第二十話 虹雲の空の下 〜大好きなあなたへ、愛を込めて〜
不覚にも。
不覚にも絆されそうな自分がいた。
「待ってくれ。それじゃあまるで」と、はくはくと口を開閉しても場の空気は変わらない。薔薇色の頬のローザリッテはともかく、彼女以外のふたりは温い祝福のまなざしで見てくる。耐えられない。
ローザリッテは、にっこりと両手でラルクの左手をとる。ラルクは心臓が跳ね、時を止めたかと思った。
「妻にしてくださいますよね?」
「え、いや、その」
「諦めてください、兄上。精霊の姫もこう仰っていますし」
「セイン……! この! いいのか、俺がっ。【掃除屋】としての俺が、もし……王統をややこしくしてしまったら」
「うれしい! ややこしくなるほど沢山のお子をお望みくださいますのね」
「〜〜!!? 貴女は黙っていてくれ!? ローザリッテ……嬢!」
もう、支離滅裂でわけがわからない。ラルクの情緒は乱れに乱れた。思わず彼女を呼び捨てにしてしまったが、寸でのところで元に戻した。
自分がどんな顔をしているかはさっぱりわからない。なお、ローザリッテは明らかににこにこしている。
―――万事休す。
途方に暮れたころ、ぽん、と右肩を叩く者がいた。悟りきった表情のシェイドだ。
「マスター、観念したほうがいい」
「シェイド……お前まで。いいのか? お前、平気ではあっても光が嫌いだろう。俺が彼女と結婚したら守護契約はどうなる。次代は」
「守護ねえ。うーん」
腕を組み、ひとしきり唸った黒髪の少年が空を仰ぐ。樹皮に似た茶色に擬態している双眸が、つかの間きらりと金に瞬いた。
シェイドは居直り、姿勢を正してローザリッテとセインを眺めた。
「あのさ。僕は、あんたたちの希望も願いも知ってる。大切にしているものも。その微妙にずれた方向性だって理解できるつもりだ。けど――、だからこそ、マスターに猶予を与えて欲しい」
「シェイド」
「僕は、先代亡きあとマスターの片親代わりも自認してるからね。頼むよ」
◇◇◇
セインもローザリッテも、それについてはすんなりと了承した。
セインにとっては、この縁談は紛れもなく善いもの。ずっと気にかけていた兄が家庭を持てるチャンスであり、しかも、シェイドとの関係を”公開“したわけではない。国の守護は揺るがないのなら、王として、弟として、これ以上の慶事はないと伝えられた。
かたや、ローザリッテは。
澄んだ薄紅の瞳を切なげに揺らめかせ、ひとこと「わかりました」と答えた。このまま王宮に留まられては? というセインに対し、やんわりと断ってもいた。世話になっているポートメアリ公爵家の人びとが心配するからと。
短い期間でも貴族令嬢としての振る舞いを学ばせてくれた場所で、あたたかなひとたちが多いと笑っていた。
居心地が良いのなら……と、セインとラルクは送り出した。
ラルクは、去り際の彼女の様子を繰り返し胸に描く。そのたび、掻きむしられるように苛まれて。
(どうすりゃいいんだ……!)
ひとりでも、シェイドが側にいても悶々とするのはわかりきっていたので、王宮内にいるついでに確認しようと思った。
詳しく覚えていないが、過去、ローザリッテと約束を交わしたとしたら当時の私室しかない。
政務に戻るセインから快諾を得て立ち入るのは、いまは王太后のみが暮らす妃の棟の反対側。
もともと、王の居住棟と対をなすかたちで東と西に妃の棟が建っている。ラルクが住んでいたのは西。その角部屋へ。
「変わらないな……」
部屋はきちんと清掃され、調度品も昔のまま。さすがに生花のたぐいは飾られていないが、管理が行き届いている。子どものころ、好きだった天井画も。
(記憶を曖昧にさせるとか。途方もないことだな……――でも)
ソファーはすべてカバーがかかっており、外すのも忍びなく、ラルクは立ったままで天井を眺める。
十になるか、ならないか。あのときに比べれば断然近く、ちいさく感じるが、当時の自分にはわくわくと心躍るものだった。天井全体が、あらゆる物語絵になっているのだ。
さらに奥へ進む。
天蓋付きの寝台がある。
その一隅、眠る自分からでも見える位置にその絵はあった。『幸福の妖精』。
……昔々、ひとりの子どもが森に迷った。口減らしにと置き去りにされたその子は、渇きを癒すために目にした泉へと近づく。
涙に濡れてしょぼくれた少年の視界に、ふとよぎる輝きがあった。
それは、世にもうつくしい少女の姿をした妖精だった。波打つ銀の長い髪は翅のように華奢な背を翻り、かろやかに宙を駆ける。瞳は淡い紅水晶。
暮れ時の光を一身にまとった少女が去った方向には、点々と宝石の花が落ちていた。
少年は、両手いっぱいのふしぎな花を手に妖精を追いかけた。なんと、妖精は森の出口にも導いてくれた――というもの。
ラルクは、この物語が大好きだった。
「忘れるわけないだろ。俺の……実るわけがない、憧れで。夢だったんだから」
いま、部屋は明かりをつけておらず、窓からの光だけ。寝台側の窓へと近づき、解錠するとふわりと新鮮な空気が入る。そよと薄布のカーテンがなびいた。
ラルクは目を細め、傾く日が消えようとする、はるか向こうの稜線に視線を凝らす。正確には、その、ずっと手前を。
「いるんだろ。ローザリッテ」
「――――やだ。気配が漏れていたかしら」
「わかるよ。なんとなく。でも、黙ってた」
「意地悪なかたね」
「どっちがだよ。降りてきてくれ。話がある」
「……はい」
空に透けていたローザリッテは、ぱちりと大きな瞳を瞬いて一転、質感をがらりと変えて窓辺に降り立った。
見送ったときと同じ装いだ。クリーム色を基調にしたデイドレスのところどころにやわらかなオーガンジーの薄紫のリボン。細い首を飾るチョーカーも。
勝手にどきどきと高鳴る胸を、ラルクは心で叱咤した。
「ひとつ、怒りたいことがある。聞いてくれるか」
「何なりと」
「なぜ……、どうして!」
「? きゃっ!」
見ていられなくて、腕のなかに閉じ込める。ほっそりとやわらかな肢体に鼓動は速まったが、もうどうにでもなれの心地だった。
ただ、ただ、伝えたくて。――胸のうちを。
「どうして約束の記憶を奪った? 俺は、喜んでいただろう……? 君に会えて」
「っ……あの、あの。ラルク様、わた、わたし」
「令嬢の君も目を奪われたけど、あのときの、素の君も大好きだ。ばか。忘れたくなかったのに。どうしてくれるんだ……!」
「ああああのっ、えっ……。そこ? そこですか??」
「そこしかないだろ! 会う前から『君』が好きだった男だぞ!? こんなこと、誰にも言えなかったし」
率直に言うならば、さっき思いだした、という台無しなひと言は、ぐっと堪えた。きっと、それすら目の前の彼女には筒抜けなのだけど。
案の定、ぽかんと口を開けたローザリッテは、しばらくラルクの真剣な瞳に見入っていたが、やがてくすくすと笑いはじめた。
(――……!!)
彼女のくすぐったそうな笑顔に。笑い声に、おそろしく体温が上昇する。多幸感に死にそうになる。
耐えられなくなったラルクは、観念したように少女の肩に額を当てた。
なんてことだろう。
幸せすぎて目眩がする。
「ラルク様。それ、気のせいよ。うれしいけれど」
「いいね、どんどん読んで。話す手間が省ける」
「もうっ!」
至近距離で見つめるふたりには、互いの息づかいしか聞こえない。
生きて、生身で側にいるということ。
そのことを実感したくて、ラルクはローザリッテの背中と腰に回した腕に、きゅ、と力を込めた。
「妻になってくれますか。俺が生きている限り」
「……もちろんよ。あなただけと言ったでしょう? 愛しいかた」
そっと、かつての第一王子の居室の床に落ちた影が、ぴたりと溶け合う。
どこからともなく、夕紫の光沢を放つ真珠色の花が舞い降りる……
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かつて。
この国に訪れた高位の精霊は、ふとした気まぐれでひとりの少女に恩寵を与えた。
金の髪、金の瞳の少女は、水晶のように透明な涙をぽろぽろとこぼしながら泣いていた。閉じ込められた塔の最上階で。
精霊は少女を助けた。彼女を虐げていた女王は、もとより民の嘆きを浴びすぎていたので。ほんの少しの手助けでじゅうぶんだった。
気まぐれだと思っていた。
忠臣に助け出された彼女が陽の光の下、皆の祝福を浴びて新女王に即位する――その光景を見届けて終わりだと思っていたのに。
『ねえ、あなたは、かあさまのおっしゃっていた、恩人の精霊さんですか?』
助けた娘と同じ容貌。同じ金の瞳に、ある夜見咎められた。
なぜ、見つかったのだろうと首を傾げながら。
礼を言われ、会いたかったと告げられ、生まれるのはさらなる気まぐれ。
――ずっと、可能な限りは彼らを見守れる術がある。
高位の精霊は、はじめて口の端をあげた。
生まれてはじめての“笑み”だった。
以来、彼は。
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「もうさあ、今夜だけだからな? お前と酒飲んでやるのなんか」
「光栄ですよ、シェイド。ああうれしいな。私も、兄上みたいに精霊の友になってみたかったんです」
「何言ってんだ、友なんかじゃない」
「? 違うんですか?」
夜も更けた王の居室。
さしで向かい合うのは部屋の主セインと、若干ふてくされた闇の精霊だった。小姓姿のほうだ。
祝い酒でいいですよね、と、笑顔でごり押しする国王は薄桃色のシュワシュワとした酒をちいさなグラスに注ぐ。
珍しがるシェイドに、セインは誇らしげに「今度、我が国の名産として売り出す予定の果実酒です」と告げた。その顔は、民と国への愛に満ちている。
「へー……」
グラスを傾けると甘い芳香。喉を流れる爽快感に、見た目よりすっきりとした味わい。「いいんじゃね」と呟く少年に、セインはお代わりを注ぐ。
「何もかも、ご先祖とがんばってくれた代々の【掃除屋】と、民のおかげです。ありがとうございます」
「礼なんか……」
「言いますよ。これからもね」
「ほんっっと、変わんねえな、お前らって」
「?」
「何でもない」
ぷいっと横を向いた闇の精霊は、無意識なのか、照れ隠しなのか。ガチガチとグラスの端に歯をたてている。
吹き出したセインの、控えめな笑い声が響く。
『ティリエル』。
かつて塔に囚われていた王女の名。
新しい国の名をそれに変えるなら、契約に反しない限りこの国を護ろう。
そんな申し出は、もう、あのときの精霊の胸のなかだけの秘めごとだ。
「……友じゃねえよ」
コトリと空のグラスを置き、シェイドは闇に溶ける。
やがてきたる、国王と王兄がそれぞれの妃を迎える華燭の典。
ティリエルでは輝く虹雲にそこかしこから花吹雪。爽やかな晴天にあって、澄んだ光は国中にあまねく降り注いだ。
謁見のバルコニーでは、愛らしく微笑んだローザリッテがラルクに寄り添い、「まるで精霊郷のようよ」と囁く場面があった。
うしろで控えていた正装の小姓からは、微苦笑とともに「軽々しく口にすんな」と、たしなめられたり。
それはそれは仲睦まじく。
末永く……――
fin.