【4: 邂逅の予感──明日に控えた王宮行事】
寝不足と衝撃による疲労感で頭がぼんやりしているものの、侯爵家の娘として日常を休むわけにはいかない。朝食をそこそこに切り上げた後、エリーゼは部屋へ戻ってひとり考え込んでいた。
──明日、王宮で催される小規模な行事。それは午前から開かれる庭園での催しで、貴族の子女を招いて懇談や簡単な儀式を行うという話だった。普段であれば、華やかな衣装や誰かとの再会に胸を弾ませても良いはずの機会。しかし、エリーゼにとっては重苦しい恐怖の予兆でしかない。
王宮で行われる催しに参加すれば、必然的にフィリップ王子と顔を合わせる可能性が高い。それが普通なら何でもない一幕かもしれないのに、彼女はたった数時間前に“自分がフィリップに処刑される未来”を視てしまっているのだ。自分の行動ひとつで、あの凄惨な結末が近づいてしまうかもしれない。そう思うと体温が急速に下がる気がした。
エリーゼは自室の窓辺に立ち、外の庭をぼんやり眺めた。朝の光に染まる侯爵家の敷地は美しく穏やかで、まるで何事もなかったかのような日常がそこにあった。だが、彼女の内面は嵐のように揺れている。
(もし、あの未来が本当に訪れるなら……なぜ私が“悪役令嬢”として殿下を敵に回すの……?)
理由を思い当たろうと考えても、いくら想像を巡らせても答えは浮かんでこない。
(私には、王室に仇をなすほどの大それた動機なんてないし、殿下を恨む要因もない。むしろ……噂通りの冷酷な王子だとしても、ここまで怖い思いをしたことは今までなかったのに……)
窓辺から視線を外し、今度は部屋の奥に設えられた鏡へと向かう。鏡には気もそぞろな青ざめた自分の顔が映し出されている。無理やり口角を上げてみても、疲労と緊張が覆い隠せない。
「こんな顔で、王宮へ行くの……?」
普段は噂されるほどそっけない外見ではないはずなのに、気持ちが沈むと目元まで険しげに見えてしまう。さらに自分で自分を追い詰めるように考えてしまい、彼女は小さくため息をついた。
だが、何もしなければあの未来を回避するどころか、時間だけが容赦なく進んでしまう。それだけは避けたい。
同じ屋敷に暮らす家族──とりわけ、エリーゼにとって頼れる存在の父侯爵や妹はいるが、彼らに「王子に斬られる未来を視た」とはとても打ち明けられない。
(家族を巻き込みたくないし、私自身も……こんな荒唐無稽な話、受け入れてもらえるか分からないし……)
侯爵家の重みある威光と、エリーゼが持つ占いの才能ゆえの期待。それらが彼女に“自分でなんとかしなくてはならない”という圧迫感を与えるのだ。
そこで、彼女が思いつく行動はただ一つ──“殿下の怒りを買わないように、なるべくおとなしく波風を立てないで過ごすこと”。
あからさまに避け続ければかえって怪しまれるし、好かれようとして下手に近づけば“悪役令嬢が王子を誘惑している”などという騒ぎになるかもしれない。
エリーゼは、この窮地をどう乗り越えればいいのか、具体的な方策が全く見えず、もどかしく思っている。
「……もし、殿下と直接ちゃんと話ができるなら、何か違うかもしれないのに」
小さく呟いて、ハッとする。自分から殿下に話しかけるなど、普段なら考えられない。しかし、もし誤解を解く余地があるなら、一度しっかり対話したい気持ちもあるのだ。
(王族に軽々しく近づけば、わたしの“悪評”はますますひどくなるかもしれない。でも、このまま何もしないで殺される未来を待つなんて、耐えられない……!)
そこまで考えた時、再び廊下から足音とノックが聞こえた。
「お嬢様……失礼します」
侍女がドアを開け、両手に小さな冊子を抱えてやってきた。
「こちらが、王宮の行事予定や、今回の午餐会に招かれる貴族の方々のリストです。執事から、お嬢様に渡すよう、言い遣いました」
エリーゼは受け取りながら、ありがとうと微笑む。そこにはざっと二十名前後の貴族令嬢や若い貴公子の名前が並んでいた。
もちろん、そこに“フィリップ・フォン・クラウゼル殿下”の名もある。見ただけで胃が締め付けられる思いに駆られ、「ああ、やはり……」と小さく息を吐いた。
「お嬢様、体調はいかがですか? 朝食を少ししか召し上がらなかったと聞きましたが……」
侍女が心配そうに訊ねる。
「ええ、少し頭が痛くて。ごめんなさい、あまり眠れなかったから」
エリーゼは言葉尻を弱め、侍女の差し出すハーブティーを一口飲む。ほんのり甘い香りがじんわり体を温めてくれる気がした。
「午後からはお休みになられたほうが……。午餐会は明日なのですよね?」
「そうね。……ありがとう、少しだけ横になろうかしら」
本当ならば昼間の間に書斎で再度占いを試みたい気持ちもあったが、昨夜のショックが大きすぎて、再度の未来視に挑む余力がない。下手に自分を追いつめれば倒れてしまうかもしれない。
侍女が心配そうに退出すると、エリーゼはベッドに腰掛け、王宮行事のリストをぼんやり眺め続ける。
シャルロッテなど、顔見知りの名もあれば、エリーゼがあまり得意としない“姫様”や、他の王族の従兄弟などの名前もある。
(どこに地雷があるか分からない世界ね。これまでも程々にやり過ごしてきたけれど、今回ばかりはそれで乗り切れるかしら……)
そんな思いが頭を巡るうちに、いつの間にか彼女は軽いまどろみへ落ちていく。
不安に満ちた心は、それでも体が限界なのか、微睡みの誘惑を拒めない。まぶたを閉じれば、すぐさま暗い映像が追いかけてきそうで怖いのに、それでも惰性のように意識が遠のく。
──だが、その微睡みの中でさえ、エリーゼは感じるのだ。重苦しい闇と白い刃の冷たさ。そして、フィリップ殿下が悲しげに自分を見下ろしている姿……。
(どんな理由で、殿下は私を処刑するんだろう……。もし本当なら、王国で何が起きるの……?)
意識がうつろになりながらも、繰り返し浮かぶ疑問に苦しめられる。冷酷な表情の裏には何があるのか──あのヴィジョンのまま、絶望的な未来へ転がり落ちるのを、黙って待つなどまっぴらごめんだ。
やがて、エリーゼは浅い眠りの底からゆっくりと目を覚ました。ベッドの脇には先ほどのリストや予定表が置かれたまま。部屋の窓からは明るい日光が差し込み、昼下がりを思わせる。
「少しは体が休まったかしら」
身体を起こしながら、彼女はまだどこか現実感のない頭痛を感じる。しかし、夜中に感じた途方もない恐怖よりは、少しだけ前向きな思考ができるようになっていた。
(そうよ……私には時間があるはず。明日の午餐会で殿下にどう振る舞えばいいか、今日のうちに考えて、準備をしておこう)
きっかけは小さくてもいい。未来を変えたいなら、一歩でも動かなくては。
エリーゼはそう考え、ベッドから立ち上がると、ドレスの裾をひるがえして鏡の前に移動した。映し出された自分の姿はまだやや疲労の色が残るが、夜の死神のような恐怖からはほんの少し解放されている。
「大丈夫……きっと、何とかなる。……させなきゃいけない」
どこへ意気込むわけでもなく、ただ自分に言い聞かせるように呟く。そして、運命という名の重たい扉をこじ開けるべく、彼女は今後の行動を模索し始める。
エリーゼの本当のちからは、未来を占う力ではない。占った未来に抗うのが、彼女の本当に強さなのだ。