【4:運命を変える決意】
王宮の廊下に淡い夕日が差し込む頃、エリーゼ・ハウフマンは独りで歩いていた。先刻まで騒がしかった廊下は、晩餐前のひとときゆえか、行き交う人も少なく静寂に包まれている。壁面にかかった美しいタペストリーや黄金の燭台を横目に見つつ、エリーゼは自分の足音さえ大きく感じてしまうほどの緊張を抱えていた。
(何をするにも、こんなに周囲の視線が気になって仕方ないなんて……)
ここ数日、王宮に来るたびに心が重い。 “悪役令嬢”の烙印を押され、どこへ行っても噂話や陰口にさらされるばかりだ。フィリップ殿下の存在も気掛かりだが、最近になってもうひとりの王子であるレオンが急接近してくるなど、状況はいよいよ混迷を深めている。
ただ、だからといって逃げ出すわけにはいかない。エリーゼがここにいるのは、破滅の未来──自らが王子フィリップの手で処刑されるという最悪のビジョン──を何とか回避するためなのだ。
そんな思いに突き動かされる彼女だったが、陰で笑われるのはつらく、時には堂々と前を向けなくなるほどのプレッシャーを感じることもある。それでも耐えなければならないと自分に言い聞かせるたび、視線の先にふと浮かぶのは“あの惨劇を避けたい”という強い意志。
(もし私が何もしなければ、いつか本当にあの夢──占いで視えた未来が実現してしまうかもしれない。そんなの、絶対に嫌だわ)
エリーゼは拳をぎゅっと握り、胸の内に再び小さな炎を燃やす。
やがて廊下の奥にある踊り場へ差しかかったところで、彼女は大きく息をついた。周囲に気配はないようだ。人目をはばからず、一度深呼吸して心を落ち着ける。
「……決めた。こんなふうに塞ぎ込んでばかりいても変わらない。私が変わらなくちゃ」
小さく自分へ言い聞かせるように呟く。占いの力で未来を見通せたとしても、ただ逃げるだけでは破滅を避けられない。ならば、自分から一歩踏み出し、周囲との関わりを変えていくほかない。
今回、エリーゼが考えているのは「王宮で開かれる行事や社交の場に意図的に参加し、自分の評判を少しでも改善する」ことだった。
これまで“悪役令嬢”と呼ばれ、周囲から遠巻きにされてきたのは、彼女自身もできるだけ人前に出たがらなかったからでもある。占いの才能が“奇妙な術”と誤解されることを恐れ、地味にやり過ごそうとしてきた。しかし今や、その消極的な姿勢がかえって怪しまれ、悪い噂を加速させている。
(私が自ら行事に積極的に参加し、人々と話し合い、誤解を解けば、いつかは“悪役”のイメージも変わるかもしれない。それに、フィリップ殿下にもう一度きちんと……)
そこまで考えて、エリーゼはふと視線を落とす。フィリップとの間には、まだ多くの障壁がある。直接的な誤解や確執があるわけではないと信じたいが、お互いを取り巻く噂や立場が、二人の距離を遠ざけているのだ。
しかし、黙っているだけでは何も解決しない。エリーゼは「次に王宮で開かれる小規模な夕食会」に注目していた。それは王族や主要な貴族が参加する、比較的内輪の集まりだという。おそらくフィリップも顔を出すだろうし、レオンも来るかもしれない。むろん厄介な場面も多いだろうが、そこをうまく乗り切れれば評価が変わるチャンスにもなる。
もっとも、大きな問題がある。エリーゼ自身、貴族の華やかな夕食会に出席するのは嫌でも注目を浴びるということ。しかも「悪役令嬢」が公の場に出てきたとなれば、周囲からどんな批判や冷たい視線が降りかかるか分からない。
(それでも……やるしかない。殿下にも会えるかもしれないし、ここで踏みとどまっていては何も変わらない。私が“悪役令嬢”で終わりたくないなら、一歩踏み出さなくちゃ)
その強い思いが、エリーゼの中でじわじわと確固たる決意へと変わっていく。
夜が更ける前に、エリーゼは王宮の外へ出て、自らの馬車に乗り込んだ。窓の外には美しい夕焼けと街並みが広がっている。馬車が走り出すと、ホイールの音が軽やかに石畳を滑る。
(きちんとしたドレスを用意して、余計な噂を呼ばない程度に振る舞いを気を付けて……それに殿下と話す機会があれば、占いのことも変なふうに思われないようにしたい)
まるで戦場へ向かう前に作戦を練る軍師のように、エリーゼの頭はフル回転だった。彼女にとって、これほど大規模ではないにせよ“夕食会”という公式の場は、ひとつの勝負になりかねないのだ。
馬車はしばらくして侯爵家の屋敷へ到着した。使用人たちが出迎える中、エリーゼは硬い表情で屋敷に入り、父侯爵に挨拶を済ませる。
「父さま、私、近々開かれる夕食会に出席したいのです」
突然の申し出に侯爵は軽い驚きを見せるが、すぐに真摯な眼差しで娘を見返す。
「噂のことは聞いている。お前にとっても肩身の狭い状況だろう……。それでもいいのか?」
「はい。ここで動かずにいては何も変わらないと思うの。きっと多くの方が私を悪く言うでしょうけど、だからこそ、逃げてはいられない」
エリーゼがそう言う姿には、これまでにない力強さが滲んでいる。侯爵は娘の成長を感じつつも、心配そうにため息をついた。
「本当に、覚悟はできているんだな。……ならば、私からも改めて推薦状を出そう。誰しもがお前を招きたいわけではないかもしれないが、侯爵家の令嬢として堂々と参加すればいい」
「ありがとうございます、父さま」
こうしてエリーゼは、自分が目指す“運命を変える”ための具体的な行動指針を固めるに至った。今までは占いで見えた破滅の未来を恐れるあまり、一歩を踏み出せずにいた。しかし、もう後戻りはしないと心に誓う。
“自分が本当に望む未来”を掴むため、悪役令嬢という不名誉を抱えながらも、彼女は動き始めるのだ。
夜の静寂が屋敷を包む頃、エリーゼは自室の寝台へ腰を下ろし、明かりを落とした。透き通るような月明かりが窓から差し込むなかで、占い道具の水晶をちらりと見やる。
「占いだけに頼るのはもうやめる。自分の力で未来を切り開きたい」
小さな声でそう呟き、そっと手を伸ばして水晶に触れるが、今は占いをする気はない。ただ、かつてこの水晶で見えた絶望的なヴィジョンが、本当に覆せるのかどうか心許ない思いが胸をよぎる。
(殿下を怖れるあまり、今まで逃げ腰だった。だけど、違う形で関わりを持てば、もしかしてあの未来は変えられるのかもしれない。私だって、処刑される理由なんて思い当たらないし……!)
不安と決意がないまぜになって、エリーゼの心は落ち着かない。けれど、今は一歩ずつ自分を信じて行動するしかないのだ。
屋敷の廊下からは、侍女たちのかすかな足音が聞こえる。みんな、エリーゼがまとった陰険な噂のせいで心配をしているに違いない。彼女としても、これ以上迷惑をかけたくない思いがある。
(大丈夫、私はこれからちゃんと立ち回る。絶対に悪役令嬢なんてまやかしを捨ててみせるわ)
そして、王子フィリップが背負っている“冷酷王子”という評判にも真実があるのか、一度きちんと確かめたい。どこかで話し合えたら──この思いが通じるのかどうか。
瞼を閉じると、あの冷徹そうな瞳が脳裏に浮かぶ。夢の中で見た、血に染まる未来とはあまりにも対照的に、どこか寂しそうな印象をまとったまなざし。あれが真の姿なのか、分からない。
やがて深夜になり、エリーゼは寝台の上で浅い眠りに落ちる。眠りの淵では、新たな決意を固めた自分を暗示するように、淡い光と柔らかな風を感じるような錯覚があった。
──きっと、夕食会で殿下に再び話を持ちかけよう。いつかはっきり“あの未来”を変える方法を見つけなくてはならない。
その想いを抱いたまま、彼女の意識は少しずつ闇へ沈んでいく。悪夢に囚われず、まっすぐ希望を見据えられる夜が、いつか必ず訪れると信じて……。