【3: 夜明け──侍女との会話】
自らの「処刑される未来」を視てしまったエリーゼ・ハウフマン。
書斎を出たときには、すでに東の空が青みを帯び始めていた。
廊下に並ぶランプの灯も、夜の闇を拭うほどの力はもはやなく、ぼんやりと薄明の陰を落とすだけ。長い夜が明ける──それは普段なら安堵の合図でもあるのだが、エリーゼの胸は逆に重く沈んでいた。
彼女は深夜の占いによって、自分が「悪役令嬢」として冷酷王子フィリップに処刑されるという、あまりにも衝撃的なヴィジョンを目にしてしまったのだ。
「お嬢様……?」
その声は、エリーゼの背後を歩く侍女のものだ。
エリーゼは慌てて乱れた息を整えようとしたが、目を血走らせたままだし、緊張のあまりいまだに顔色も悪い。
侍女はエリーゼの早い歩きのあわせつつ、半ば小走りに後をついてきていた。
「大丈夫ですか……? こんな早朝、というかほとんど徹夜で書斎に?」
「ええ……ごめんなさい。ちょっと占いをしていたら、思いのほか時間が経ってしまって……」
エリーゼは苦笑いで誤魔化そうとするが、さすがに侍女はエリーゼの態度が普段と違うと感じ取る。
「占い……? 何か悪い予感がしているのですか? もしお体が優れないなら、お医者様をお呼びしますけれど……」
「そ、そこまでじゃないの。ただ、少し怖いことが見えて……ううん、何でもないわ。本当に、大丈夫」
語尾が小さく揺れ、心細げな笑みを浮かべるエリーゼ。彼女の瞳には涙の膜が張りついているようにも見え、侍女はひどく心配そうに眉を寄せる。
「そんなに怯えて……いったいどんな占いを?」
「……ごめんなさいね。詳しく話せるほど整理できていないの」
それだけ言うと、エリーゼは廊下の壁にもたれて大きく息を吐いた。
いつもの彼女なら、多少の嫌なヴィジョンを見たとしても、それをどう回避するか冷静に考え、家族に伝えて防ぐ道を模索する。しかし今回ばかりは、“自分が殺される”という衝撃に頭が追いついていない。
誰に話せばいいのか、どう打ち明ければいいのか。侍女を巻き込み、余計な心労をかけるのも本意ではなかった。
「……ごめんなさい。心配かけて。本当よ。ほんの少し、夜更かししただけだから」
声が弱々しく震えるが、侍女にさらなる詮索をさせないように微笑もうとする。その微笑みはあまりにも痛々しく見えたが、侍女はそこに踏み込む勇気を持ち合わせず、「そうですか……」と曖昧に頷くしかなかった。
しかし、その瞳にははっきりと「何があったのですか?」という問いが浮かんでいる。
エリーゼはその気配を感じ取りつつ、首を横に振って笑顔を作った。
「さあ、こんな朝早くから起こしちゃってごめんね。私こそ、休まなくちゃいけないわ。もうすぐ日が昇るもの」
「ええ……でも本当に、お部屋で少しお休みを。お嬢様が体調を崩されると、きっとご家族や皆が心配します」
侍女はそう言いながら、さりげなくエリーゼの手を取ろうとした。その指先が驚くほど冷たいことに気づき、はっと小さく息を呑む。
「こんなに冷えて……。お嬢様、もしかしてずっと震えていたのでは? 本当に何も問題ないと……」
「大丈夫。平気よ……ありがと。少し休むとするわ」
無理をして落ち着いた口調を保っていることは、誰が見ても明らかだったが、侍女はそれ以上言葉を押し付けることはせず、そっとエリーゼの腕を支えるようにして歩く。
廊下は、すでに朝日で明るくなり始めていた。夜が溶ける気配に、エリーゼははじめて少し息がしやすくなる。
「そういえば、今日は……」
彼女は心の中で、近々の王宮の行事予定を思い出す。午餐会など、社交の予定も詰まっている。その度に“冷酷王子”と顔を合わせる可能性があることを考えただけで胃が痛む。
侍女に支えられて、自室の扉の前まで来ると、エリーゼはようやく身体から力を抜き、浅いため息をついた。
「今日は朝食の場には出られないかもしれない……少し横になってから考えるわ」
「そうなさってください。あとでお顔を見に伺いますね……」
侍女は深々と礼をし、エリーゼが部屋に入るのを見送る。
扉が閉まったその瞬間、エリーゼは床にへたり込むように腰を下ろしそうになる。朝の光がカーテン越しに射し込んでいるのに、部屋の中を重苦しい静寂が支配していた。
「私……本当に、どうしたらいいんだろう……」
思わず声に出して呟くと、その震えはまだ消えない。しかし、同時に心の中には一つの確固たる想いが芽生えつつある。
「負けない。絶対に処刑なんて、されてたまるものですか……」
その言葉は、微かな震えを帯びてはいたが、確実に彼女の意志を示していた。孤独と不安に押し潰されそうでも、逃げ出すわけにはいかない。
占いで視えた、あまりにも恐ろしい未来を──。
自分が“悪役令嬢”として扱われ、王子に首を落とされるその未来を──。
回避するのは自分の手でやらなければならない。
誰も知らないヴィジョンを知るのはエリーゼだけ。だからこそ、この運命を変える責任もエリーゼにしか果たせない。
床に座り込む手をついて、その体勢のまま顔を上げる。朝日の光の中で見えるのは、自分自身を映す鏡──そこにはいつもより青白い顔があり、不安げに揺れる瞳があった。
それでも、その瞳の奥に、小さな炎のようなものが揺らいでいるのを彼女は感じた。
「私は悪役令嬢なんかじゃない……。殿下に殺される理由なんて、絶対にあるはずがないんだから……」
自分へ言い聞かせるように呟き、ゆっくりと立ち上がる。
このまま一度眠りたい気持ちもあるが、侯爵家の娘として朝の挨拶や食事をスキップするわけにもいかない。なにより、今は目を閉じれば、あの冷たい剣先がまぶたの裏に閃いてしまいそうで怖かった。
やがて、ノックの音が小さく聞こえ、侍女が「朝食のお時間が近いです」と声をかけてきた。エリーゼは「少し顔を整えてから行くわ」と短く返事した。
鏡台の前まで歩み寄り、身だしなみを整えようとする。頬は少し青ざめ、目の下のクマは隠しきれない。ブラシで髪を直しながら、「今日からは私が、この運命に立ち向かわなきゃ」と自分に言い聞かせる。
──そう、ただ恐れているだけでは駄目だ。どんなに怖くても、行動しなければ未来は変わらない。自分を救うのは自分しかいないのだから。
朝日の中、エリーゼは覚悟を固めた。
侍女に気遣われながらも、恐怖と希望を胸に抱えたまま、彼女は侯爵家の重い扉を開け、朝の光の下で新たな一日を迎える。
この瞬間から、運命は静かに動き始める。
果たして、彼女の決意は王子フィリップとの破滅の未来を変えられるのか。殿下に殺されるなどという“予言”を覆せる術はあるのだろうか──。