行は、何も変えない。

だが、消すこともできない。

交番の外では、夕暮れが街を包んでいた。

今日も、110番は鳴っている。

そして同じ数だけ、鳴らなかった声がある。

私は、その両方を、同じ重さで覚えてしまった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ