【2:レオンの策略】
夕闇に包まれた王宮の大広間では、普段の静謐とは異なる活気が満ちていた。絢爛なシャンデリアの灯が煌めき、豪華なテーブルクロスが敷かれた長い晩餐テーブルには、上質なワインや季節の食材をふんだんに使った料理がずらりと並ぶ。控えの席では、演奏家たちが優雅な弦楽の調べを奏で、室内を華やかな音色で彩っている。
ここで催される夕食会は規模こそ控えめだが、王族をはじめとする高位貴族が集まる、いわば“選ばれた者同士の場”だ。形式上は社交を深めるための宴席とされるが、実際には様々な思惑が渦巻いている。誰が誰と話をするのか、どんな情報を交換するのか──そうした駆け引きこそが、王宮の真の裏舞台だと言える。
エリーゼ・ハウフマンは、胸の奥に抑えきれない緊張を抱えながら、その大広間へと足を踏み入れた。
選び抜いた淡いラベンダー色のドレスが、控えめな光沢を放ちながら彼女の身体に優雅に寄り添う。侍女たちの助けを借りて完璧に整えられた髪は、ほどよくまとめ上げられ、後れ毛が揺れるたび、乙女らしい繊細さが漂う。
しかし、いくら装いを整えても“悪役令嬢”としての悪評は容易には消え去らない。入室するや否や、周囲の貴族たちの視線が一斉に彼女へ向けられるのを感じ、エリーゼは小さく身震いしそうになる。
(落ち着いて……堂々としていればいいんだから。ここで臆病風に吹かれてしまったら、ますます“やっぱり何か隠している”なんて思われてしまうわ)
心中でそう言い聞かせながら、一歩ずつ歩を進める。控えめな微笑を浮かべ、ぴたりと背筋を伸ばして。“悪役令嬢”などと呼ばれたくはない、という強い思いを胸に宿していた。
すると、ほどなくして視界の端に、レオン・フォン・クラウゼルの姿が映った。金褐色の髪を整え、光沢のあるワインレッドの上着に身を包む彼は、さすがは“もうひとりの王子”と呼ばれるだけあって、遠目に見ても華やかな存在感を放っている。
レオンもすぐにエリーゼの存在に気付き、あからさまに明るい笑みを浮かべて、軽く手を振って見せた。
(あ……やっぱり、レオン殿下、こちらに気づいている)
エリーゼが少したじろぐのを感じるより早く、レオンはスッと歩み寄ってくる。周囲の貴族たちがざわつき始めるのを、エリーゼも敏感に感じ取った。彼女が王子と二人きりで話すなど、それだけで新たな噂の種になりかねないのだ。
「やあ、来てくれたんだね。招待状は無事に届いたかい?」
レオンは人当たりのいい声で話しかけ、優雅にエスコートするようにエリーゼの腕へ手を伸ばした。普段なら到底許されない距離感だが、王族が相手とあっては強く拒絶しづらい。周囲の目がある中で無碍に突き放せば、失礼な行為と見なされる可能性もある。
「……ええ、ありがとうございます。夕食会に呼んでいただいたこと、光栄に思っています」
エリーゼはぎこちなく微笑んで返す。実際には、自分が正式招待を受けたのは王宮の慣例や父侯爵の立場があってのことだろうが、レオンがそれを“自分の手柄”のように振る舞うのも、ある意味“策略”の一端かもしれない。
レオンの隣には、いつもの取り巻きである貴公子たちが控えていた。彼らもまたレオンの社交的な空気に合わせ、愛想の良い笑みを浮かべつつも、ひそひそとエリーゼを観察している。
(警戒されているのか、それとも単に面白がられているのか……)
それさえも分からないまま、エリーゼは笑顔を崩さずに挨拶を交わす。そうするうちに、周囲の貴族や令嬢たちも、どこか牽制するように視線を送り続けてくるのを感じた。
間もなく、高らかな合図とともに前菜が運ばれてきた。王族と限られた大貴族だけが座る主賓席には、フィリップの姿も見える。黒い礼服を端正に纏った彼は、冷徹な瞳で会場を見渡しているが、どこか居心地の悪そうな雰囲気も漂っている。
(フィリップ殿下……やっぱり、視線が刺さる気がする。でも、殿下はこちらを見てはいないように見えるわね)
そう思った刹那、フィリップが微かにエリーゼへ向けて目を伏せた気がした。だが、その表情までは読み取れない。すぐに彼はグラスを傾け、まるで何事もなかったかのように視線を外してしまった。
そんなエリーゼの心の揺れを見透かすように、レオンがタイミングよく声をかける。
「さあ、エリーゼ、僕と並んで歩こうよ。今日は君のために色々と案内してあげたいんだ」
彼はエリーゼの腕を取り、まるで恋人同士のように並んでテーブルへ向かおうとする。
「え、でも……そんな風にご一緒しては、周りの方々にご迷惑では……」
当然、エリーゼは戸惑う。王子にくっつく形で歩くなど、極めて目立つ行動だ。特に彼女のように“悪役令嬢”の噂が絶えない存在がそんなことをすれば、“次はレオン殿下を誘惑している”などと根も葉もない中傷が広がるに違いない。
しかし、レオンは自信たっぷりに微笑み、低い声で囁くように言う。
「大丈夫、大丈夫。僕は君を歓迎しているってことを、みんなに示したいだけさ。むしろ誤解を解く良い機会だろう? 悪役令嬢だなんて、くだらない噂だってことを、僕が証明してあげたいんだよ」
その言葉に、エリーゼは思わず唇を噛みしめる。レオンの振る舞いはあまりにも“好意的”すぎる。お世辞にも疑いようがないほど優しげだが、どこか底の見えない計算が感じられるのは気のせいだろうか。
結果的に、周囲の視線を受けながら、エリーゼはレオンにエスコートされる形でメインテーブルへ近づいていく。軽やかな弦楽の調べとともに、貴族たちが各々の席で談笑を交わす中、彼女の存在は一際注目を集めていた。あちこちで囁かれる声が耳に届く。
「見て、レオン殿下があの令嬢を……」
「まさか本気で気に入っているのかしら。それとも、ただの気まぐれ? フィリップ殿下はどう思われているのか……」
やがて、レオンはテーブルの端にある席を指し示し、エリーゼを椅子へと促す。そこまで自然にエスコートされてしまえば、もはや断ることもできない。苦笑交じりに腰を下ろすと、レオンはエリーゼの隣へ座り、ワイングラスに手を伸ばして乾杯のジェスチャーをする。
「改めて、今夜はよろしく。僕はこうして君とお話しする機会が欲しかったんだ。……もっと、占いのことやら、色々と教えてほしいよ」
レオンが愉快そうに微笑むと、周囲の取り巻きも「ええ、ぜひぜひ」などと調子を合わせる。しかしその目には、エリーゼがどんな反応を示すのか、しっかり観察してやろうという意図がちらついている。
エリーゼはワイングラスを握りしめ、乾いた喉を潤す。まるで自分だけが狙い撃ちにされているような居心地の悪さを覚えた。
(だけど……ここで逃げちゃ駄目。きちんと会話をして、変な誤解を増やさないように振る舞わなきゃ)
少し意を決して、彼女はレオンへ向き直る。
「わたしができる占いなんて、別に大したものではありませんよ。先日の午餐会の件だって、ただ相手が酔っていたから偶然うまくいったように見えただけです」
すると、レオンはあからさまに驚いたふりをする。
「本当かい? 噂では、君が冴え渡る占星術で青年を救ったと聞いているけどね。……へえ、謙遜するんだね。やっぱり面白いなあ」
その言い回しには、まるで“ほら、僕たちは知ってるんだよ。君にはまだ隠された力があるってことを”と言わんばかりの含みが感じられる。
エリーゼは内心でどぎまぎしながらも、できるだけ穏やかな笑みを保つ。
「わたしの占いが、本当にそこまで大げさなものだとは思わないんですけど……もし、誤解されているなら、いずれ誤解を解かなきゃいけませんね」
夕食会も進み、前菜から魚料理、肉料理へと順次運ばれてくる。レオンを中心に華やかに談笑が広がる一角では、エリーゼも質問攻めに遭いながら食事を続けていた。
「そういえば、君は王宮の図書室でよく古文書を調べているそうじゃないか。あれは占いに関係するものなの?」
「エリーゼ嬢、あなたの実家には占星術や予言にまつわる伝承が数多く残っていると伺いましたが、本当ですか?」
次から次へと口々に投げかけられる好奇心に満ちた問い。それは一見、純粋な興味を示しているように見えるが、実際には“どこまでが真実か見極めたい”という気配が透けて感じられる。
エリーゼは無理やりにでも笑顔を作りつつ、適度に言葉を濁しながら受け答えをする。
「確かに古い文献は多いんです。けれど大半は伝承や民間呪術のようなもので、ちゃんとした実証があるわけではなく……。ただ、わたしとしては占いはあくまで趣味の範疇ですので」
もちろん、真に迫る内容──例えば自分が王子に処刑されるかもしれないという不吉な未来視──を語るわけにはいかない。
話を適度にそらしつつ、レオンや取り巻きの貴公子たちの動きを観察する。レオンが本気で彼女の占いを信用しているのか、それとも何らかの利用価値を見出そうとしているのか、その真意を探ろうと思ってのことだ。
ふと、レオンがグラスに満たされたワインを一口飲み、口角を上げる。
「ねえ、エリーゼ。もしよかったら、僕のことも占ってくれないか? これから先、僕がどんな未来を歩むのか、君の目から見て教えてほしいんだ。……なんてね、ちょっとした興味本位だけどさ」
周囲の会話が一気に止まり、微妙な空気が漂う。“王子を占う”行為は、王族に近い身分でもなければなかなかできることではないし、失敗すれば大変な失礼とも受け取られかねない。
エリーゼの胸に冷や汗が伝う。ここで安易に「占えます」とは言いづらいし、断れば断ったで、今度は“彼女が怪しい術を封じている”などと騒がれる可能性がある。
うまい返しを考えようとするが、レオンはまるで“拒絶などさせない”という勢いで微笑んだまま言葉を続ける。
「安心してくれ。これはあくまで僕の個人的な願いだよ。君を責め立てるつもりもないし、失敗したとしても誰も咎めやしない。……むしろ、本物の力を持つなら、僕としては大歓迎さ」
その言葉に周囲の貴族たちも「あはは、殿下はいつも面白いことをおっしゃる」などと愛想笑いを浮かべて迎合する。裏では「もし本当に占えたらどうなるのか……」と興味をそそられているようだ。
エリーゼはグラスを握りしめ、どう返事をすればよいか迷う。レオンの誘導はあまりにも自然で、なおかつ“公衆の面前で断りにくい状況”を巧みに作り出している。このまま押し切られれば、彼女は不安定な立場に追い込まれかねない。
(いや、これは罠かもしれない。下手にこの場で占いを披露すれば、成功しても失敗しても厄介なことに……)
まさに板挟みの瞬間。そんなとき、遠くからくぐもった笑い声が耳に入ってきた。
視線を巡らせると、主賓席の付近で立ち話をする一団の中に、フィリップ王子の姿があった。彼は大勢の貴族に囲まれ、いつもの冷徹な眼差しで応対している。
(フィリップ殿下……助けを求めたところで、きっと動いてはくれないわよね……)
そう思う反面、エリーゼの胸には微かな期待も生まれる。もしフィリップがここに来てくれたなら、レオンの策略を牽制してくれるかもしれない。しかし、悪役令嬢に味方するような行動を取れば、それこそ余計な誤解を生むだろう。
結局、エリーゼは苦笑交じりにレオンへ向かい、丁重な口調で切り返す。
「恐れ多いことですが、殿下の未来を占うなど、わたしのような者には荷が重すぎるかと……。王族には星々も一目置くでしょうし、わたしなどが出しゃばっては失礼になってしまいます」
できるだけ婉曲に断り、苦しい言い訳を並べる。それに対し、レオンは「星々が一目置くかどうか、それを占いで確かめてほしいな……」と微妙に言葉を絡めてくるが、エリーゼが軽く頭を下げて黙り込むと、さすがにこれ以上は深追いできないと判断したようだった。
「ふふ、まあいいさ。今後の楽しみに取っておくことにしよう」
結局レオンは、軽く肩をすくめて話題を変える。周囲も笑い声を再開し、いつの間にか酒の勢いを借りた別の雑談に移行していく。エリーゼは内心、ひとまず胸をなで下ろした。
(……危なかった。迂闊に受けていたら、絶対に騒ぎになっていたわ)
しかし、レオンの“策略”がこれだけで終わるはずもない。彼が真に狙うのは、エリーゼの占いを通じて何か大きな情報を手に入れること、あるいはフィリップを牽制するための材料を握ることなのかもしれない。
しばらくして、メインディッシュの後、ワインが新たに注がれたタイミングで、レオンは改めてエリーゼに向き合い、穏やかな口調で言う。
「こうして君と会話してみて、確信したよ。やっぱり君はあの“悪役令嬢”なんて噂とは無縁だ。むしろ、誰よりも繊細で優しいんじゃないのかな」
まるでアプローチめいた言葉に、エリーゼは思わず赤面しかける。周囲の視線もあって居たたまれないが、レオンが何を企んでいるのかを探る上で、下手に拒絶できない。
「そ、そんな……滅相もないです。わたしはただ、その……場違いにならないよう、皆様のご迷惑にならないようにと……」
その謙虚すぎる態度を面白がるように、レオンは笑いを含んだ瞳でエリーゼを覗き込む。
「君がそうやって俯いていると、余計に“悪役令嬢”じゃなくて“儚い悲劇の姫”に見えてくるんだがね。フィリップはそんな君をどう思っているんだろうね……?」
不意にフィリップの名を出され、エリーゼの胸が大きく跳ねる。レオンの言葉には挑発が混じっていて、まるでフィリップとの関係をあえて掘り下げることでエリーゼの反応を試そうとしているかのようだ。
エリーゼは視線を落としながら、必死に冷静を装う。
「殿下とは、特に何か特別な関係があるわけでは……。一度会話したくらいで、取り立てて何か言えるほどのことはありません」
するとレオンは小さく頷き、「まあ、そうだろうね」と軽く煙に巻く。
「でも、あの冷酷王子だって、ときには人間らしい感情を持っているんじゃないのかな。……もし、君があの占いで、フィリップの心の内を覗けるなら、僕にも教えてほしいくらいだよ」
意味深に囁くレオン。その一言にエリーゼは息苦しさすら覚える。結局、彼は“フィリップとエリーゼの関係をどう揺さぶれば面白いか”──あるいは“どう利用すれば得をするか”──を探っているのだ。
(やっぱり、レオン殿下は殿下の動きや心情を把握したいんだわ。わたしの占いを、彼の政治的な駆け引きに使う気なのかもしれない)
この夕食会という公の場で、こうして“王子自らが悪役令嬢に親しく振る舞う”姿を見せつけるだけでも、十分な威圧効果がある。エリーゼからすれば不本意だが、レオンにとっては利用価値が高い行為と言えるだろう。
さらに、もしエリーゼが占いによってフィリップの弱点や本心を探り当てることができるなら、それこそレオンにとっては最高の“武器”になるはずだ。だからこそ、彼はこうして根気よくエリーゼに優しく接し、懐へ入り込もうとしているのだ。
やがて夕食会も佳境へ入り、デザートと共に甘いリキュールが振る舞われる。参加者たちはほろ酔い気分で談笑を深め、あちこちで笑い声や囁きが飛び交い始めた。
エリーゼも適度にグラスを傾けつつ、消耗しきった頭を何とか働かせている。レオンの隣にいる限り、“悪役令嬢と王子が怪しく接近中”という印象が強まるが、席を外すタイミングを逃してしまい、完全に捉まってしまっていた。
(もう少ししたら“体調が悪い”とか言って席を立ったほうがいいかも……これ以上いると、どんな話を振られるかわからないし……)
そんな思考を巡らせていると、レオンが再びおもむろに言葉をかけてくる。
「この後、もし時間があるなら、少し庭を散歩しようよ。君にもっといろんな話を聞きたいんだ」
「え……庭、ですか?」
エリーゼは驚きに目を見開く。夜の庭園へ散歩するなど、二人きりで話す場面を作る意図があるのは明白だ。それを受け入れれば、ますます周囲の噂が膨れ上がるだろう。
断ろうかと思った瞬間、レオンは微笑みの奥にわずかに冷たい光を宿していた。
「……嫌じゃなければ、ね。僕は君を疑っている人たちに“彼女は怪しい存在なんかじゃない”って、はっきり示したいと思っているんだ。……もちろん、それが君のためでもあると思うよ」
その言葉に、エリーゼの胸にあざとい警報が鳴り響く。レオンが言う“示したい”というのは、本当に彼女を守るためだけだろうか。それとも、もっと別の目的があるのではないか。
しかし、その問いを突き詰める前に、レオンはテーブルから立ち上がり、紳士的な身ぶりでエリーゼを促す。取り巻きが「レオン殿下、お手洗いですか?」「そちらの庭園は夜も美しいですからね」などと軽い調子で同調する。
エリーゼはひとまず息を整え、何かしら言い訳を考えようとするが、すかさず周囲の目が注がれる。
(ここで断ってしまえば、また“なんであの娘は殿下を拒んだのか”と変な疑念を持たれそう……。嫌でも行くしかないのかしら)
仕方なくエリーゼは小さく微笑んで立ち上がる。
「少しだけなら……。わたしもお世話になった方々にご挨拶しながら、息抜きに庭へ出ようと思います」
大勢の貴族たちが視線を寄せてくる中、レオンは「では行こうか」と、あくまで紳士然とした態度でエリーゼをエスコートする。
その背後では、晩餐会の華やかさがいっそう盛り上がりを見せていた。音楽は盛大に鳴り響き、シャンデリアの光が煌めき、そして人々の噂話の渦はさらに勢いを増している。
──こうして、レオン王子による“親しげな誘導”は続いていく。エリーゼに対する興味と優しさを演出しつつ、その裏では冷静に何かを狙っているかのような言葉と振る舞い。
まるで罠の入り口に気づかせないようにじりじりとエリーゼを囲い込み、かつ、周囲の目にも“あの悪役令嬢はレオン殿下に取り入っている”という印象を強く刻ませているかのようだ。
一方でフィリップは遠巻きにそれを見つめながら、何もできずに胸をかき乱されている。冷酷王子としての立場を貫くため、下手に動くわけにもいかず、ただレオンの動きを注視するしかない。
果たして夜の庭園でレオンが何を語り、エリーゼをどう揺さぶるつもりなのか。警戒を解かないままエスコートされるエリーゼは、次第に“王宮の陰謀”の中心へと引きずり込まれていく。