第四話 空虚な魔法と、真実の手品
「グロリア嬢、とても有意義な……いや、失礼だな。とても楽しい時間だった。ありがとう」
屋敷に来た時の、獣を思わせる鋭さはもうない。 今のハインリヒ様は、どこか穏やかで――大型犬のような顔をしている。
(……ずるいな、これ)
「い、いえ……閣下こそ」
「閣下、は硬いな。公的な場でもない。ハインリヒでいい」
「そ、それなら……ハインリヒ様。私も、その……呼び捨てで構いません」
一瞬、彼の目がわずかに見開かれた。
「ああ……そうだな。確かに、その方が自然だ」
「そういうのは学んでも、すぐ抜けていくタイプだよな、お前は」
「マティアス、茶化すな」
背後でやり取りする従者二人に、居心地の悪さを覚える。 まるで高校生の友人関係を横で見せられているみたいだ。
「……グロリア」
呼ばれて、背筋が伸びる。
「あれほどのものを見せてもらった。今度は、私からも少し……大事なものを見せたい」
「大事なもの……ですか?」
そう言って、ハインリヒ様は書斎の机の上から一枚の紙を取った。 何の変哲もない、白紙の紙。
「この角に、名前を書いてもらえるかな」
「……それは?」
迷いながらも、言われた通りにペンを取る。 紙の隅に、グロリア・ホーホエーベネと署名した。
「ありがとう」
そう言って、紙を持ち上げる。
「これで――婚姻成立だ」
「……は?」
一瞬、意味が理解できなかった。
「君が署名しただろう。この契約書に」
差し出された紙には、いつの間にか正式な書式で書かれた婚姻契約があった。 そこには、確かに私の名前がある。
(手品じゃ……ない)
すり替えられた瞬間なんて、どこにもなかった。 手品じゃない。絶対に。
「……魔法?」
「その通りだ」
ハインリヒ様の表情が、暗く沈む。
「これが――この国で、貴族だけが使う力だ」
彼は苦々しく紙を見つめた。
「書かれた契約を、消し、書き換え、追加する。割印も、証明も意味をなさない」
拳が、わずかに震えている。
「……そんなの……」
言葉が詰まる。
「目茶苦茶だ。だから逆らえない。中央の、古来からの貴族に」
そう言って、紙を握り潰すようにすると―― そこには、何も書かれていない白紙が残った。
「……こうして、破棄することもできる」
声が出なかった。
「君が、私の妻になるということは――この詐術と向き合うことでもある」
ハインリヒ様は、こちらをまっすぐ見た。
「覚悟してほしい」
「……そんな……」
太刀打ちできるはずがない。 そう思った私の前で、彼は首を横に振った。
「本来、契約は法の天秤のもとで結ばれる」
「法の……天秤?」
「その下で作られた書類は、魔法で改竄できない。だが……それすら中央が握っている」
……詰んでいる。
「幸いにも、我がアイゼンボルグは法の天秤を持つ一族だ。 少なくとも、我々の書面に詐術は入り込まない」
それが救いなのかどうか、判断がつかない。
「……雰囲気を壊してしまったな。すまない」
「い、いえ……私も、心構えができました」
彼の表情が、わずかに和らぐ。
「だからこそ、だ」
「……?」
「君の手品が、私は好きだ」
「え……?」
「魔法は虚無だ。何もないところから、空虚な約束を結ばせる」
こちらを見つめる目は、厳しく――けれど優しい。
「だが、君の手品は違う。 必ず“何か”がある。手の中に、技術に、積み重ねに」
――真実を歪める魔法より、真実が隠せぬ手品が、私は好きだ。
その言葉が、胸に落ちる。
「……グロリア。君に会えてよかった」
手を取られ、息が止まる。
(……え、これ……)
目を閉じかけた瞬間、ふっと離れた。
「婚姻前だ。さすがに節度は守らねばな」
「……っ」
勝手に期待していたのだが、顔が赤くなる。
「俺らもいますしね、閣下」
忘れてた。二人っきりじゃなかった。
「気にせんでください、グロリア様。こんな閣下を見るのは久しぶりですから」
「マティアス」
「……少し長居したな。グロリア、一週間後を楽しみにしている」
「……はい」
その後、父が慌てて駆け込んできて、屋敷は一時騒然となった。
「安心していい、ダンカン卿。 グロリアは素晴らしい令嬢だ」
その言葉に、父と従者たちが呆然とする中、ハインリヒ様は去っていった。
「何があったんだ?グロリア。アイゼンボルグとはいえ、あれほど30前後の男は嫌だと言っておったのに……」
生前の中身と同じくらいの年齢か……そりゃ嫌だよな。
「……考え直したんです、お父様」
それだけ言うと、父は何も言わなかった。
運命の日は、一週間後。
何も起きない――はずがない




