第五話 婚約の日、悪夢は目を覚ます
遠くで、音が鳴っている。
どくん、と心臓が強く脈打ち、背筋が凍りつく。
——来る。
そう直感した瞬間、
「……っ!」
勢いよく目を覚ました。
嫌な夢だった。
内容はよく思い出せない。ただ、はっきりしているのは——自分が、死にかけていたという感覚だけ。
「……疲れてんのかな……」
この一週間、礼儀作法を叩き込まれたせいだろう。
特に母は容赦がなかった。
『グロリア! 以前に教えたはずでしょう! どうして全部忘れているの!?』
正論すぎて何も言い返せない。
神様、転生特典に礼儀作法スキルくらい付けといてほしかったです。
「……いや、実際、死神っぽいのは迫ってきてたけど」
ハインリヒ様御一行の顔が脳裏をよぎる。
あれを思えば、今こうして生きているだけで御の字だ。
「……今日が婚約かぁ……」
死亡フラグは折った。
あとはウイニングラン——の、はずだった。
「……やべ……気持ち悪……」
馬車酔いだ。しかも盛大に。
朝食を抜いてきた判断だけは正解だった。
「大丈夫ですか、グロリア様?」
世話役として同行してくれたリリアの声がありがたい。
実際、私が怖くて付いて来られたのが彼女だけ、という事情もあるけど。
「……朝早く出たのに、もうこんな時間……」
日が傾きかけた頃、ようやく目的地に辿り着いた。
アイゼンボルグ領、アイゼンボルグ本邸。ハインリヒ様のお兄さん、ギュスターヴ閣下が住む──
城だ。
どう見ても城だった。公爵ってお城に住んでるの?
視線を上げると、ずらりと並ぶ旗。
天秤の紋章——国旗だろう。
片方の天秤が下がり、本が載せられた意匠はアイゼンボルグ家のもの。
そして、麦と騎馬兵の紋章——ホーホエーベネ家。
「……仰々しすぎない?」
婚約って、ここまで大ごとなのか。
整列した従者たちの無言の視線が、じわじわと胃にくる。
父と母は先に降り、何やら話し込んでいた。
「ねえ、リリア。引っ越しじゃなくて、顔合わせだよね?」
「……その、はずですけど……」
嫌な予感が胸をよぎった、その時。
「グロリア嬢、ここにいたか。もう城に入ったものと思っていた」
助かった。
間が持たないところだった。
「……ハインリヒ様。お久しぶりです」
教え込まれた通り、裾をつまみ、軽く会釈する。
よれよれだが、失礼ではない——はず。
白を基調とした礼装に、金糸の刺繍。
王子様か?
、と思う一方で、自分の黄色いドレスと顔色の悪さを自覚する。
「気分がすぐれなさそうだが、大丈夫か?」
「少し……馬車に酔ってしまって」
「そうか。なら、あまり外にいない方がいい。落ち着いたら中へ。積もる話もある」
その直後。
「ハインツ、ここにいたか」
空気が、わずかに変わった。
「叔父上。お越しだったのですか」
背の高い男。
細身だが隙のない体躯。鋭い眼差し。
どこか、獲物を測るような視線。
「南部の貴族と聞いてね。なるほど、ホーホエーベネか……君の目は確かだ、ハインツ」
……なんだ、この言い方。
「叔父上、こちらがホーホエーベネ家のグロリア嬢です。
グロリア嬢、ゲバルト・アイゼンボルグ伯爵。私の後見人をしてくださっている。」
「よろしく、グロリア嬢」
「お会いできて光栄です、ゲバルト閣下」
母に仕込まれた礼を返す。
間違ってない。たぶん。
笑っているはずなのに、どこか背中が寒い。
「では、私はギュスターヴの元へ」
マントを翻し、去っていく姿はやけに様になっていた。
「……少し失礼するよ、グロリア。また後で」
ハインリヒ様も人波に消える。
——忙しい中、声をかけてくれたのかもしれない。
「ずっと入口を見張ってたんですよ、閣下」
いつの間にか、マティアスが立っていた。
「ハインリヒ様の伝言です。
疲れているだろうから、宴席は無理に出なくていいと。部屋へ案内するよう仰せつかりました」
……至れり尽くせりすぎない?
案内された部屋は、言葉を失うほど豪奢だった。
暖炉の火がぱちぱちと鳴り、部屋全体を柔らかく包んでいる。
絨毯は踏み心地が分からないほど厚い。
「……歓迎、されてるのかな……」
思わずベッドに倒れ込む。
「……なにこのベッド。雲?」
緊張が、ふっと抜けた。
——なのに。
胸の奥に、理由の分からないざわめきが残る。
朝の夢の断片が、ふとよぎった。
鉄の匂い。
血の色。
誰かの叫び声。
「……なんでだろ……」
誰かに、いてほしかった。
「……ハインリヒ様……」
その時、扉の向こうから声がした。
『失礼いたします。ハインリヒ様が、少しお顔を合わせたいと』
「は、はい!」
扉が開き、彼の姿が見えた瞬間。
胸のざわめきが、すっと静まる。
「……やあ、グロリア」
「お越しいただき、ありがとうございます」
「二人きりだ。もう少し楽にしていい」
「……ありがとうございます、ハインリヒ様」
不思議だ。
そばにいるだけで、呼吸が整う。
「不安そうに見えたからね」
「……お気遣い、感謝します」
探り合うような会話。
でも、沈黙は不快じゃなかった。
「……そうだ。こういう場所でしかできない手品、いかがです?」
「ほう?」
テーブルにカップとボールを並べる。
「カップアンドボール、という手品です」
「なるほど……」
ボールが消え、現れ、移動するたびに、
彼の表情が少しずつ柔らぐ。
「……不思議だな」
「手品ですから」
「もっと見せてくれるか?」
「はい」
視線が合い、自然と笑みがこぼれる。
日が落ち、月が昇る。
胸の奥に残っていた不安は、完全には消えない。
それでも今は——
二人だけの、静かな魔法の時間だった。




