第十六話 手品の極意、あるいは愛の証明
「グロリア……」
グロリアを乗せた馬車が行く。
足が進もうとする、更に声を上げようとも思った。
もしかすれば、ここで追いすがれば彼女を止められるかも知れない。だが─
グロリアが最初にきた日の夜、思えば二人だけで過ごせた、穏やかな最後の時間……
「しかし、見事なものだ。カップアンドボールといったか。本当にこのカップとボールに仕掛けは無いのか?」
ハインリヒはカップとボールをしきりに調べていた。
「はい。この手品も、コインマジックと同じですよ」
そう言い、グロリアは空のカップをハインリヒに向ける
「こうやって見せたいものを見せて」
続いて、ゆっくりボールを手で隠す
「見せたくないものは、隠す」
そのまま、カップを重ねる
「ほら、消えて見えるでしょう?」
「成る程……」
ハインリヒが唸る。本当にゆっくりやっていたのだが、滑らかな手の動きでそれでも消えたように見えた。
穏やかな時間に気を取られたのか、気がつけばグロリアは机に突っ伏して眠っていた。
「……うーむ。婚姻前だが……失礼するよ、グロリア」
腕の中に収まった彼女は、驚くほど軽かった。
普段、毅然と、時に生意気にさえ振る舞う彼女からは想像もつかないほど、その肩は薄く、華奢で……。
──思えば、この小さな体のどこに、叔父上と対峙するほどの熱量が隠されているのか──
その寝顔を見つめていると、彼女が自分と同じ、血の通った一人の少女なのだと、今更ながらに突きつけられた気がした。
「……ハインリヒ様……」
溢れた涙が、彼女の頬を伝い、私の服を僅かに濡らす。
あの時の私は、それを「慣れない環境への不安」だと思い込み、あえて触れなかった。
優しい言葉をかけることだけが、守ることだと思っていた。
……だが、違ったのだ。
あの涙は、弱さではなかった。
彼女がその奥に隠し続けてきた、誰にも見せぬと誓った『祈り』の残滓だったのではないか。
彼女は、何か大切なもののために、自分自身の涙を隠し続けていたのではないか……その大切な物が自分だと思うのは、思い上がりだろうか。
自分にはあの涙の意味が分からない。
特に意味はなかったのかもしれない、然し。
「見せたいものを見せ、隠したいものは隠す……か」
あの涙が隠したいものなのだとしたら。
今の気丈な姿が見せたいものだとしたら。
自分は知らねばならない。
彼女が立ち向かおうと決心した意味を。
そうでなければ、己を思って立ち向かっていった少女の思いに報いることができないだろう。
「グロリア……」
馬車の音が聞こえなくなるまで、私は動けなかった。
視界の端で、冬枯れの木の葉が風に舞う。
かつての私なら、馬に飛び乗り、彼女を連れ戻していただろう。
だが、今の私には分かる。彼女が捨てた指輪は、ただの金属ではなかった。
私を泥沼の政争から切り離し、自由にするための、彼女なりの『手品』だったのだ。
「……私は、知らねばならない」
私は、彼女が見せたがっている「気丈な令嬢」を演じさせてやるほど、お人好しではない。
彼女が隠した涙を、いつかこの手で拭える男にならねばならない。
私は一度だけ、馬車が消えた地平線を力強く睨みつけると、踵を返した。
兄上の書斎の灯りが、冷たく、だが確かな導きのように光っている。
学ぼう。戦い方を。守り方を。
そして、この国が隠している『影』の正体を。




