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八話幕間 最初で最後の、不器用な願い

きっかけが、何だったのかはもう思い出せない。

きっと、ほんの些細なわがままだった。

年上で、いつもしかめっ面の旦那様。

その顔に浮かんでいるのは――失望と、怒り。

「……まさか、ここまで愚かな人だったとはな、グロリア」

「ち、違います……私……その書類は……」

ホーホエーベネの領地を都市同盟へ売り渡す契約。

身に覚えのない、私の署名。

父が、祖父が守り続けた土地を売るなど、あり得ない。

「……アイゼンボルグとしても、

これ以上ホーホエーベネと関わるわけにはいかない」

「待って……お願いします……信じてください……」

届かない。

信頼は、もう失われていた。

――ザク、ザク。

凍った川を踏みしめる音。

王国を守る堰が、一つ消えた。

怒号。悲鳴。

人が、次々と倒れていく。

「……お父様……」

馬上の父が、弓に射抜かれて落ちる。

「……お母様……!」

燃える屋敷。

懇願する声とともに、刃が振り下ろされる。

「やめて……罪のない子供まで……!」

子どもだから殺される。

未来だから、奪われる。

炎が、高原を覆う。

麦畑が燃える。

ブドウ畑が燃える。

――ホーホエーベネが、燃えていく。

「……やめて……」

王国は、もう王国ではなかった。

ギュスターヴが倒れ、

エスメラルダが息絶え、

ヨハンネスが吊るされ、

カサンドラが泣いた。

場面が変わる。

夜の海。

舟の上で、二人の男が陸を見つめている。

「……いいのか、マティアス」

「元より、未練なんてありませんよ」

「……アイゼンボルグは、もうない」

「……ハインツ。お前こそ」

返事はない。

炎の中へ駆け戻ろうとする影。

「ハンネス! 私も行く!」

「なりません、閣下!」

叫び声。

「生きてください!

生き延びれば……きっと、何かが繋がる!」

初めて、命令に背いた従者。

「……さらばです、ハインリヒ!」

握りしめた手から、血が滴る。

「生き延びる……私は……」

涙が落ちる。

それでも、彼は陸を見続けた。

――これが、王国の終わり。

「……違う……」

呟く。

「私が悪いのよ……」

一人のせいではない。

腐敗も、戦争も、裏切りもあった。

それでも。

「……私が、あの人を信じられなかった……」

あの人の笑顔を、知らなかった。

父は言っていた。

私と彼が心を通わせれば、国は安泰だと。

信じなかった。

「……やり直したい……」

力も、知恵も、栄光も要らない。

「……一つだけ……」

願う。

「ハインリヒ様が、笑顔でいられる国を……」

意識が、暗く沈む。

――目を覚ます。

ベッドの上。

窓を開ける。

「……今日も、いい天気」

黄金の麦畑。

ブドウの香り。

風車の音。

ホーホエーベネ。

私が、愛した場所。

「……戻ってきたの……?」

意識が溶ける。

私と、俺が混じる。

それでいい。

だから――

お願い。

新しい、グロリア・ホーホエーベネ。

どうか、

ハインリヒ・フォン・アイゼンボルグ様を

笑顔にしてあげて。

それが――

私の、願い。

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