突風 3
遠眼鏡越しにとある一点の方向に注視していた物見の兵から、ついに声が上がった。
「見えました! 〈ドーブレーベ〉の光です!」
間を置かず、別の兵の声も上がった。
「〈サパト〉の光は引き続き確認しています! 船団の現在位置は〈チーカ〉!」
その〈サパト〉〈ドーブレーベ〉の〝符牒〟で、ジョスタンは座乗する〈ゲミスリック〉が予定の空戦域〈チーカ〉に達したことを知った。後続の3隻の翼獣母船にも落伍したものはない。
ジョスタンは側らに控える副将格の弟オスバルドと肯き合った。
「状況は?」
オスバルドが、遠眼鏡で〝〈サパト〉の光〟を追っていた物見の兵に質す。応えはすぐに返ってきた。
「光の数は1つ……色は〝緑〟! ……『周辺ニ敵影ナシ』です!」
「…………」
オスバルドがジョスタンを向いた。その目がわずかに揺れている。
信号の伝える〝状況〟は『敵影ナシ』……襲撃の目標であるルーベン・ミケリーノの軍船団を捕捉した、との状況を伝える『目標アリ』ではない。
ジョスタンは落ち着いた表情を崩すことなく弟に言った。
「情報はアーティに統括させている。判断はエドゥアルドに仰ぐだろう。 ──我らは待つしかない」
オスバルドはその兄の言葉に頷いた。船上は再び静まり〝戦を控えた緊張〟に包まれることとなった。
一方──、
前線にほど近いカルデラの南の隘路……其処に在る見附の一つ──〈サパト〉の符牒を宛てられている──には、ジョスタンの異母弟アティリオ・マルティが近隣の絵図面を広げていた。
「……マンドリーニ軍の動きが止まったとのことだ」
卓を挟んだ向かい側からエドゥアルド・マールロキンにそう告げられ、アティリオは卓上の絵図から目線を上げた。
エドゥアルドが手にしていた〝伝文〟をアティリオの方へと差し出す。
それは、マンドリーニの船団を躱したあのコレオーニ商館の船から飛んできた伝書バトに括られてきたものである。
アティリオは素早く目を通すと、思案顔となって卓上の絵図面の端の方に目線を遣った。そこには〝マンドリーニ軍の船団〟を表す駒が置かれている。その駒と絵図面の中の幾つかの〝標〟の箇所との間を素早く目線を往復させる。
「無理だ……届かない」
同じことを一通りし終えていたエドゥアルドが、控え目な口調で言った。
「…………」
暫し押し黙ったアティリオが冷静な口調で訊く。
「こちらの動きを覚られたかな?」
エドゥアルドは慎重に返した。
「いや……少なくともジョスタンらの動きは知りようがあるまい」
その言にアティリオは納得したように頷いたが、エドゥアルドは静かに続けた。
「だが、これでルーベン・ミケリーノが我らを疑っていることは判った」
2人は黙って絵図面に見入る。
そろそろジョスタンの翼獣母船群は予定の空戦域〈チーカ〉に達した頃だが、そこからマンドリーニ軍の船団は遠く、互いの翼獣は届かない距離である。仮に翼獣母船群を一番遠くの〝空戦域〟にまで進出させたところで、ルーベン・ミケリーノの座乗船〈ミアガルマ〉を攻撃圏に捉えることはできない。
マンドリーニの船団は、カルデラの南──〝ルージューの想定する戦場〟の外で脚を止めてしまった。想定の戦場の外に〝脆弱〟な翼獣母船を出す訳にはいかない。
この出撃は〝空振り〟…──作戦は中止とせざるを得なかった。
アティリオは手下の者に命じて〝戦場〟の全域に『作戦中止セヨ』の〝光の合図〟を送らせると、詳しい状況を書面に認め伝文を作り、〈チーカ〉とその周辺の空戦域の見附へと伝書バトを飛ばした。
後はハトを受け取った見附の者が、自らの空戦域に見つけることの出来たジョスタンの座乗船〈ゲミスリック〉まで、状況を説明するため赴くことになる。
再び〈チーカ〉の空戦域で待つジョスタンらに視点を遣れば…──、
ジョスタンの座乗する〈ゲミスリック〉の船上からは、物見の兵がずっと状況を知らせる〝光の合図〟を追っている。その数と色は『周辺ニ敵影ナシ』を表す信号のまま変わらないが、さすがにこの〝マンドリーニの進軍の遅れ〟には懸念が広がりつつあった。
周辺に敵影のないことで敵襲に曝される危険はなかったが、こちらが攻撃すべき敵──マンドリーニの本軍も戦場に居ないのであれば、いつまで待っても会敵できず、我らがここに居る理由がない……。敵の本軍はどうしたというのだ。
懸念が苛立ちへと代わろうか……というタイミングで、状況を知らせる〝光の合図〟が『作戦中止セヨ』を表す色に変わった。
ジョスタンは天を仰ぐと小さく息を吐きはしたが、すぐさま手下のグリフォンの出撃の準備を解かせた。
その後1時間とせず〈チーカ〉の見附からの使者が現れ、ジョスタンはアティリオの伝文を見ている。伝文の内容を確認するやジョスタンは、船団にカルデラ内輪への帰投を命じたのだった。
この〝仕組み〟こそがジョスタン・エウラリオの〝秘策〟であった──。
ジョスタンは、鈍重なうえ火気に弱いという脆弱な翼獣母船を〝常に敵と正対することのない〟後方からグリフォンを送り出せる位置へと誘導できるよう、情報の網の上で運用することにしたのだ。
そのために情報を効率よく収集し伝達する哨戒網をアティリオに構築させた。
具体的には〝戦場〟と定めたカルデラ南壁の空を5×4のマス目状の〝空戦域〟に区切り、それぞれに見附を置いて哨戒の範囲としている。1つの空戦域は4リーグ(≒16キロメートル)四方の正方形で、そこには見附の兵の他、十分な数の翼獣や哨戒艇が配置される。
そうしてジョスタンは、それら哨戒の情報を、人知れず前線に進出する翼獣母船に直接届けさせる、ということはしなかった。
敵情は一旦〝戦場〟の見附の1つ──〈サパト〉の符牒を与えられている──に集めさせ、そこで真偽、確度を吟味させた。
情報の伝達には2つの系統を整備し、それらを組み合わせて運用している。
1つは〝伝書バト〟で、各空戦域で哨戒に当たる物見らは、敵影もしくは友軍を空戦域内に認めるや〈サパト〉に向けて〝伝書バト〟を放つことになっている。また〈サパト〉から他の見附にハトを飛ばすこともあった。
だが伝書バトは帰巣本能で〈サパト〉(や他の見附)に辿り着くことがはできるが、空を移動する飛空船には降り立てない。
つまり船に直接情報を送ることはできない。
それでいま1つ……〝光の合図〟──龕灯で合図を送る、ということをしている。
見附から敵情──特に〝攻撃を仕掛けて来得る敵船の有無〟に関してを、龕灯の光に乗せて飛空船に伝えている。
もちろん空を行く飛空船を見附の龕灯が追うことは現実的でない。
なので一つの工夫をしている。
空戦域毎に特定の2つの見附からの光を、それぞれ特定の(実際にはある程度の範囲の)角度で受けられる位置を定めておき、そこに船を導く決まりとしたのだ。2つの中の1つは必ず〈サパタ〉の光源とし、〈サパタ〉から必要な情報を〝光の合図〟として送った。
こうすることで見附の龕灯の光は固定され、船の側で自らの位置を同定しつつ〈サパタ〉から指示を受け取ることが出来る、ということである。
これがために、各見附の情報を〈サパタ〉に集約させている、とも言える。
リスクの全てをこれで排することはできないが、少なくとも脆弱な水素飛空船を敵前に並べることはない。目論見通りとなれば、聖王朝軍の攻撃を受けることなくグリフォンを集中的に敵陣に送り込める。その手立てがこれなのであった。
しかし……、恐らく〝この手〟は1度しか使えない。
今回は、主敵と定めたマンドリーニの船団が〝ルージューの想定する戦場〟に入る直前で脚を止めてしまった。想定戦域の外に脆弱な翼獣母船を出し、敵の眼前に曝す訳にはいかない。
ジョスタンは、敵方の将ルーベン・ミケリーノのその〝判断〟に得体の知れぬ思いを深めたのだったが、今回が〝最初で最後の詭計〟を験すときではないとのアティリオの判断に同意し、船団を引き返させることとした。
カルデラの南の隘路に構築した哨戒網の内で、侵入してきた敵に〝撃たれ弱い〟翼獣母船の姿を曝すことなく攻撃圏まで導き、秘かにグリフォンを放つ……これが〝この手〟の眼目なのである。
敵方にこの翼獣母船の存在を知られていないのであれば、次の機会に使う〝手札〟として手許に残せる。
翼獣母船〈ゲミスリック〉の船橋からゆっくりとした動きで回頭する3隻の僚船の姿を眺めるジョスタンは、ようやく〝この作戦〟の間、心の隅へと追いやっていた〝憂い事〟に向き合う時間を得ていた。
憂い事は、出撃の前にアティリオからもたらされた。
妻オリアンヌの実家〝ユレ〟に関することである。
妻が懐妊したことを家族に報告した日の次の夜、アティリオは1人で二の丸の居館に訪ねて来くると、ユレの内偵の事実を伝えてきたのだった。
西方長官府の築いた〝浮舟の砦〟に、最初に接岸した船はユレからの船であったと告げられたとき、ジョスタンはことの背景とその深刻さを理解した。
秋にオリアンヌの実父で太守の弟であるパトリス・エドガールが急死している。
つまりユレ内部で政変があったのだ。そしてこれで、カルデラの北東の抑えは当てにできなくなったと見てよい。
前日に妻が懐妊したことを喜んでくれた異母弟は、ユレの御家騒動に繋がる〝事実〟を告げた後、どうするかと訊いた。
ユレのしていることはルージューへの裏切りである。ユレとその娘オリアンヌをどうするか? 孰れルージューの一族を束ねる立場であるジョスタンにその覚悟を質したのだ。
ジョスタンはユレとの同盟関係を破棄する考えを告げた。
あからさまにユレを質すようなことは見送るが、もはやユレを信ずることはできない、と……。
だが妻オリアンヌについては、ユレに返すことはしないとも言った。
オリアンヌは〝政略に生きて〟いない。唯、夫となる男性を頼って異国に嫁いできたような女性である。そういう女性を妻に迎えたジョスタンは、妻を切り捨てるつもりはなかった。
アティリオは、
「それがよいでしょう」
と笑って言ってくれた。そしてこう続けたのだ。
「ついでに家督も継いでしまうがよいのです」
と──。
アティリオの言い分はこうである。
これまではルージュー一族が〝次男の派〟と〝三男の閥〟とに割れているふうを装うことにそれなりの益があった。が、聖王朝との開戦を決意した現在、不和を装う意味がない。一族は結束せねばならず、結束をしっかりと示す必要がある、と。
そのために先ずマルティの家を相続しルージュー辺境伯の称号を襲った上で、やがて生れてくる子が〝ルージュー〟の嫡子であると宣言してしまえ……。そうすることで嫡流争いに決着を着け、アティリオら兄弟は一門としてマルティを支える体制に移行できる、と…──。
それは確かにそうであった。
反論の余地がない。
現在が〝非常の時代〟となった以上は、アティリオに重責を押し付けることはできなかった。〝軍を掌握する〟ということは〝辺境伯領を束ねる〟ということである。
もはや平時ではない。
戦時にあってその大任は自分しか担えないことは、ジョスタンにもわかっていた。
これまで異母弟には無理をさせ続けたという〝負い目〟もある。
ここら辺が〝覚悟の為所〟と言えた。
だが、彼が思っている以上に時代の流れは速かった。
ジョスタンが覚悟を決めつつあったこの日より幾らも経たずして、カルデラの南の状勢が三度動くのである…──。




