突風 4
その〝企み〟は決して洗練されたものではなく、むしろ児戯の延長……と言ってよいものであった。
聖王朝とルージューとの戦端を開かせる、という〝大きな陰謀〟の枝葉にアロイジウス・ロルバッハの名を書き連ねられればよし……それが出来なくとも大勢に影響はない、という流れの中で女は〝浮舟の砦〟の竜騎に金貨を握らせた。
金を握らされた竜騎は、その日の哨戒の顔ぶれの中にアロイジウス・ロルバッハを押し込むと、西方長官の座乗船〈ハウルセク〉の直掩の任を割り当て〝浮舟の砦〟に待機させたのだった。
金を握らした女とは、パウラ・アルテーアの手下の、あの〝アルタノンのへロットの娘〟である。
そのようなことは与り知らぬアロイジウスは、アニタや養父母を襲った奇禍を知らされることなく〝浮舟の砦〟に待機していた。
この日の任務は空賊討伐ではなく、西方長官ポンペオ・タルデリの座乗船〈ハウルセク〉が停泊する船溜の周辺の哨戒というものだった。本来の回り番では非番だったのだが、朝になって本来の回り番の竜騎が熱を出し、急遽替わりに竜舎に詰めることとなったのだ。
それが始まったのは、正午前であった。
船溜から東の空……寒風の巻く山間の影から数騎の翼獣が現れた。
騎影は〝戦大鷲〟であった。
ルージューの主力騎が、煌びやかな戦装束を纏う乗り手に操られ悠然と接近してくる。
この時〈ハウルセク〉には、ルージューの、それもグリフォン・ライダーの来訪は告げられていなかった。
西方軍はすぐさま砦より2騎ばかりワイバーンを飛ばす。その中の1騎がアロイジウスであった。
他に6騎ばかりが直掩に上がった様であった。万が一に備えての首席武官ペナーティの指示であろう。
そうして空へと上がったアロイジウスは、僚騎が誰何をするものとばかり思っていたのだが、僚騎には動きは無かった。どうやらアロイジウスの〝武官〟の肩書に遠慮をしているらしい。
アロイジウスはそう了解をすると、翼を並べて近付く4騎の〝戦大鷲〟の中の先導騎の横に乗騎を付け、声を張り上げた。
「何処の手下であるかっ?」
応えはすぐにはなかった。が、やがて……、
「……汝は如何な者かっ?」
二拍ほどの間の後に、問いを返されることとなる。
「西方軍、長官府附 竜騎アロイジウス・ロルバッハ!」
応答しつつ、アロイジウスは違和感を覚えた。
先だって鉢合わせたテオドロ閣下の手下の華麗な戦装束とは、微妙に異なる出で立ちであるように思える……。
そんなふうに思っていると、出し抜けに相手が、声を一際に大にして訊き返してきた。
「──ロルバッハ砦のアロイジウス卿かっ? お父上はご壮健か?」
ロルバッハの名を出して質してきたからには、このグリフォン・ライダーは養父の知己ということであろうか……。
アロイジウスの表情がさらに怪訝になるに及んで、ようやく彼らは名乗りらしき口上を述べ始めた。
「我らはルージュー御一門、マルコ・マルティの手下の者! 西方長官タルデリ閣下にご挨拶を…──」
だがアロイジウスは、もうそれを聞いてはいない。彼の乗騎と並行して飛ぶ先頭騎の翼の下を、後続の3騎が速度を増して抜き去ろうとしていた。その先にはポンペオ・タルデリの座乗船〈ハウルセク〉の姿が在る。
アロイジウスはそれを目で追い、不審の声を上げた。
「おい!」
アロイジウスが乗騎の竜首を向けるよりも早く、横を飛ぶグリフォンの背で、騎射手が短弓に矢を番えていた。
アロイジウスは、騎射手が自分に向かって笑うのを見た。
(──…なんだ……⁉)
と、次の瞬間……その騎射手はアロイジウスにではなく、僚騎に向けてそれを放った。
全くの不意打ちに僚騎は避けることが出来ず、騎手はその矢を肩口に受けた。
誰も咄嗟に動けなかった。
アロイジウスらは本より、彼らとは別に上空で直掩に入っていた6騎のワイバーンも、何が起こったのか把握できずに旋回を続けている。
アロイジウスは僚騎に意識を遣った。幸いにも騎手は健在で、ワイバーンの背から落ちてはいない。
それを確認したものの、それ以上〝何をしてやれる〟という余裕はいまのアロイジウスにはなかった。つい先程まで横を飛んでいたグリフォンの方は、そんなアロイジウスを置き去りにして急降下に入っている。
アロイジウスは警笛を取り出しそれを口許に持っていった。
音を鳴らす前に印を切り、古語を唱える。そうして操った風に〝笛の音を大きくして周辺に届ける〟ようにしてから、鋭く息を吹き込んだ。
カルデラの南の空に、敵襲を告げる警笛が鳴り渡った──。
そこからは混乱が広がるばかりであった。
アロイジウスの放つ警笛が響き渡った時、〝浮舟の砦〟では首席武官のペナーティが望楼の上に登ってきたところだった。
先に望楼に登っていた副将格のロターリオ男爵が状況を説明する。
「畜生! 奴ら遂に仕掛けてきた。グリフォン・ライダーが4騎だ‼ 仕掛けてきやがったぞ…──正気か、奴ら……正気なのか⁉」
ローターリオの視線の先には、〈ハウルセク〉に向け真っ直ぐに降下して行く〝戦大鷲〟の縦隊があった。
「いま上げられるワイバーンは全て上げさせろ! 半数は〈ハウルセク〉の賊に当たれ! 残りの半数で周辺を再度警戒させる……全ての方位だっ」
ペナーティは手下の者に命じ始める。
「──〈ハウルセク〉に信号! 船を船溜から出すよう伝えろっ‼ 直掩の方はっ?」
「いま動いた! だが間に合うまい……‼」
応えたのはロターリオだった。
上空を旋回していた6騎のワイバーンは、〈ハウルセク〉に襲いかかろうと棒状に突入する〝戦大鷲〟に向け竜首を転じるところだった。が、既にグリフォンは十分に速度に乗っている。その降下速度にワイバーンでは追い付くことはできない。
このときペナーティは責任を感じていた。
やはり〈ハウルセク〉に竜騎が乗っていないことを悔いることとなったか……。
船溜に着くや、獣の臭いを嫌っていたポンペオ・タルデリは〈ハウルセク〉から全てのワイバーンを〝浮舟の砦〟へと移すことを命じた。同行の武官はそれに異を唱えたが、砦に居たペナーティがそのことを知った時にはもう、6頭のワイバーンは騎手共々、船から出されてしまっていた。
その後、これを諫めねばならないペナーティらとの面会をタルデリは避け続けた。
その結果が、これであった。
この上は〈ハウルセク〉に随伴させた2隻の飛空艇の弓兵だけが頼みである。
〈ハウルセク〉の船上では西方長官タルデリが、風の精が増幅して運んで来た警笛の音に不快の表情を顕にしていた。
「これはどうしたことか? この不快な音をすぐ止めさせよ!」
状況を理解せずにタルデリは声を上げた。近侍の武官──タルデリのお気に入りで、上司を追従する以外にこれといって役に立たない──が要領を得ない応対をした。。
「──…敵襲です、この船に迫ってきます!」
「……敵襲? 何処の誰ぞがこの西方長官の座乗する〈ハウルセク〉を襲うというのか?」
西方長官のその言い様は、緊張感を欠いているという以前に、いっそ〝のんびりとした〟ものに聞こえる。が、それを聞く武官の方は如何に無能といえども役職上の知識は有していた。
「ルージューです!」 だから武官は恐慌に陥ったのだ。「ルージューのグリフォン・ライダーが来ますっ‼」
結論から言えば、彼は西方長官を安全な船内に導くべきであったろう。
〈ハウルセク〉は大船であり、4騎程度のグリフォンに襲われたところでどうとでも対処が出来た。船内には100名以上の兵を載せることができ、船溜に入り連日連夜の酒宴に明け暮れている現在でも70名は兵を乗せているのだ。
が、彼はその場で弓を持ち、上空に向けたのである。
皮肉にもアロイジウスの警笛の音が、彼から冷静さを奪っていた。
アロイジウスは警笛を吹き鳴らしつつ竜首を廻らせたが、その時にはもうグリフォンの降下速度に置去りにされている。
それでも必死に乗騎に追わせるが、グリフォンの背には獣を扱う騎手の他に〝弓だけを扱う〟騎射手が2人居り、彼らはアロイジウスにだけ意識を向けて矢を番えられる。
アロイジウスの方はワイバーンを急降下させるので長弓を構えることができない。グリフォンの騎射手の矢が放たれ始めれば、いったん追尾を諦めて距離を取らざる得なかった。
〈ハウルセク〉とそれに随伴する護衛の艇に配された弓兵は、その力を発揮することなく無力化されてしまった。
直上から降って来る感の〝黒い影〟──それは感覚的なものだが…──の恐怖に、辛うじて踏み止まった幾人かが弓を向けはしている。だが指揮する者がいないため、統制のある射撃とならず〝矢衾〟を作れなかった。
個々人の放つ散発的な矢筋にグリフォンはまったく怯まず、次々と突破してきた。
そして聖王朝の軍船の眼前で巨体に帯びた惰性をその〝巨大な翼の一打ち〟で打消し、船上の人らの目と鼻の先で翼を羽搏かせ、宙に静止した。
そのときの風圧たるやワイバーンの比ではなく、ただそれだけで弓兵は制圧されたも同然という態となる。〈ハウルセク〉の船上も、その脇で舫を解きつつあった護衛の艇も、グリフォンの羽搏きの生み出す暴風に沈黙させられ〝動き〟が止まった。
その〝動きの止まった〟わずかな時間で、すべてが決したといってよい…──。
全くの心構えも無しに巨大なグリフォンと対峙することとなったタルデリは、恐怖に取り付かれてその場から逃げ出そうとした。
踵を返した際に大きく腕を振り回し、体の平衡が崩れた。
縺れる脚を必死に前へと遣るが体は一向に進まない。踏み出す足の重さをもどかしく感じているのだろう……。
その表情が恐怖に歪んでいる。
何かを喚いていた。
そんな彼の背後には鋭い目をしたグリフォンが長大な翼を羽搏かせ、その背の2人もの騎射手は矢を番え終えているのだ。
が、タルデリを捉えた最初の矢は、それよりも高い位置から放たれたものであった。
アロイジウスに対応をし3騎を先に行かせたあの先導騎が、いまは最後尾から安定した機動で上空を通過して行き、矢を放っていったのである。
それはタルデリの背に突き刺さり、もんどり打って倒れ動きの止まった身体には他の騎射手からも次々と射かけられ……西方長官の身体は、あっと言う間に突き刺さった矢で覆われることとなった。
それを上空から見ているだけであったアロイジウスは、自身の無力感に唇を咬んだ。
油断はあった。
が、こうも呆気なく、見事に主将を討たれるとは…──。
これでもはや、双方共に後戻りはできまい。
いったい、我らは何を〝間違えた〟のだろうか……。
これが、西方長官が任地で賊の手によって斃れた〝あらまし〟である。




