第八話 白紙の誘惑、あるいは死に至る契約
昨日まで、私は客人だった。
それが今は――犯罪者だ。
もっとも、粗末に扱われているわけではない。
通された部屋は、広く、清潔で、暖炉まである。
昨日まで泊まっていた部屋を知らなければ、
ここを“良い部屋”だと思ったかもしれない。
「……王家の象徴の証、か……」
呟いてみても、答えは出ない。
婚約の宣言の時、確かにギュスターヴ閣下が掲げていたはずだ。
「落ち着かない……」
部屋を歩き、壁を調べ、窓に近づく。
隠し通路でもあればよかったが――そんな都合のいい話はない。
その時だった。
バタン、と重い音を立てて扉が開く。
「……ホーホエーベネ家の名をこれ以上落としたくなければ、
はしたない真似はやめたまえ」
ゲバルト・アイゼンボルグ伯爵。
空気が変わる。
ハインリヒ様とは、まるで違う圧。
こちらを見ていない。
それなのに――心の奥を覗かれている気がした。
テーブルを挟んで向かい合う。
「……まずは詫びよう。
君を軟禁する形になったことを」
そう言って、彼は頭を下げた。
「昨日の“術”を見た以上、やむを得なかった」
「い、いえ……疑われても仕方がありませんから……」
自分でも驚くほど、声が平静だった。
「その代わりと言っては何だが――
君の弁護を引き受けようと思う」
「……弁護?」
「明日、法の天秤の下で裁判が開かれる」
法の天秤。
大広間に据えられていた、あの巨大な天秤。
「君の技が魔法でないとは断言できない。
アイゼンボルグ本邸の天秤では中立性に欠ける恐れがある」
「そこで、私が管理する法の天秤を使う」
淡々とした説明。
だが、その言葉の端々が、胸を冷やす。
「そのために――」
ゲバルトは、一枚の紙を差し出した。
「この契約書に、サインをしてほしい」
紙を見た瞬間、喉が鳴った。
整った文字。
整いすぎた文字。
紙の上に並んでいるだけなのに、
それは生き物のように見えた。
――違う。
脳裏に、あの光景が蘇る。
白紙だったはずの契約書。
いつの間にか書き換えられていた文字。
「……契約書、ですか?」
「私が君の弁護をする契約だ。
昨日の非礼への謝罪も含めている」
文面を追う。
おかしなところはない。
少なくとも、今は。
それでも――胸がざわつく。
炎。
倒れる人々。
燃えるホーホエーベネ。
「……サイン……」
ペンを取れない。
「随分慎重だね」
穏やかな声。
「心配しなくていい。
私は、大事な甥の婚約者に無礼はしない」
また、映像がよぎる。
ハインリヒ様が去っていく背中。
あの時、何がきっかけだった――?
「……できません」
声は震えていた。
それでも、言えた。
「……字が書けないのかね?
ホーホエーベネの教育は、そこまで劣っているのかな」
「……サインは、書けません」
書いたら終わる。
ホーホエーベネが、また燃える。
「もう一度聞こう」
低く、確実な声。
「サインしたまえ。
グロリア・ホーホエーベネ」
「……嫌です」
一瞬、沈黙。
「……ふむ」
「閣下、どうしますか」
「拇印でも構わん」
「はっ」
「来ないで!」
椅子を蹴り、逃げようとする。
だが、狭い部屋だ。すぐに腕を掴まれる。
「離して!」
「大人しくしろ!」
「ふん……南部の人間は、往生際が悪い」
嫌だ。
嫌だ。
また燃えてしまう。
「誰か……助けて……」
「私が助けだよ、グロリア嬢」
――違う。
助けなんかじゃない。
その瞬間。
ガチャリ、と扉が開いた。
「取り調べ中でしたか?」
「マティアス様!」
「ハインリヒの部下か。何しに来た」
「名代ですよ」
静かな声。
「今この場での俺の行動は、
ハインリヒ閣下の意志と受け取ってください、ゲバルト閣下」
「……何が言いたい」
「本気で構えるつもりですか?
本家と」
沈黙。
「……行くぞ」
「はっ」
腕が離れる。
去り際、ゲバルトが吐き捨てる。
「……後悔するぞ」
「その台詞、もっと他にありませんか」
マティアスの皮肉が響く。
……助かった?
そう思った瞬間、
視界がぐらりと揺れた。
「グロリア嬢!?」
遠くで、マティアスの声が聞こえる。
意識が、闇に沈んだ。




