【6: それぞれの夜明けから始まる一日の終わり】
占いで自分の“処刑”という衝撃的な未来を視てしまったエリーゼ・ハウフマン。そして、同じ夜明けのころ、不吉な予知夢に苛まれながらも「彼女を救いたい」と強く願う王子フィリップ。
夜が白々と明けていく中、二人の心にはまだ暗い影が根付いていたが、その影の形は決して同じではなかった。お互いを遠くから意識しながらも、相手の思いを測りかねている。何より、エリーゼは自らが「悪役令嬢」として殺される運命を、フィリップは「彼女を自分の手で斬る」という悪夢を──心の底で否定したくても振り払えずにいた。
◆
侯爵家の食堂には朝の光が差し込み、テーブルに並ぶ銀食器がゆるやかに輝いている。いつもなら家族や使用人たちが朝の挨拶を交わす穏やかな時間だが、この日のエリーゼはほとんど口数がなかった。
──ほとんど寝ていないうえに、内心はあの未来視の残像でいっぱいなのだ。
父侯爵が「顔色がすぐれないようだが、少し休まぬか」と声をかけても、「ありがとうございます、でも大丈夫です」とやんわり笑うだけ。侍女はそばで心配そうに見守りつつ、何かがあったに違いないと思うが、具体的なことは尋ねられない。
エリーゼは軽くスープを口にするだけで、ほぼ食欲が湧かなかった。けれど人前で取り乱すことは絶対に避けたい。下手な噂を家の中から広めるわけにはいかないのだから。
彼女が社交界で孤立し、時には悪役令嬢と呼ばれ始めたのは、いつ頃からだったか。
はっきり覚えていないけれど、嫌な囁きというのは、耳にはいってくるものだ。しかもエリーゼの場合は、明確な侮蔑ではなく「なんとなく嫌い」程度の薄さで、それ故に悪意と呼べるほどのものでもない。悪役令嬢という言葉も、「なんとなくそんな感じ」程度の言われ方なのかもしれない。分ってはいるけれど……。
(明日は王宮の午餐会。殿下と顔を合わせる可能性が高い。どう振る舞えばいいの……?)
口元にスープを運びながら、そんな思考ばかりが頭をめぐる。
ただ黙っていれば、あの人がわたしを処刑しようとする理由など生まれないのか、それとも逆にこうして逃げ腰でいることが、最悪の結末を導くのか──分からない。
父、侯爵がふと
「明日は王宮に行くのだったな。最近、殿下も御前での接触を厳しく制限しているが、お前は正式に招かれているのだ。何かあっても落ち着いて対応するんだぞ」
と諭す。
「はい……承知しています。失礼のないように」
とだけ返しながら、エリーゼは(王子と直接話せる機会があるなら、ほんの少しでも)という思いを胸の奥に秘めていた。
まさか「殿下、わたしを殺さないでください」などと泣きつくわけにもいかないが、手がかりを探らなければ──そうでないと自分の運命を回避できる保証などどこにもないのだ。
やがて朝食を済ませ、父侯爵は執務へ、母侯爵夫人は客の応対へと出ていき、テーブルにはエリーゼと侍女だけが取り残される。
「お嬢様、本当に大丈夫ですか? 朝からまったく召し上がっていないし……」
「……ええ。ありがとう。少し庭を散歩して気分転換をしようかしら」
そう言い残すエリーゼの表情は浮かないままだが、今は一人になって考えたいという気持ちが勝っている。侍女も、「では、お庭で何かあれば呼んでくださいませ」と後を追わずに見送った。
◆
王宮では、フィリップ王子が早朝から執務室にこもっていた。
寝付きは悪く、ほんの数時間しか寝ていないが、予定は容赦なく詰まっている。
机には兵や官吏から上がってきた報告書が山積みで、その中には明日の午餐会で顔を合わせるであろう貴族たちの名簿も入っている。
エリーゼ・ハウフマンの名ももちろん含まれており、フィリップは無表情な面持ちの下で内心大きく心を揺らしていた。
「殿下、こちらは先日の国境警備に関する文書でございます。急ぎご決裁を」
「分かった。そこに置いておけ」
従者が次々に書類を持って来ては置いていく。フィリップはその都度、そっけない言葉で応じるだけ。冷酷王子と呼ばれる理由は、こうした無表情と厳粛な態度にもあるのだろう。
しかし彼の胸中では、昨夜また繰り返し見た悪夢──あの娘を斬り倒すシーンが、せり上がるように蘇っていた。
(どうして、あんなにも悲痛な面持ちのまま俺に殺されるのか……あのままではいけない、俺が何とかしなくては)
仕事をしながらも、思考はエリーゼに向かいがちになる。今は誰にもその本心を悟られないよう、平然を装うのが精一杯だ。
それでも、明日は貴族たちが集まる小規模な行事。フィリップ自身も臨席しなければならない。エリーゼがそこでどう動くか、あるいは周囲が何を噂するか──想像するだけで頭が痛い。
(ただでさえ“悪役令嬢”などと呼ばれているのを耳にするが、彼女は本当に危険な存在なのか? 俺の夢が指し示す通り、彼女が王宮にとって仇となる何かをしでかすのか?)
一方で、「自分が見た夢は正しいのか?」と疑いたくなるほどの不可解さを感じる。本能的には、あの娘が悪意を持って王宮を脅かすとは思えない。でも、王族の継承争いは時に理不尽な形で人を追い詰める。
もしエリーゼがその渦中に巻き込まれ、王家から“悪”のレッテルを貼られ……最終的にフィリップの手で処刑される展開が現実になるのだろうか。
「殿下、そろそろ次の面会の時間です」
従者がそう声をかけ、フィリップは小さく頭を振った。今考えても仕方がないことばかり。それでも、なんとかして未来を変えるには準備が必要だ。
(もし彼女に会えるなら……会って、俺ができる限りのことをしよう。……もちろん、周囲の目がある以上、気軽に近づくことは難しいが)
冷酷王子という仮面を被りながら、彼は誰にも気づかれぬまま、エリーゼを救う術を探ろうと決意を固める。
◆
こうして侯爵家でも王宮でも、夜明けからの慌ただしさが一段落し、それぞれ日中の業務や用事へと移っていく。
エリーゼは家の庭をひとり散歩しながら、「どうにか殿下と敵対しないように……」と考え、フィリップは宮廷での諸処の面会をこなしつつ、「彼女と話す糸口をつかみたい」と焦りを感じる。
ただし、どちらも相手の本当の思いを知らず、己の置かれた運命からどう逃れるか模索するばかりだ。
自分は本当に“悪役令嬢”なのか。あるいは、フィリップこそ“冷酷”と呼ばれつつも、その実を誰も知らないだけなのか。
夕刻が迫るにつれ、エリーゼは王宮での午餐会がいよいよ現実味を帯びてくるのを感じ、胸の鼓動を抑えられなくなっていく。
(どうしよう。実際にあの方を前にしたら、わたしはきっと怖くてまともに言葉を発せないかもしれない)
けれど、そう逃げ腰でいては運命を変えられない──昨夜誓ったはずの決意を思い返し、何とか胆力を奮い立たせる。
一方フィリップもまた、書類山積みの執務室から一歩抜け出し、王宮の廊下を歩きながら「もしエリーゼが挨拶に来ても、冷たく突き放すだけでは同じ結末を迎えるだけではないか」と苦悩する。
周りには多くの侍従や貴族が行き来しており、彼の一挙手一投足に注目している。だからこそ、彼女を庇う言動をすれば“何かあるのでは”と余計に騒ぎ立てられるかもしれない。
(それでも、俺は黙っていられない。たとえ冷酷王子と罵られても、彼女を──)
ただ淡々と歩を進めるフィリップの目には、揺るぎない意志が浮かんでいる。
夕陽が落ちる頃、それぞれが違う場所で“明日”を思い描く。果たして、彼らの運命は本当に変わりうるのか──。