【2:王宮への道──緊張高まる馬車内】
時間だ。
鏡の前で準備を整えていたエリーゼは、自分に言った。
派手すぎず、しかし侯爵家の令嬢としての品格は保つようにと、ドレスを丹念に選んだ。淡い色合いながら丁寧な刺繍が施されており、見る者に優雅な印象を与えるはずだ。これ以上“悪役令嬢”の噂を強めたくないという思いと、最低限の貴族の礼儀を両立させようと腐心した結果だった。
寝不足からくる頭痛と重いまぶたを堪えつつ、髪のセットもいつもより落ち着いたスタイルに仕上げる。使い慣れた香油の優しい香りが、ほんの少しだけ心を落ち着かせてくれた。
「お嬢様、本当に大丈夫ですか? あまり眠れなかったのなら、今日はいっそご欠席なさるという手も……」
侍女が心配そうにささやき、エリーゼは小さく首を振る。
「行かなければならないの。王宮から正式に招かれた以上、欠席したらそれこそ噂が広まるわ。『悪役令嬢が殿下から逃げた』ってね。そんなことになったら家の立場も危うくなるし……」
内心(それに私は運命を変えるために動かなくてはならない)という言葉を付け加えたかったが、それは誰にも言えなかった。
扉の外からは執事の声が聞こえる。「お嬢様の馬車の用意が整いました」
深いため息をついて、エリーゼはゆっくり立ち上がる。胸の奥でどくどくと鼓動が早まり、昨日から続く不安がぶり返す。だが、この午餐会を欠席して何もせずにいては、あの“処刑”の未来が少しも変えられないかもしれない。
「行ってきます……もし何かあれば、すぐ呼んでね」
侍女にそう言い残し、エリーゼは自分の足で侯爵家の玄関へ向かう。黒塗りの馬車が待ち構えており、御者が恭しく扉を開けてくれる。
いつもなら実家から王宮へ行くのは慣れた道のはずなのに、今は妙に息苦しい。「フィリップ殿下とどう接すればいいのか」という疑問が頭の中を埋め尽くしていた。
◆
馬車がゆっくりと邸を出発すると、車窓に街並みが広がる。王都の朝は活気に満ちていて、商人や市民が行き交う声が聞こえ、石畳の道を荷車が軋ませる音がする。美しい花壇や噴水が点在し、観光客らしき人々の姿も見える。
本来ならエリーゼはこうした街の様子を楽しむことも多いが、きょうは違う。心の中に重い影がこびり付いていて、車窓から見える明るい光景がまるで別世界のように感じられた。
「落ち着いて」
小声で自分を励まし、呼吸を整えようとする。隣に侍女がいるなら、その存在がほんの少しだけ安心感を与えてくれるが、それでも何度も鼓動が跳ね上がるのを感じるのだ。
もし、殿下の前で私が無礼を働いたら──そんなあり得ない仮定を考えるだけで手汗がにじむ。
あるいは、他の貴族令嬢たちが“悪役令嬢”の噂を一層かき立て、殿下の耳に入ってしまうかもしれない。そうなれば、彼の冷酷な処断が待っているのか……。
「いけない、また悪い想像ばかりしてる」
自分で自分を叱咤し、なんとか視線を街の風景へ向ける。気晴らしになるように、目に入る人々の笑顔を観察したり、花の色を眺めたりしようとするが、虚ろな心を満たすには至らない。
──だが、今回こそ殿下と接触するチャンスかもしれないとも思う。何もしないで運命を受け入れるのは絶対に嫌だ。ならば、彼に近寄って“彼が自分を斬る必要なんてない”と思わせるような対応をしなければならない。
もっとも、王子に積極的に話しかけること自体が一種の冒涜と捉えられる恐れもある。
(私が軽々しく殿下と親密に話そうとすれば、「悪役令嬢が王子を誘惑しようとしている」とまた噂を立てられるかもしれない。だけど……あの処刑の未来を回避するには、“あの方との距離を縮める”ことが一番手っ取り早いのだろうか?)
そのジレンマを解決できないまま、馬車はどんどん王宮へ近づいていく。
◆
窓から一瞬見える教会の尖塔を眺め、エリーゼは昨夜の占いを思い返す。再度占おうとしてもうまく集中できなかった。
もっと具体的なヴィジョン──例えば、いつその処刑が行われるのか、どんな場面で王子の怒りを買うのか、見通しが得られれば行動の参考になるのだが、あまりに断片的で恐怖ばかり先行している。
(私の占いが、こんな肝心なときに手がかりをくれないなんて……。でも、大きな未来に関わるほど視るのは難しいのよね)
占いは決して万能ではない。強い干渉を受けたり、自分の精神が乱れているほど精度は落ちると言われている。今のエリーゼはその真っ只中だろう。
馬車が小さな橋を渡ると、向こうに王宮の尖塔が見え隠れする。堂々たる石の城郭、絢爛たる中庭、豪華な正門──そこはエリーゼにとって幼い頃から憧れの舞台でもあった。けれどもいまは胸が痛む。
「殿下の処刑を免れるために、どう動くか。もし、それが占いだけに頼れないのなら、私は……」
自問しながら、エリーゼは少しだけ背筋を伸ばした。弱気になってはいけない。悪役令嬢と噂されても、自分が堂々と誤解を解く努力をすればいいはずだ。
怖いなら怖いなりに、真っ向から向き合わなくては。明日はきっと殿下に声をかけることになるだろう。それがどんな結果を招くか分からなくても、逃げるわけにはいかない。
やがて馬車が王宮近くの大通りへ入ると、すでに他の貴族たちの馬車が何台も列をなしていた。小高い丘の上にそびえる王宮の門前は、馬車と従者でごった返している。
朝早くから多くの人々が集まっているのだ。
「ああ……こんなに大勢いるのね」
窓越しに馬車や人々の姿を見て、エリーゼは思わず息をのむ。
もしフィリップ殿下がもう来ているのだとしたら──考えた途端、心臓がきゅっと締め付けられるように痛む。
(落ち着いて。まだ午餐会は始まっていないわ。それに殿下がわざわざ準備から顔を出すかは分からない)
だが、王子の動向など、エリーゼにはまるで掴めない。ここでチラリとでも邂逅があるなら心の準備をしたいが、そんな都合のいい展開が訪れる保証はない。
馬車がようやく止まり、扉を開けられる。エリーゼは覚悟を決めて、ゆっくりと降り立った。石畳の広場にはさわやかな朝の風が吹き、遠くの噴水の音がかすかに耳に入る。
「侯爵令嬢エリーゼ・ハウフマン様でございますね?」
門前の係が恭しく礼をして出迎える。周囲には同じように出席予定の貴族子女が行き来し、連れ立っておしゃべりをしている。エリーゼはとにかく目立たぬよう、足早に案内に従うことにした。
(殿下はきっと公務で忙しいはず。まさかこんな所にいらっしゃらないわよね?)
しかし、なぜか心の奥底では、彼とまた会うかもしれない予感が灯り、息が詰まる。つい先日の夜には自分を斬りかかるという未来を視た男──だというのに、どこかで「会いたい」という思いすら微かに混じる。
この矛盾した感情はなんだろう。エリーゼは胸の奥に生まれつつある感情を自覚できていない。あくまで「運命を変えるため」に彼と話す必要があると思い込んでいるだけだ。
係の者の先導で門をくぐり、王宮の広い中庭へ向かう。そこには豪華な噴水や整えられた花壇、遠くには衛兵たちの詰所も見える。まるで違う世界に足を踏み入れたように感じる。
エリーゼは緊張から背筋に汗が伝うのを感じながら、心の中でつぶやく。
(平気よ……大丈夫。何もおかしなことはない。私が“悪役令嬢”と呼ばれていても、ちょっと噂がある程度。殿下の怒りを買うわけがない……ない、はず……)
自分を落ち着かせる言葉は、果たしてどこまで効果があるのか。ともあれ、午餐会は始まろうとしており、そこには、冷酷王子フィリップがほぼ間違いなく現れる。
こうしてエリーゼは、緊張感を抱きしめたまま王宮の敷地を歩み始める。運命の糸がじりじりと二人を近づけていることを、まだ誰も知らない。
暗示された“処刑”の未来が回避されるのか、それとも何か別の波乱が待ち受けているのか。
──王宮への道は、気づかぬうちに二人の関係を翻弄していくことになるだろう。