第三話 掃除屋は逃げられない
「よろしいのですか? わたくしなどと踊られて」
「いいのです。俺だって、寝耳に水だったんですから」
「まぁ」
◇◇◇
薄青く磨き抜かれたフロアは氷の湖面か貴石のよう。いくつものシャンデリアが煌めく王宮の大ホールは、セイン王とレオニア嬢がファーストダンスを披露したあと、瞬く間に貴族の交流の場を化した。
と、同時に迫る人の輪を察知したラルクは、急きょセインのもとへ。将来の義兄として、まずはレオニア・ポートメアリ公爵令嬢にダンスを申し込んだ。それはごく自然な流れで奏功した。
おかげでラルクは少しだけ余裕を取り戻せた。にこやかに踊りつつ口調は憮然と。遠回しに彼女の婚約者をなじったりしている。
未来の夫をこき下ろされ、楚々と可憐に着飾ったレオニアは、ふふっと笑った。
「陛下のお言葉は嘘ではありません。本当に、心より殿下の幸せを願っていらっしゃいますのよ」
「たとえそうであっても、俺には無理です。あんな大勢に揉みくちゃにされるなんて御免だ。どうか、もうちょっとだけ匿ってくれませんか」
「それはもちろん……ですが、お相手がわたくしでは、一曲分しか猶予を差し上げられませんわ。あの、よろしければ、気立てのよいご令嬢をこのあと」
「結構です」
「え?」
驚いて顔を上げた未来の義妹に、ラルクは貴公子然と微笑んだ。
優雅な曲調に合わせ、くるくるとターン。
周囲との接触を避け、さりげなく空いたスペースへ移動する。
好奇のまなざしで刺してくる一団からは離れ、レオニアだけに聞こえるよう、曲の終わりにぼそりと囁いた。
「一曲あればじゅうぶんです。ありがとう、レオニア嬢。それに、ご婚約おめでとう。困った陛下を頼みますね」
◇◇◇
王室の席に戻ったレオニアは、にこにこ顔で待ち構えていたセインに迎えられた。労をねぎらわれるも、はんなりと眉を下げて答える。次いで視線を移した相手は未来の夫ではない。彼が接客していた、遠国の令嬢だ。
――まったくの無縁でもない。彼女が逗留しているのは他でもない、ポートメアリ公爵家なので。
「ごめんなさいね。うまくお引き合わせできなくて」
「いいえ、レオニア様」
異国の令嬢は、にこりと笑う。
ティリエルより、ずっとずっと東にあるという小国からの客人という。
『頼む! 何も言わずに預かってくれないか』と、国王そのひとに頭を下げられたのだ。婚約者として、臣下の娘として否と言えるはずもない。
それに、令嬢自身の性質も善良で、愛らしく、人好きするものだった。ティリエルの言葉を流暢に話せるほどの素養もあり、何より容姿が抜きんでてうつくしい。
おそらく、彼女を見て、無関心に過ごせる者などいないだろう。この宮廷で。
「して、兄上は? 」
「それが……」
そわそわと尋ねる国王陛下に、レオニアは苦笑する。
有り体にいえば、弟ぎみの無茶振りによって引き起こされた集団見合いを避けるため、隠れ蓑にされたこと。曲が終わってすぐに何処かへ消えたことを告げた。
「! 何。消えた??」
「あんなに上背のある殿方を見失うのもおかしなことですが。面目ございません」
「ああ…………いや、すまないレオニア。貴女のせいではないよ。兄の体質だ。魔法に長けている、と言うべきか」
「体質……魔法、ですか? まさか! ここは王宮ですのに。不埒者やいたずら者の魔法の暴発を防ぐため、いたるところに防魔の結界が張り巡らされていると聞いておりますわ。ちいさい頃から」
「そうそう。そのはずなんだけどね。なぜか、兄には効かないんだ。――――あ、攻撃魔法は適性がなかったから大丈夫」
「まぁ、そうでしたの。無知ゆえ、たいへんな失礼を」
頬を染め、淑女の礼をとって詫びたレオニアは、ふと客人の令嬢があらぬ方向を眺めていることに気がついた。
しまった、退屈させてしまったか……と、慌てて話しかける。
「あの……お客人?」
「はい」
「殿下はだめでしたけど、お菓子や飲み物はいかが? あちらはビュッフェです」
「いいえ。違うのです」
「え?」
レオニアは目をぱちくりとさせた。令嬢の視線の先には贅を凝らしたスイーツが並んでいたし、甘い菓子の魅力に打ち勝てる女子などいないと思ったのに。
セインも不思議そうに淑女たちを窺う。
客人の令嬢は微笑み、優美に膝を折った。
「陛下。レオニア様。ありがとう存じます。わたくし、お庭を見とうございます。お行儀よくすると誓いますので、ひとりで行っても?」
◇◇◇
煌々と白く光る月を見上げ、ラルクは息を吐いた。春の女神月。夜はまだ冷える。
開宴早々に抜け出す男女はおらず、空気は清らかなもの。時おり吹く風には、ほのかな薔薇の香りがする。
白、赤、黄、橙に桃色。多種多様な薔薇は何代か前の国王の趣味で、たいそう力を入れて造園された。白亜の柱には緑の蔦が絡み、花々が咲きほこるアーチは灯火であたたかく彩られている。
なかでもお気に入りの石のベンチに腰かけ、降るようにしずかな夜気と月光を浴びると、たちまちホールの賑わいが遠のく。
――意識の上で。
(やっぱ、落ち着くな……。用はないけど、今夜も飛ぼうかな)
ラルクは、掃除屋の務めとしてたびたび深夜に外出する。行き先はいろいろだが、決まってシェイドに与えられた黒梟の翼を用いた。
夜に溶け、この身は王国のもの。
それを実感できる飛翔は心地よいものだった。
思い出すと、また、あの塀から飛び立ちたくなるほど。
ほう、と夢想にふけったラルクは、月を見つめたまま独りごちた。
「あー、うん。そうしよう。その辺の侍従に言付けてさっさと帰ろう。な? シェイド」
「仰せのままに――――お待ちを。そこに誰か……誰だ!?」
まるで最初から付き従っていたような自然さで影から現れた小姓姿のシェイドは、鋭く誰何した。
そこで、ラルクはようやく視線を下ろす。
(!!)
――目を、みひらいた。
薔薇の茂みの向こうに、ひっそりと少女が立っている。
背後からホールの明かりを受け、後光のように柔らかく波打つ銀髪が輝いている。
ちいさな卵型の面には大きな、生き生きとした紅水晶の瞳。長い睫毛に縁取られたそれは品よく通った鼻梁や花びらのような唇の印象とあいまり、おとぎ話の妖精のよう。
ティリエルの民に、昔から愛される幸せの妖精の物語だ。たしか、名を。
「ローザ……リッテ?」
「! ばっ……、やめろマスター!! 不用意に」
「う……うれしい!! 覚えていてくださったのね?」
この少女、羽でも生えてるんじゃないか。
迂闊にもそんなことを考えるほど、ラルクはぼんやりとしていた。
シェイドの制止をすり抜け、たやすくラルクの腕のなかに飛び込んだ令嬢は、この上なく幸せそうに頬をゆるめた。
「さあ、約束です。わたくし、あなたの妻になりますわ!」




