過去形になる話
俺は、戦場の端っこで震えていた。
剣を握る手が冷たい。鎧なんて立派なものじゃない。支給された革の胸当ては、汗と泥で貼りつき、呼吸のたびに軋む。
前線は、すでに崩れかけていた。
魔法の光が走るたび、誰かが燃えて、凍って、砕けていく。怒号と悲鳴が混ざり合って、どれが味方の声か分からなくなる。
「……もう、だめだ」
誰かがそう言った。
俺も同じ言葉を飲み込んだ、そのときだった。
人垣を割るように、一人の男が前へ出てきた。
黒髪で、背が高い。
不思議と汚れが少ない。戦場の空気に馴染んでいない――まるで、ここにいるはずのない人間みたいに。
彼は笑った。状況と釣り合わない、軽い笑いだった。
それなのに、俺の胸は勝手に熱くなった。
男は振り返り、こちらを見た。
誰に言うでもなく、舞台の中央に立つみたいに、堂々と胸を張る。
「俺が――」
言いかけて、男は一瞬だけ眉をひそめた。
足元の地面が、かすかに光ったからだ。
泥に隠れていた古い魔法陣。
踏み抜いた瞬間、眠っていた術式が“起動”する。
パチン、と乾いた音がして、空気が裏返る。
次の瞬間――
――ドンッ!!
爆風が男の身体を持ち上げた。
叫び声は、途中でひしゃげた。人間の形が宙で乱れ、鎧の留め具が弾け、派手に地面へ叩きつけられる。
「……え?」
俺の口から、間抜けな声が漏れた。
さっきまで“希望”に見えた男は、ただ動かない肉塊みたいに転がっていた。勝ち確の登場演出みたいだったのに。勇者の台詞みたいだったのに。
誰も助けに行けなかった。
助けに行く余裕なんて、最初からこの戦場にはない。
そのとき、俺の背後で、ぬるい息がした。
振り向く暇もなかった。
肩が、ぐい、と引っ張られる。骨の奥まで響く力。喉が勝手に鳴って、声が出ない。
視界の端に、牙が見えた。
獣の口。血と唾液の匂い。胃がひっくり返る。
(あ、俺……語り部だったのか)
変なことを考えた。
この世界は、主人公に見えたやつを平気で潰す。なら、俺なんて――
歯が食い込む痛みが来る前に、世界が暗くなった。
音が遠ざかり、熱と臭気だけが残る。
そして戦場は、何事もなかったみたいに進んでいく。絶望が戦場の底に澱み、誰もが膝を折りかけていた、そのときだった。
ひとりの男が、瓦礫と灰の間から立ち上がる。
勇者――後藤隆。
ついこの前まで、彼は別の世界にいた。スマホの画面越しに退屈を眺め、明日の予定にため息をついていたはずの男が、今は血と焦げの匂いに塗れた戦場にいる。
召喚の儀式で呼ばれ、王宮では「救世主だ」「選ばれし者だ」と持ち上げられた。チートだなんだと煽てられ、酒と料理と絹の寝台。豪遊していた――そう、していたはずだ。
気づけば、こんな危険な場所に駆り出されていた。逃げ道も、言い訳も、用意されていない。
彼が授かった能力は、業火。
すべてを焼き尽くす魔界の焔。
一度顕現したその炎は、目標を焼き尽くすまで決して消えない――そう教えられた。つまり、迷いさえなければ最強。迷いさえ、なければ。
後藤隆は、肺の奥に残った恐怖ごと息を吸い込んだ。
そして、たった一言。
「ファイアーブレス」
言葉が形になるより早く、地面が赤く染まった。空気がひしゃげ、熱が膨張し、視界がゆらめく。焔は咆哮のように噴き上がり、魔物の群れを舐めるように走った。
毛皮は瞬く間に燃え広がり、鱗は黒く割れ、角は白く脆く崩れる。悲鳴は途中で途切れ、匂いだけが残った。
次の瞬間、そこにいたはずの魔物たちは、炭になっていた。
いける。
そう思った刹那、どこからか静かな声がした。
――「リフレクト」
囁きは小さい。だが確かに、彼の耳の奥へ入り込んだ。鼓膜ではなく、心臓の裏側を撫でるみたいに。
理解が追いつくより早く、熱が背中を殴った。
自分の焔が、戻ってきたのだ。
「……え?」
声にならない声。逃げようとしても遅い。業火は「目標」を焼き尽くすまで消えない。
そして今、その目標は――後藤隆自身に、書き換わっていた。
炎が皮膚を剥ぎ、空気を奪い、骨の内側まで赤く染める。痛みすら一瞬で、叫びは音にならず喉の奥で焼け落ちた。
――バカな。これで終わり?!
そんな思考ごと、焔は吞み込んだ。
次の瞬間、そこに立っていた勇者は、消し炭となって崩れ落ちた。前線が折れたのは、ほんの数分の出来事だった。
逃げる背中を追って、魔物の群れが雪崩れ込む。
戦場は戦場のまま、場所だけを変えていった。
山を越え、谷を下り、川沿いの道を踏み荒らし――人の暮らしがある場所へ。
***
その日、山あいの小さな村では、遠くの雷鳴を「嵐だ」と勘違いした。
空が赤く光るのを「夕焼けだ」と言い訳した。
けれど、風に混じって届いたのは雨の匂いじゃない。焦げと鉄と、生臭い熱の匂いだった。
最初に聞こえた悲鳴は、村はずれからだった。
次に、牛小屋が倒れる音。
その次に、子どもの泣き声。
「麗奈、こっち!」
腕を掴まれて走り出したとき、山中麗奈はまだ“それ”を現実として受け取れていなかった。いつもの道。いつもの家。いつもの夜。――それが、同じ形で続くと思っていた。
村の入口で、緑色の巨体が見えた。月明かりを背負い、棍棒を引きずる影。ひとつではない。ふたつ、みっつ。数えた瞬間、数えることが無意味だと分かった。
「走れ!」
父の声が割れた。母の手が、背中を押した。
振り返る暇はなかった。
けれど、背後で何かが折れる音がした。次に、声が途切れた。
泣く暇なんてない。
息をする暇もない。
山道へ逃げる。木の根につまずく。膝が裂ける。痛みより先に、足が勝手に動いた。追ってくる足音が近い。笑い声みたいな呼気が、背中に触れる距離まで来ている。
そして――崖。
行き止まり。
背後は、魔物。前には、空。
ここまで、か……。
目の前には三メートルはあろうかという緑色の巨体が、棍棒をしたためてにやけ顔で佇んでいる。
ああ、可哀想な私。私であるがばっかりに、たった十六歳で命を落とすのか。
生まれ変わりなんて信じられない。あの世があるとも思えない。――つまり、これで終わりだ。
……こんなことなら、もう少しあとに生まれられたらよかったのに。
いや、でも。あの人たち以外が親だなんて、想像できない。親不孝者だ。最低だ、私は。こんなに早く再会することになるなんて。
村が魔物に襲撃され、逃げる途中でパパとママは私を庇って殺された。
泣く暇もなく、ただ必死で走って、ここまで来た。
――でも、もう無理だよ……。
あれ。なんで今さら。
涙が溢れ出して、止まらない。
やめろ。思い出すな。悲しくなるだけだ。
幸せな記憶に包まれるたび、その奥に両親を奪った憎むべき顔が混ざる。人生で見る最後の景色が、あの醜いオークの顔だなんて。
オークはゆっくりと棍棒を振りかざし、じりじりと距離を詰めてくる。
――だけど。
もし、あの人たちを思い出せるのが私だけなら。もし、私が死んだら、あの人たちが生きた証まで消えてしまうなら――
「やっぱり私は、死にたくない!!」
――ドガァンッ!!
涙で滲む視界を擦りながら、私はかろうじて振り下ろされた一撃を避けた。
いや、避けたというより、転んだと言ったほうが正しい。地面を抉るその一撃は、私の命なんて容易く刈り取るだろう。
そう考えているうちに、オークはすでに次の一撃を振り上げていた。
「おいっ! いるんだろ、このシナリオを描いたやつ! 神でも仏でも何でもいい!
この人生の主人公は私だろ? 私が死んだら終わるんだろ!?
だったら奇跡でも、魔法でも、チートでも――何でもいいから起こしてみせろよ、バカヤロ――!!」
叫んだ、その瞬間。
指先に、何か固いものが触れた。
剣だ。
一目見ただけで分かった。これはただの剣じゃない。地面からマナを吸い上げるみたいに、刀身が淡く光り輝いている。藁にも縋る思いで、気づけば私はその柄を握っていた。
握った途端、全身に力が漲った。
震えは止まり、頭が冴えわたる。
さっきまでは認識すらできなかった一撃が、今は不思議と遅く見える。たぶん一秒にも満たない時間の中で、私は――こんなことを考えていた。
――はは。やっぱり、この物語の主人公は、わた――
――「君じゃなかったか……」
その声が、どこから来たのか分からない。
次の瞬間、緑の怪物の一撃が、無情に世界を塗りつぶした。
山中麗奈の生涯は、そこで絶たれた。




