嵐気 6
「──遅いぞ」
アンダイエに在所するコレオーニの使う館の〝奥の間〟のドアを開けたアベル・サムエル・マルティは、今朝方に此処への使いを命じた当の人である異母兄の声に迎えられることになり、バツの悪い表情になって声の主の方を向く破目になった。
窓外の冬の陽の光は既に翳っていた。
急ぎの用向きではなかったはず……。そうは思ったが異母兄の常の余裕がないことをアベルは見て取り、余計な言葉を口にすることはせずに素直に頭を下げた。
「……申し訳ありません」
まさか初対面の少女とアンダイエの街を歩いていた、などとは言える雰囲気にない。
異母兄はベタニア・パルラモン──女ながら商館を預かる才媛──と何事か遣り取りをしていたが、その表情はルージューの〝周到の人〟のものだった。何か変事が起こったらしい。
「何かありましたか?」
「アロイジウスが長官府の警衛に拘束された」
その簡潔な回答にアベルは耳を疑って問い直した。
「それは……どういうことです?」
怪訝な表情のアベルに、アティリオは自らの知ることの全てを伝えた。
「──ドメニコーニ殿はすでにルーベン・ミケリーノと結んでいた、ということでしょうか?」
一通りの説明を聞かされたアベルは、先日のドメニコーニの館での会談の際の首席文官の表情を思い起こしながら、どうにも腑に落ちないといった表情を異母兄に向けた。あの折のドメニコーニの表情は慎重であったが、我らを謀ったふうには見えなかった。
それに対しアティリオは事実だけを淡々と口にして応じる。
「ルーベン・ミケリーノは長官府の左翼館に入った。未だ右翼館を訪問していない」
その言にベタニアが肯く。
「……と云うと?」
更に怪訝となったアベルにベタニアが応えた。
「マンドリーニは西方長官府に着任の挨拶をしていません」
「(元老院によって送り出された)聖王朝官吏としての体裁を無視したのですか?」
慎重に言葉を選んでそう問い直したアベルにベタニアが頷く。
「はい」
「島嶼諸邦でのこともある……〝人の理〟に理解を示さん奴のこと…──」 表情を消したアティリオが話題を引き取った。「──いきなり軍政を布きかねん」
アベルはそんなアティリオから目線を下ろした。ロルバッハ砦で起きたことから順を追って遡ってみれば、確かに考えられぬことではない。
「……では、西方軍はルーベン・ミケリーノの指揮下に入った訳ですね」
「さて……そこまでは未だ判らん。マンドリーニの軍兵は軍の営舎に移ったが動きはない。だが其処は〝アニョロ・ヴェルガウソの仕事〟。我らはアロイジウスを救い出す」
ここで話が戻ってきた。アベルは頷いて返した。
「商館は警衛に伝手を作っております」 商館長であるベタニアが口を開いた。「探りを入れました。そろそろ一報が入る頃です」
その言でアベルは、自分が此処に辿り着く迄に既に多くの動きがあったことを感じ取らされた。「しまった」と内心で息を吐く。失態であった。
程なくして部屋には〝商館の使う〟間者が現れ、アロイジウスと思しき者を留め置く詰所の目星が伝えられた。市中に4か所在る詰所の中、この日〝人の出入り〟があったのは〝西の詰所〟1か所しかない。まず間違いは無かった。
「良く解らんな」
これ迄に商館に集められた情報を吟味していたアティリオ・マルティだったが、事実の一つ一つを辿りながら全体像を結ぼうとしてそれが出来ず、思わず呟いていた。
警衛がアロイジウスを捕えたのは事実であるが、この〝捕り物〟……そう、事前に西の詰所から人員が動いているのだから当に〝捕り物〟だったのであるが……の指示をした者が見えてこない。
アロイジウスが市中に潜んでいることを知る者は少なく、警衛を動かすことのできる立場となれば首席文官のオリンド・ドメニコーニと考えるのが最も自然である。
が、ドメニコーニとはディールが成っている。仮に取引を反故にして裏切ったのであれば、自分たちの身辺が脅かされていないのは理屈に合わない。いま頃はこのコレオーニ商館も踏み込まれ、同時に首席武官ペナーティに連なる西方軍の留守居の幹部──ダオーリオらもそれぞれ拘束されているだろう。
では他にアロイジウスを網に掛ける十分な手下の数を持ち、その動機を持つ者といえばルーベン・ミケリーノくらいのものであるが、ドメニコーニがルーベンに接近した形跡はなかった。ドメニコーニから情報の提供が無いのであれば、アロイジウスが此処アンダイエに居ることを彼は知る筈がない。それに……ルーベン・ミケリーノにアンダイエの警衛を動かす権限がない。
アティリオは、自らの識る人物・組織の範疇にアロイジウスに繋がる線を見出すことが出来ず、手詰まりとなったことを認めざる得なかった。まだ何か〝自分らが見えていない線〟がこの件には有る。事の背景を正しく読み取った上で動くということを出来そうになかった。
だが状況から、ドメニコーニがルーベン・ミケリーノの側に靡いたという事は無さそうである。
アベルが控えめな声音で訊いた。
「どうします?」
「──さて……」
その声を気にも留めぬふうに、アティリオは掌を口元に当て更に思案を進める。
事態を俯瞰的に捉えられる立ち位置に居るのはオリンド・ドメニコーニだ。此処アンダイエは彼の差配する地である。
また諸々を考えたとき、警衛を使ってアロイジウスを捕えることが出来るのは彼しかいない。恐らく捕縛の命令は彼から出ている。加えて、留守居の西方軍を取り纏めるダオーリオの耳にこの件が入るよう手配したのも彼だろうと思えた。我らの耳に届くように、との配慮だろう。
問題はその動機だ。ドメニコーニは〝唯々戦を望むルーベン・ミケリーノがアンダイエに在ることの奇禍〟をわかっている。それを除くのに我らルージューが動くのを黙認した。今さらルーベン・ミケリーノの側に靡く理由があろうか? ない。
となれば〝状況が変わった〟のだ。
「ここは〝竜の巣に踏み入る〟べきなのだろうな」
アティリオは一つ頷くとアベルとベタニアを向いた。腹を決めたのだ。
一方──。
西方軍の営舎に残り秘密裏に留守居の幹部士官らとの会合を始めていたアニョロ・ヴェルガウソは、ダオーリオの手下の者からペナーティとロターリオ率いる西方軍の2隻の飛空船が、アンダイエの北西12リーグ(≒48キロメートル)の位置にまで達したことを聞いている。西管区の哨戒に当たっていたダオーリオ配下の隊が接触したのだ。
ペナーティらが飛空船の針路を大きく西に取ったのは、無論、マンドリーニ軍の目から逃れるために慎重を期してのことであったが、西管区がダオーリオの隊の管轄空域だったことにもある。〝こうなる〟よう、事前に配下に云い含めてあったのだった。
手下の報告によれば船内に病気の者などもなく統制は良好とのことで、ダオーリオの指示の通り2隻は取り敢えず現地に留め置かれることになった。すぐにアンダイエに入らないのは、色々と段取りが必要だからである。
そうしてペナーティが秘かにアンダイエに入り、アニョロとダオーリオとで渡りを付けている留守居の士官らの前に立つ。ペナーティは彼らを指揮し、ルーベン・ミケリーノを弑する前後でマンドリーニの私兵を抑えることになるのだ。そのための手筈をいまアニョロはしていた。
段取りがつけば後は事を動かすだけだ。そのためには先ず事が露見せぬよう気を配り、出来るだけ多くの西方軍将兵を取り込まなければならない。
事が動けば……ルーベン・ミケリーノの命は我が掌中のものとなる。罠を閉じ、決して逃しはしない。
知らず目の中に暗い光を奔らせるアニョロに、側で見上げるクロエの顔が憂いに曇った。
が、クロエは何も言わなかった。
アニョロの方にも、そんなクロエに気付いた様子はない。或いは気付いていても韜晦していたか……。
クロエが目線を下げた時、部屋の中に抜け目の無さそうな面差しの竜騎が入ってきた。ジェンナーロ・バンデーラである。バンデーラは開口一番にマンドリーニ軍の様子を告げた。
「マンドリーニの奴ら、西方軍の軍令権者が不明の今、タルデリの主家筋であるルーベン・ミケリーノ・マンドリーニを当座の軍令権者に据えてそのまま押し通す算段をしてやがるぜ」
市井の噂話を仕入れてきたかのような粗忽な言い様でそう言うと、集まった視線に口許を歪ませて返した。
「確かか?」 ダオーリオが質す。
バンデーラは大きく頷いて返した。
「少なくとも〝竜騎長格〟の大方の口から聞いた」
バンデーラは、独立竜騎といえ曖昧な出自と〝抜け目の無さ〟ばかりが目に付くその人相を用いて、目端の利く現地軍の下級士官の役回りでマンドリーニ軍の中でも〝ご同類〟と思しき中層下層の軍役の者に近付き、軍の内情を探っていたのだった。実際、抜け目の無く目端の利く男なのであったが、労に報いるのであれば報酬分の仕事はきっちりと熟すのがバンデーラという男だった。
「やはりそうか」
ダオーリオが腕を組んで息を吐く。
バンデーラは続けた。
「──義勇軍を正式な軍とし、西方軍を組み込んで再編すると嘯いてやがる。既にフォルーノクイラではその旨奏上される手筈が整っていると、俺はそう聞いたぞ。……事実なら、今頃はもうそういうことになっているやも知れんな」
ふんと鼻を鳴らして口許を歪めたバンデーラに、部屋中の視線が集まる。
フォルーノクイラでの上奏が事実であれば、それはもう現地に在るマンドリーニ軍の目論見の範疇ではない。マンドリーニ軍……ルーベン・ミケリーノは、アンダイエの長官府の面々など眼中になかったようである。どうやら〝中央の介入〟は、アニョロの予想よりも早いものになりそうだった。
ダオーリオがアニョロを見た。
アニョロは〝然して驚きを感じていない〟という表情を作る。いまこの場の士官・武官らを動揺させる訳にはいかない。
「マンドリーニは端からアンダイエの軍令権を握る心算だったという事だ。それはシラクイラの常套手段……」
そこでアニョロは、フ……と鼻で嗤ってみせた。〝芝居〟である。「…──今さらだが、そこは我等にとっての狙い目でもある……」
それに既に得心のいっているダオーリオが芝居と承知で頷いてみせた。ほぼ同時に、その近くでクロエがそっと目を逸らす。
そんなクロエを軽く睨んで、アニョロは未だ得心のいっていない士官・武官らの怪訝な顔を見渡して続けた。
「全てを長官府の頭越し、と云うことは、裏を返せばシラクイラ恃み、ということ……シラクイラからの命が無ければルーベン・ミケリーノに確たる合法性が無いのを先方も承知してるのさ」
室内の空気から〝重いもの〟が徐々に除かれていく。
「──ならシラクイラからの命が下りる前にルーベン・ミケリーノを討てば、奴のしたことを白日の下に晒しその横暴を糺すことができる……忘れるな。これは〝正義〟だ」
後はダオーリオが引き取った。
「つまりは時間との勝負、ということだ。卿等はボニファーツィオ卿が戻られる迄に各隊の中で〝信頼の置ける者〟の人選を急いでくれ。〝正義〟は我らにある」
そう締め括ったダオーリオに、アニョロももう一度肯いた。
これでは〝正義〟の大盤振る舞いだ、などという想いは、おくびにも出せなかった。




