風早 2
〝浮舟の砦〟の守将ボニファーツィオ・ペナーティがルージューの軍使、〝礼節の人〟マルコ・マルティの口上を聞き終えるや取ったことは、従士の一人に弓と鏑矢を持ってこさせることであった。
ペナーティは鏑矢を番えると、砦の眼前に浮く飛空艇の上のマルコ・マルティに向け、その鼻先に矢を放つ。鏑矢は鋭い音を放って飛び、軍使の頭部から1キュビット(≒45センチ)と逸れることなくすぐ横を掠めていった。
ルージューの古式に則った戦の作法に対し、ペナーティもまた古い作法で戦う意思を示したのだった。
対してマルコ・マルティも、少なくとも表面上は動じたふうもなく自らの弓を掲げて応じ、座乗艇の舳を翻し悠然と自軍の陣列のと引き返して行った。
これで正式に戦と決したのだった。
後に〝第1次カルデラ南壁の戦い〟として記憶される聖王朝とルージューとの戦いは、このような次第で始まったのである…──。
主将タルデリを討たれた西方軍は、首席武官ペナーティの下でルージューの降伏勧告を拒否したのであったが、それは西方軍の旗艦たる〈ハウルセク〉の退避の時間を稼ぐ意味合いが強かった。
歴代の西方長官の座乗船であった〈ハウルセク〉は、何と言っても聖王朝の西方支配の象徴とも云うべき飛空船であった。失う訳にはいかなかったのだ。
が、当の〈ハウルセク〉が船溜の出口に踏み止まった。
そして〈ハウルセク〉から信号が届く。
──〝半時間待ツ〟
その意図は明らかで、砦の者を収容し、共に脱出しようということである。
ペナーティは船長の〝その心意気〟に感謝したが、同時に心の中で嘆息もしていた。
既にその〈ハウルセク〉をルージューの飛空艇や〝戦大鷲〟が取り囲み始めている。
これで〈ハウルセク〉が脱出できる掛け率は大きく下がった……。
「どうするのだ?」
隣に立つ副将格のロターリオ男爵が訊いてきた。彼もまた〈ハウルセク〉が脱出を選択しなかったことを憂いている。〈ハウルセク〉が視界に在ることで〝九死の一生〟の幻想が生じたとき、砦の守勢は死兵ではなくなった。不確実な希望に縋る兵は脆いことを彼は知っていた。
ペナーティは、このときにはもう決断していた。
「半時間しかない」 ロターリオを向いて言う。「砦の者全員に弓を持たせ〈ハウルセク〉へ移せ。従者、職工、厨房の者、全員だ」
ロターリオは肯くと、その指示に従い砦の飛空艇を差配するため望楼を後にした。
そのような中で聖王朝の竜騎たるアロイジウス・ロルバッハは、自らの失態──主将タルデリへのグリフォンの接近を許してしまったこと…──に唇を噛みながら、船溜の出口にまで進出した〈ハウルセク〉の上空を警戒している。
手傷を負った僚騎はすでに砦に退き、替わって砦が繰り出してきた竜騎が翼を並べていた。
ルージューは混乱に乗じて一気に攻めかかって来ることをせず、ライムンド・ガセトの旗騎が一旦退いた後、あらためて軍使を立て〝戦の口上〟を述べた。
軍使マルコ・マルティは此度のタルデリ襲撃を否定しつつも〝戦の企図〟は否定せず、あらためて開戦の通達と降伏の勧告をしてきた。
……とすると、タルデリを襲った件のグリフォン・ライダー等はルージューの手下の者ではなかったか。何れにせよ、西方軍は騙し討ち同然に主将を討たれ、戦そのものは始まってしまった。
恐らく自分を含め大半の者が生き残ることは出来ないだろう。
船溜の外の、ルージューの戦船の数が増している。
こうなってしまった不始末を取り戻すことなど出来ないであろうが、それでもロルバッハの名に恥じぬよう最後まで戦うまでだ。
それよりも心残りなのがアニタであった。このようなことになって、いったい彼女はどんな表情で自分の骸を……あるいは戦死を伝える使者を迎えるのだろうか。
彼女がロルバッハの砦から瘴に身を投げたことを知らぬアロイジウスは、この時にはそんなふうに思っている。
戦端は、ルージュー軍が〝浮舟の砦〟の飛空艇の動き──砦からの人員の移動──を察知し、これを阻止しようとグリフォン・ライダーを動かしたことから開かれることとなった。
当初ペナーティが企図した脱出行は、砦の人員を〈ハウルセク〉に移し、周囲を飛空艇と竜騎とで固め一路アンダイエを目指すというものである。
カルデラ南壁の近空を離れることさえ出来れば飛行距離の短いグリフォンの攻撃の傘から逃れられる。同様に航続距離の短いルージューの飛空艇もカルデラから遠い外空まで追撃しては来ないだろう。そこまで西方軍の竜騎と長弓兵の〝矢衾〟とで凌ぐことが出来れば、外空での船脚に優れるシラクイラの飛空船は追い風を背に逃げ果すことができるかも知れない。それがペナーティの目論見だった。
一度〝活路〟を意識してしまった軍を、再び〝死地〟に置くことは難しい。この上は各自の〝生きたい〟と願う心境に賭けることとしたのだ。
それを副将ロターリオも解っている。
だからロターリオは、砦からは武器以外、何も持ち出させなかった。兵以外の者にもペナーティの指示通りに弓を持たせ、〝生き延びたくば敵を射よ〟と、只それだけを伝えている。
30騎余り…──2個中隊に満たない…──の竜騎には、飛べるだけ飛んで〈ハウルセク〉を護り、いよいよとなったその時には乗り手だけを飛空船に収容しワイバーンは放すよう指示がなされた。
そのような形で訓練したワイバーンを棄てることは惜しかったが、聖王朝西方支配の象徴たる〈ハウルセク〉は何としても守らねばならないのだ。
一方でルージューのライムンドは、〈ハウルセク〉を沈めることを決心している。
このように、敵方味方共にこの戦いの眼目は〈ハウルセク〉であった。
西方軍の飛空船のうち既に船溜を脱出したものは〈ハウルセク〉を中心に4隻の飛空艇で輪形陣を布き、ルージューのグリフォン・ライダーを迎え撃つべく〝矢衾〟を並べ待ち受ける。未だ船溜内の2隻の8パーチ飛空船は、〈ハウルセク〉の盾となるべく、それぞれ飛空艇の随伴を待たず舳先を船溜の出口に向け舵を切り始めている。
そんな〈ハウルセク〉を目指し砦から8隻の飛空艇が出た。中3隻には編制外の者が溢れている。彼らは砦に詰めていた職工や厨房の者といった非兵役の者らで、大半が戦う訓練を受けてはいなかったが短弓と小剣を持たされていた。中には10代の半ばにすら達していないと思しき者も居る。
そういう彼らを乗せては、軍船や小さな飛空艇は〝激しい戦い〟をしつつ雲海を越えることが難しいので、ペナーティは船腹に余裕のある大船〈ハウルセク〉へ纏めて移すことにしたのである。
〈ハウルセク〉まで辿り着ければ何かの役にも立てようが、辿り着けなければ死ぬか奴隷となるしかないわけで、皆、表情を強張らせていた。
その周囲には5隻の飛空艇が長弓兵を乗せ併走していた。彼らは純然たる聖王朝正規軍であり、長弓の扱いに長けた戦士である。
ルージューのグリフォン・ライダーは、〈ハウルセク〉を目指す飛空艇の一群へと襲い掛かって行った。
ルージューからしてみれば〈ハウルセク〉に移る戦力は全て排除の対象である。戦力が糾合される前に各個に撃破するのが定石である。〈ハウルセク〉の船上に戦力が糾合されてしまう前に攻撃を開始した。
16騎のグリフォン・ライダーは二手に分かれると、一隊が飛空艇の群に向け緩降下を開始し、一隊は高度を取り上空を旋回するワイバーンへの牽制に入る。
その様を見て〈ハウルセク〉の船上で弓兵が動いた。
「──200パーチ(≒600メートル)‼ ……放てーっ!」
士官の号令一下、一斉に矢衾から放たれた矢は放物線を描いて広がり、黒い幕、あるいは影となって降下中のグリフォンの進路を遮った。〈ハウルセク〉の船上では、もうこの時には第2射が放たれようとしている。
さすがにルージュー方も突入を諦めて進路を外し散開した。
能く訓練された聖王朝の弓兵の扱う長弓の射程は250パーチ(≒750メートル)を越え、6拍の間に1射することが出来る。長距離での射撃戦は聖王朝の側に分があった。
ルージューの側も唯黙っているわけではない。緩降下した隊が散開に転じるや、上空の隊が急降下に転じた。それを聖王朝のワイバーンが追う。
グリフォンの急降下突撃の威力は、先のタルデリ襲撃の際に存分に思い知らされてはいたが、此度は西方軍も組織的に応じた。輪形陣を布いた飛空艇からも統制された矢が弾幕を作り、グリフォンに容易に突入速度を上げさせない。その背後を、数に優る聖王朝の竜騎が襲う。忽ちに乱戦となった。
この戦い──〝第1次カルデラ南壁の戦い〟──の緒戦における西方軍の戦力は……、
〝浮舟の砦〟の船溜…──
飛空船〈ハウルセク〉
8パーチ飛空船 2隻 (※1パーチ≒3メートル)
4パーチ飛空艇 12隻
竜騎 33騎
が主隊である。他、
周辺の空域に…──
4パーチ飛空艇 4隻
竜騎 6騎
がいた。
今頃はアロイジウスの警笛に反転し、全速で船溜に取って返しているだろう。
対するルージュー方の兵力は……、
ライムンド・ガセト直卒の隊…──
グリフォン・ライダー 16騎
3パーチ飛空艇 40隻
周辺に伏せさせていた諸隊…──
4パーチ飛空艇 27隻
3パーチ飛空艇 15隻
である。
これにアティリオ・マルティの飛空艇とジョスタン・エウラリオ・マルティの4騎のグリフォン・ライダーを加えてもよいかも知れない。
他にルージューにはグリフォン・ライダー80騎を擁する翼獣母船群があり、戦船〈フラガラッハ〉も出撃の準備を進めている。
翻って聖王朝の側はマンドリーニ軍が邦境に留まり動こうとしない。
カルデラ南壁の近空で戦うのであれば、いかにも西方軍は不利であった。
が、聖王朝の長弓兵と竜騎は善戦をしている。西方軍の採った輪形陣は外周の飛空艇の高度を〈ハウルセク〉よりも高く取っており立体的に矢の幕を広げた。相互に緻密な連繋は無かったが、厳しい訓練によって培われた機械的な〝約束事〟に基づく対応は大いに機能し、グリフォン・ライダーを寄せ付けない。
上空では聖王朝のワイバーンとルージューのグリフォンとが入り乱れて飛び、至る所で矢を交えていた。
そんな中を、砦を出た飛空艇の群は何とか〈ハウルセク〉まで辿り着いている。
当面、揺れの少ない〈ハウルセク〉の甲板の上で〝生き残るため〟に何かをする機会を得ることが出来たのだった。
状況を上空の旗騎から見ていたライムンド・ガセトは、同乗の近侍に信号旗を振らせ伝令のワイバーンを呼ばせた。
思いの外の西方軍の戦意に次なる一手の発動を決断し、その意を手下に伝えるよう伝令を遣った。
それを見送ったライムンドは、再び視線を眼下の戦況へと戻す。
伝令のワイバーンが弟テオドロの許に辿り着けば、それで一気に状況が進展する。
ライムンドには、時間を掛けることで手塩にかけたグリフォンや兵に要らぬ損害を出すつもりはない。




