第2話「またか、で終わった声」
雨は、街の輪郭を曖昧にする。
夜の商店街は、シャッターの並びと濡れた舗道が光を反射し、どこか舞台装置のようだった。私は合羽の襟を立て、交番からの巡回ルートを歩いていた。
胸の奥に、あの感覚はない。
110番が鳴る予感も、沈黙の重みもない。――少なくとも、今は。
商店街の角で、年配の女性がこちらを見つけ、ためらうように立ち止まった。買い物袋を持つ手が少し震えている。
「すみません……ちょっといいですか」
声は小さい。だが、通報ではない。相談だ。
私は傘を畳み、軒先に寄った。
「どうしました」
「いえ、大したことじゃないんですけど……」
女性は言葉を選ぶように、何度も間を置いた。
店の前で、見知らぬ男が立ち止まっては中を覗く。何度も。声をかけるわけでも、何かを壊すわけでもない。ただ、覗く。――それだけ。
「警察を呼ぶほどじゃないですよね」
「ええ……」
私は頷いた。事実だ。通報案件ではない。
それでも、胸の奥で、薄く引っかかるものがあった。
男の特徴を聞き、時間帯を聞き、念のため巡回を強化すると伝える。
手続きとしては正しい。過不足はない。
「ありがとうございます」
女性は頭を下げ、店に戻っていった。
その背中を見送りながら、私は気づいた。
――この声、初めてじゃない。
記録を遡れば、似た相談がいくつもあるはずだ。
通報にはならない。相談で終わる。だから、事件にならない。
交番に戻ると、相棒が言った。
「また、あの辺?」
「……そうかもしれない」
相棒は肩をすくめた。
「またか、だな。様子見でいいでしょ」
正しい判断だ。忙しさも、優先順位も、現実だ。
私は何も言い返さなかった。
その夜、雨は止み、商店街はさらに静かになった。
私は巡回の途中で、例の店の前に立った。ガラス越しに、明かりが揺れている。店主は一人で片づけをしていた。
男の姿はない。
だからこそ、胸の奥が重くなる。
通報されなかった声が、積み重なっている。
私は店主に声をかけた。
「何か変わりありませんか」
「大丈夫ですよ」
即答だった。笑顔も自然だ。
――その笑顔が、判断を難しくする。
交番に戻り、日誌をつける。
「異常なし」。それ以外に書く言葉がない。
数日後、同じ女性が再び現れた。今度は昼間だ。
前より少し、目の下に影がある。
「この前の……」
「はい」
「やっぱり、警察を呼ぶほどじゃないんですけど……」
同じ言葉。
同じ始まり。
私は、思わず窓の外を見た。
通報は鳴らない。だが、声は消えていない。
対応は前回と同じになる。巡回強化、注意喚起、様子見。
正しい。間違っていない。
それでも、胸の奥で、確かなものが形を持つ。
“正しい対応”が、次の沈黙を作っている。
その夜、私は相棒に言った。
「記録、残そう」
「相談で?」
「相談で」
相棒は一瞬、眉を上げたが、何も言わなかった。
記録は残る。だが、事件にはならない。ちょうど、その中間。
書類に向かいながら、私は考える。
警察は、通報があって動く。
だが、通報に至らない声は、どこへ行く。
窓の外で、誰かが傘をたたく音がした。
交番の電話は鳴らない。
それでも、私はペンを置かなかった。
小さな記録が、沈黙を少しだけ重くする。
重くなれば、いつか――鳴るかもしれない。
正しさの隙間に、声は落ちる。
私は、その隙間を見てしまった。




