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【5: フィリップの予知夢──冷酷王子が抱える苦悩】

 夜が明ける頃。


 王宮の一角、頑丈な扉の奥に位置する私室。その部屋は石造りの壁を重厚なカーテンや装飾で飾り立てており、床には柔らかな絨毯が敷かれていた。ここが、王子フィリップが寝所や執務室として使っている空間である。


 夜半過ぎまで政務をこなしていた彼は、仮眠を取ろうと大きなベッドに横になっていた。しかし、いつも通り深い眠りには落ちられない。まぶたを閉じるたび、不穏な影が脳裏をよぎるからだ。


 どこか暗い場所で、女性が倒れている。あるいは、自分の剣で命を絶たれている。その光景は繰り返し襲い来る悪夢であり、フィリップを苛む呪いのようなものだった。


 今夜もまた、その夢が訪れたのだ。いつから見ているのか、もうはっきり覚えていない。幼少期から断続的に現れては消えていく予知夢めいた幻。夢の中でフィリップは、まるで他人事のように女性を斬らねばならない場面を繰り返す。


 その女性の名前が、エリーゼ・ハウフマンというのは分っている。宮廷の催しでその姿を何度も見かけているのも分っている。


 なぜ彼女を斬る必要があるのか、夢のなかでは説明もなく、ただ自分が無機質に剣を振り下ろしている。エリーゼの絶望に歪む顔が映り、その場でフィリップは何とも言えない胸の痛みを抱くのだ。


 その苦悶のまま目を覚ますと、寝台の白いシーツが嫌に冷たく感じられた。彼は軽く上半身を起こし、深く息を吐く。普段どおりの冷静な面差しを保とうとするが、鼓動が早まっているのが分かる。


「……また、同じ夢……」


 低く呟いた声には、明らかに苛立ちが混じっていた。王子としての教養や矜持を持つフィリップは、決して簡単に感情を表に出すことはしないが、この夢ばかりは彼を安穏とはしてくれない。


 いつもの従者が控えている時間にはまだ早い。まだ夜明けきらぬ空の気配を感じ取りながら、彼はベッドサイドのテーブルにあった水を一口含んだ。


 胸に渦巻くのは罪悪感か、あるいは怯えか。それとも、何としてもこの未来を変えたいという焦燥だろうか。


「どうして……どうしてあの娘を、俺が手にかける必要がある?」


 額に手を当て、記憶を掘り返そうとする。彼がエリーゼと面と向かって言葉を交わしたことは、ほぼない。かろうじて幼い頃に一度かかわった記憶がある程度で、お互い成長してからは、宮廷の行事でも彼女が自分に近づいてくることはなかった。


 それなのに、未来の夢では、彼女を“処刑”する形であのようなことに……。


 王位継承をめぐる暗い陰謀の一環なのか、彼女自身が裏切り者になるという可能性なのか。とにかく分からない。しかし、分からないからこそ、フィリップの胸を強く締め付ける。


 王宮内にはさまざまな派閥や継承権をめぐる政治の駆け引きが渦巻いている。兄弟に当たる王子や、伯父にあたる公爵など、多くの者がフィリップを陥れようと陰で画策しているらしい。


 エリーゼについては、あまり好ましくない噂話をする人がいることを知っていた。社交的ではない彼女の態度が原因なのかもしれないが、“悪役令嬢”と蔑称を一度聞いたこともある。エリーゼが、いつしか政治闘争に巻き込まれ、王家に仇なす存在となる──そうして王族としての使命感からフィリップが彼女を処刑する?


 いや、彼女がそういった凶行に及ぶ図が想像できない。エリーゼはどこか儚げで、むしろ心優しそうだという印象を、フィリップは持っていた。


 何よりフィリップ自身は、なぜか彼女を危険から救いたいと願っている。冷酷王子と呼ばれようとも、彼女だけは失いたくない。この不可解な感情は彼が幼少期から秘め続けてきたものだ。


 そして同時に、この夢──未来の断片が正しいのだとしたら、いつかエリーゼを自分の手で殺めることになってしまうのか。それを否定したい、けれど回避の仕方がまるで見えない。


「……どうすれば、いい……?」


 眠気の残る頭を振り払い、彼はベッドから立ち上がった。大きな窓の前に進み、外を見下ろす。王宮の敷地がまだ薄暗い紺色の闇をまとっている。


 眠れぬ夜を過ごしたせいで、身体には重みがのしかかるが、この程度でくじけるわけにはいかない。王族として、周囲に弱みを見せてはならないのだ。無表情と冷徹な言動で他者を遠ざけるのは、すべて自分自身を守るためでもあった。


 もし仮にエリーゼへ接近して、あの未来をどうにか回避しようとすれば、周囲の者が何を仕掛けてくるか分からない。彼女を助けたい気持ちがかえって標的にされ、エリーゼが危険に巻き込まれるかもしれない。


 それでも──いや、


 「だからこそ、俺が守らなければならない……」


 小さく言葉にしてみると、静まり返った部屋のなかにその決意が滲む。たとえ残酷な夢が待っていようとも、自分が殿下の立場である限り、どうにかして彼女を破滅から遠ざけたい。フィリップはそう強く思う。


                   ◆



 フィリップはそっと目を瞑り、ほんのわずかに残る幼き日の思い出を探る。


 まだ彼が少年だったころ、あるちょっとした宮廷行事で、ハウフマン侯爵家の令嬢たちを見かけた瞬間があった。特別に会話したわけではないが、そのときエリーゼらしき少女が、派手なドレスに身を包んだ姉妹に囲まれながら、どこか居心地悪そうにしていたのを見た気がする。


 彼女は目立たない隅のテーブルで静かにお菓子を食べていたが、使用人が転びそうになったのを見て、さりげなく助けていた。その控えめな優しさが印象的だった──そんな儚い記憶だ。


「悪役令嬢、か……」


 王都の社交界では、彼女に対する色々な噂が飛び交っているのも知っている。愛相がない、高慢で身勝手……いろいろ耳にするが、どこか腑に落ちない。彼の記憶と真逆の印象だからだ。


 だからこそ、“彼女が王家に仇なす存在となり、最終的に処刑される未来がある”など、信じ難い。──いや、自分がその刃を振るわねばならないなど、到底受け入れられない現実だ。


 そして、夢の中のエリーゼはあまりにも苦しげで、その様子を目の当たりにするたび、フィリップは胸が締め付けられるのを感じていた。


 「……俺は、いったい何をどうすればいいんだ……?」


 絹のカーテン越しに、夜の闇が徐々に白んでいく。遠くから小鳥のさえずりが聞こえ始め、王宮の一日がゆっくりと幕を上げようとしている。


 フィリップは冷え切った手をこぶしにして握りしめ、意を決して寝間着のまま執務室へ向かう。軽く身支度をして新しい日を迎えるより先に、数件の政務を片付けておく必要がある。


 ──いつかこの“王子”という宿命をまとったまま、彼女を斬り伏せねばならない……そんな未来に抗うためにも、彼は今日できることを少しでも前へ進めようと思った。


 もしもあの未来が避けられないほど確定されているなら、彼女がどんな行動を取ろうと最終的には結末が同じになってしまうのかもしれない。だが、フィリップは信じたい。まだ自分にできることが残されていると。


                   ◆



 王宮の廊下を進むフィリップの前には、朝早くにもかかわらず近衛兵が目を見開き、深々と頭を下げる。彼らにとって殿下は絶対の存在だ。冷酷でも、その威厳を畏れ敬う姿勢は変わらない。


 フィリップはいつも通り無表情を貫きながら、兵からの挨拶に短く頷き、足を止めることなく執務室へ向かう。


 その背中に、いくつもの視線が走っている。王子の宿命に絡もうとする勢力や、彼を引きずり下ろそうとする輩が潜んでいることを、本人はよく知っている。もしエリーゼがその標的にされるなら──考えただけで全身の血が逆流するような怒りが湧いた。


 夜明けの薄青い光が、廊下の窓から差し込む。冷たく美しいその光の中、フィリップは心中で小さく呟く。


「エリーゼ・ハウフマン……。お前が俺を脅かす存在になるなど、想像もできないが、もし、そんな運命があるのなら──俺が壊してみせる」


 幼少期の淡い記憶が、彼女への何とも言えない好意を抱かせている。それが何であれ、自分のせいで彼女が死ぬ未来を受け入れるわけにはいかないのだ。


 彼は自分を奮い立たせるように胸を張り、無駄な感情を表に出さぬため、氷のような仮面をより一層固く被り直す。殿下と呼ばれる立場であり、“冷酷王子”であることを自覚しながらも、その裏にある本心を誰にも悟らせないよう注意深く振る舞わねばならない。


 このときフィリップはまだ知らない。


同じ夜明けの頃、エリーゼもまた彼を恐怖と不安の象徴として考えながら、「運命を変えねば」と意志を固めていたことを。


 しかし、二人の想いはすでに静かに重なり始めているのかもしれない。殺される運命と、殺す運命──まるで最悪の形で結ばれているかのように見える。しかしその実は、一つの糸で繋がれている両片想いの種が、微かな光の下で芽を出そうとしているのだから。


 王宮の薄暗い廊下で、フィリップは決意を噛みしめる。「冷酷」と呼ばれる強さを盾にしてでも、あの未来に歯向かうのだと。それがいつか、あの娘を救うための闘いに変わることを、彼自身まだ気づいてはいない。


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