第六話 掃除屋と精霊は破談を目論む
ふわり、ふわりと眼裏に光。羽のように頬をなでるそよ風の感触に、ラルクは珍しく朝に起きたのだと知った。ぼんやりと瞬きをする間に慣れ親しんだ声がする。
「おはようございます、殿下。お目覚めですか?」
「……シェイド? 小姓のほうか」
「はい」
キィ、と彼が押しひらいた両開きの窓の向こうは晴天。厚手のカーテンをタッセルで留め、二重になった薄布のみがはためいている。ここまで朝の光を全身に浴びたシェイドは久しぶりに見た。
ラルクは熟睡後ならではの寝覚めの良さで体を起こす。口をひらきかけ、ふと、昨夜のことを思い出した。
――やはり、聞こえていなかったのだろうか。
すると、シェイドがこてん、と首を傾げた。
「あ。マスターが寝る前のあれ? 聞こえてたよ。来なかっただけ」
「! 〜〜っ……、読むなよ、ひとの心を」
「はいはい。かわいいねぇマスターは」
「うっさい。黙れ薄情精霊」
軽口を叩いたラルクは顔をしかめ、当然のように浴室へ向かう。したり顔のシェイドは主の湯浴みの準備を万全に整えていた。
――そう。気まぐれで口は悪いが、彼は間違いなく優秀。変わり者の精霊だ。
ラルクは「ひとりでいい」と断り、ゆっくりと湯に浸かった。
◇◇◇
「で? 何の用だったんです」
身支度を終え、王宮の離れでもあるこの棟の食堂ひとり、朝食を平らげる。
食後の珈琲を淹れながら問うシェイドに、ナプキンで口を拭いたラルクは、おや、と顔を上げた。
「? 聞こえてたんじゃないのか」
「離れてたからね。心の声までは聞こえなかった。僕だって、万能じゃないんだよマスター」
「なるほど」
それはすまなかった、と謝り、湯気をあげるカップを受け取る。繊細な絵付けがほどこされた陶器の縁に唇をあてがい、ラルクはしみじみと昨夜の出来事をなぞった。
「……知りたいことがある。調べてくれるか」
「ふーん。『掃除屋』として?」
「いや、俺個人として」
「じゃあ答えられない。そういう契約だから」
「即答か!?」
「ごめんね。力になれなくて」
「…………いや、いい」
ラルクは思わず面食らった。
珍しくシェイドがしおらしい。例えるならば天変地異の前触れ。めったに見られない大精霊の困り顔に、徐々に腹が据わる。
考えてみれば、先代から『掃除屋』を引き継いで以来、仕事以外の理由でみずから出歩くことなどなかった。セインではないが、貴重な情報源だった釣書を燃やしてしまった手前、自力で立ち回るしかない。
――――それに。
(断るにしても、納得してもらわないと)
まだ熱かった珈琲を最後まで飲み干し、カチャリと受け皿に戻す。
ラルクはティリエルの王兄として、小姓であるシェイドに命じた。
「ポートメアリ公爵家に使いを。ローザリッテ嬢に面会したいと伝えてくれ」
◇◇◇
使いを遣って一時間後。
ポートメアリ家に赴くつもりだったラルクは、「お召しにより、ローザリッテ嬢が登城されました」との知らせにのけぞるほど驚いた。
「!? 速すぎないか」
「もともと、今日は王太后様が茶会を催されていたそうで。茶会の開始は午後三時。レオニア嬢はそれまで妃教育のご予定だったそうです。ローザリッテ嬢も伴われるとのことでしたので、問題はないと」
「そ、そうか」
ラルクは心持ち顔を引きつらせた。案内を申し出てくれた侍従について行く矢先、ちらとシェイドを眺める。
「お前は来ないのか?」
「うれしいお誘いですが、今日のところはご遠慮します。殿下の小姓らしく、お部屋を整えておきますよ」
「ふうん……」
どこか釈然としない思いを抱きつつ、ラルクは踵を返す。
扉が閉まり、ひとり取り残されたシェイドは、ふーー……と、大仰にため息をついた。腰に手をやり、首をコキコキと鳴らす。それは、どこからどう見ても緊張を解いた人間の少年の仕草だった。
そのまま、すたすたと開け放った窓に歩み寄る。すん、と鼻を鳴らした。風の匂いを嗅ぐように。
「あー、やぁっっと、残り香が消えた。ルミナシアの花の匂い……。『あいつ』だよな。しゃらくせえ」
わしゃわしゃと前髪を乱し、目を細める。指の隙間から覗く瞳は金。
色彩で闇の精霊であることを顕現したシェイドは、ほんのりと周囲を昏くした。双眸だけはその中にあって爛々と。
視線はやや下に向けられる。
――王居づとめの侍従について行く、灰銀の髪の主人。
「……あいつ、ああ見えて強ぇんだよな……」
ぼそりと呟いた少年は、ぱっと色彩を戻し、何食わぬ顔で昨夜破られたばかりの結界の修繕をはじめた。