【3:フィリップの焦燥】
王宮の中庭には、快晴の空のもとで初夏の柔らかな陽光が降り注いでいた。噴水から湧き上がる水音や、色とりどりの花壇を飛び交う小鳥たちのさえずりが、穏やかなひとときを演出する。だが、その美しい情景とは裏腹に、王子フィリップ・フォン・クラウゼルの胸中には暗い影がまとわりついていた。
──レオンが、エリーゼ・ハウフマンに接近している。
フィリップは最近になって耳にしたこの報せを、内心でやり場のない苛立ちとともに噛みしめる。いつもなら周囲の貴族や重臣たちが取り巻く執務室へ足を運ぶところを、今日はわざわざ人目の少ない中庭に足を運び、ひとり頭を冷やそうとしていた。
(なぜ、今さらレオンがエリーゼに……)
そう胸中で呟きながら、フィリップは庭園の隅の石造りのベンチに腰掛ける。黒髪に映える風、整った端正な横顔は“冷酷王子”と呼ばれるだけあって近寄りがたい雰囲気を放っているが、彼の瞳にはどこか苦悶の色が宿っていた。
レオンは社交的で、貴族からの評判も高い王子として知られている。フィリップとは性格も立ち位置も正反対であり、常に微妙な継承争いを繰り広げていると囁かれてきた。
そんなレオンが、突如としてエリーゼに好意を示すようになったのだ。下手をすれば「悪役令嬢」と噂される彼女を取り込み、あるいは利用しようとしているのかもしれない。それが真相だとすれば、フィリップはすぐにでも動きたい。だが──。
フィリップは思わず奥歯を噛みしめ、拳を固く握りしめた。
(公然とエリーゼを守るわけにもいかない……余計な誤解を招くだけだ)
貴族たちの間では、すでに「冷酷王子と悪役令嬢が奇妙な縁を持っている」という囁きがある。もしこのまま自分があからさまにエリーゼをかばえば、それこそレオン派閥だけでなく、王宮中の好奇の的になるだろう。フィリップにとっては、自分の威厳を貶めるだけでなく、かえってエリーゼの立場を追い詰めてしまう危険がある。
さらに、フィリップの胸を最も苛むのは、繰り返し見る夢の存在だった。そこではエリーゼが自分の剣先にかかり、血に染まる姿を目にしてしまう──。何度うなされて目が覚めても、その映像だけは鮮明に残り、彼の心を凍らせる。
もしあの夢が“予兆”だとしたら、自分こそがエリーゼの破滅の原因となるかもしれない。それを思うたびに胸が苦しくなり、彼女を遠ざけたい気持ちと守りたい衝動が拮抗して、どうにも身動きが取れなくなってしまうのだ。
「殿下……」
遠くから声がかかり、フィリップは思考を切り上げて顔を上げる。声の主は、彼に付き従う忠実な従者のひとりだった。
「……何だ」
フィリップが短く応じると、従者は遠慮がちに口を開く。
「先ほどの情報ですが、レオン殿下はまた王宮の図書室に通っている様子です。しかも、侯爵令嬢にも声をかけていらっしゃるとか……噂を総合するに、彼女に興味を持たれたのは間違いないかと」
「そうか」
言葉少なに返すが、フィリップの声にはわずかに苛立ちが滲む。従者はそんな気配を察して、さらに慎重に言葉を続ける。
「おそらく殿下への当てつけ、または彼女を利用する狙いがあるのだと思われます。なにしろ、あのレオン殿下は多くの貴族に慕われる反面、裏ではしたたかに派閥を広げようとしているという話も……。彼女が“悪役令嬢”と呼ばれているのを逆手に取り、殿下を牽制しようとしているのかもしれません」
聞けば聞くほど胸の奥が苛立ちでざわつく。それでも表情ひとつ変えずに、フィリップは低い声で問う。
「その女に何か危険が及んでいるというわけではないのだろうな」
従者は言いよどみながらも、「今のところ、そういった具体的な動きは見受けられません」と答える。
「ただ、噂がますます彼女を苦しめることになるのは間違いないでしょう。毒を盛る悪役令嬢だとか、今回も王宮で何か企んでいるだとか、根拠のない中傷が絶えませんから……」
フィリップはわずかに眉を寄せる。王宮という場は、権力争いや派閥の利害が渦巻き、誰かを陥れるための噂など日常茶飯事だ。とはいえ、あまりに行き過ぎれば当人の身を危険にさらす。
無論、その当人というのがエリーゼだ。わざわざ守る理由などないはずなのに、自分の胸がこんなにも騒ぐのはなぜなのか……。答えは決して口にはできないが、彼の心中には“守りたい”という甘い感情が芽生えているのは否定できなかった。
「……放っておけ」
最終的にフィリップの口から出た言葉は、あまりにも冷たいものだった。従者は目を丸くしつつも、彼の本心を察しているがゆえに、どう返答すればいいか迷う。
「ですが殿下、もしレオン殿下が本格的に彼女を手中に収めようと画策しているのだとすれば……」
「放っておけ、と言った」
フィリップは敢えて淡白に繰り返す。冷酷王子としての仮面を崩さずにいるためにも、“自分がエリーゼに執着している”と勘付かれたくはない。だから、こうやって無関心を装うしかないのだ。
しかし内心では、ぐるぐると不安と焦燥が交錯し、胸が苦しくなるのを止められない。
(レオンにかき乱されるくらいなら、いっそ自分が引き裂けばいいのか? いや、それでは結局、悪夢に近づくだけ……)
そんな思いを押し殺すように、フィリップは立ち上がり、従者に向けて言葉を投げる。
「行くぞ。執務が山積みだったはずだ。王位継承争いに関わる重要な案件を疎かにするわけにはいかない」
「はっ……」
従者は軽く頭を下げ、フィリップの後に続く。だが、ちらりと彼の横顔を盗み見ると、そこにはどこかやりきれない表情が一瞬だけ浮かんでいた。
周囲からは“冷酷王子”と恐れられ、感情を外へ出さない人物だと思われている。しかし従者は知っている。フィリップは決して何も感じないわけではない。むしろ、誰よりも深く苦しみを抱え、その内に秘めているだけなのだということを──。
◆
午後、フィリップは王宮内の政務を担当する執務室で机に向かっていた。革張りの大きな椅子に腰掛け、文書を確認する姿は、まさに王族としての威厳を体現している。
だが、しばらくすると集中力が途切れ、ペンを置いてこめかみを押さえる。頭の中にはレオンがエリーゼに近づく光景がちらつき、心拍数が上がってしまうのを自覚していた。
(なぜ自分がこんなにも取り乱している? 彼女は“悪役令嬢”と呼ばれ、己にとっては不都合な存在であるはずなのに……)
そう考えても、心の奥にある違和感が拭えない。
──あの夢の中で、エリーゼを自らの手で処刑してしまう自分。どれほど冷酷に振る舞おうとしても、そんな行為は本当に望んでいない。
かといって、夢を回避するために彼女と接触すれば、噂が噂を呼び、危険にさらされるかもしれない。フィリップが持つ立場の重圧は、それほど厳しい。
そんな煩悶が堂々巡りをしていると、部屋の扉がノックされ、顔見知りの貴族官僚が入ってくる。
「殿下、失礼いたします。先ほど、レオン殿下がお部屋へ向かわれましたが、ご不在のようでしたので……」
「レオンが? ふん、相変わらず勝手に動くな」
わざわざフィリップを探しているというのは、何か企みがあると考えても不思議はない。ましてや、エリーゼと絡む話題だったら厄介だが、ここであからさまに拒めば、それもまた隙を与えることになるかもしれない。
「今は手が離せぬ。必要ならここへ通せばいい」
フィリップは書類を片付けもせずにそっけなく言う。官僚は「かしこまりました」と一礼し、そそくさと出ていく。
この一瞬のやり取りだけでも、フィリップの胸中にはさらなる不快感が募っていく。レオンと顔を合わせれば、エリーゼの話題が出る可能性は高い。果たして自分はどう応じるべきなのか。冷静を装うだけで乗り切れるだろうか……。
結局、レオンは別の用件で執務室を訪れることなく、王宮の別の棟で貴族と談笑していたらしいという報告を後で受けた。フィリップは安堵とも苛立ちともつかない微妙な感情を抱きながら、執務室での作業を続ける。
頭を整理しようにも、どこかむず痒いようなイライラが襲ってくる。
夕刻が近づくと、フィリップは部下と最低限の打ち合わせを済ませ、外の空気を求めて廊下を歩いた。王宮の広い回廊は、深いオレンジ色の夕日で染まり、石造りの壁に長い影を落としている。
そこにふと、彼が信頼を寄せる従者のひとりが姿を見せ、低い声で耳打ちした。
「殿下……実は、あの侯爵令嬢に関する新しい噂が広まっていまして。どうやらレオン殿下が彼女をあちこちで擁護するような発言をされているそうです。『あの娘が悪いわけない』とか『彼女の占いには大した力がある』など……」
フィリップの眉がわずかに動く。その言い方では、あたかもレオンがエリーゼを庇い、恩を売ろうとしているように思える。
(あいつ……。本当に彼女を取り込むつもりなのか)
胸の奥に剣先で引き裂かれるような痛みを感じる。なぜここまで嫉妬めいた感情が湧き上がるのか、自分でも理解不能だ。
だが、エリーゼがあの狡猾なレオンに近づけば近づくほど、彼女自身が利用される危険性が高まるのは間違いない。あるいは、王宮の陰謀に巻き込まれ、破滅へ進む可能性も否定できない。
フィリップは廊下の壁をわずかに拳で叩き、低く唸るような声を漏らす。
「ちっ……放っておけと言ったが、あまり放置していると本当にまずいかもしれんな」
従者は驚いたように顔を上げる。
「殿下、それはつまり……?」
「……レオンが何を企んでいるか、詳細を探れ。エリーゼへの接触がどの段階まで進んでいるのかも、できる限り早く報告させろ」
フィリップの声はいつになく低いが、その奥には抑えきれない焦りがにじんでいる。従者は「はっ!」と大きく返事をし、すぐさま動き出す。
やがて従者が去り、薄暗く染まる廊下にフィリップひとりが立ち尽くすと、長く伸びた影がいっそう寂しげに揺れて見えた。
遠くで夕鐘が鳴り、王宮の一日の終わりを告げるように静かに響く。
(守りたい。けれど、その結果があの悪夢を現実にしてしまう可能性は……?)
フィリップの頭の中で、再びあの不吉な映像がちらつく。暗い石壁、冷たい剣先、処刑されるエリーゼ。そして、その剣を握っているのは──自分。
息が詰まりそうになるたびに、彼は頭を振ってそのビジョンを振り払う。
“救いたい”という言葉を口に出すことさえ憚られる彼は、何をどうすれば最悪の未来を避けられるのか、手探りの状態で模索し続けている。
そんな中で、レオンの介入はフィリップの焦燥にさらに拍車をかける。
──もし、彼女がレオンの策に取り込まれてしまったら?
──もし、これ以上、周囲の噂に傷ついて彼女が王宮を去ってしまったら?
(レオンに奪われるのは、嫌だ……しかし、俺が関われば彼女を破滅させてしまうかもしれない……)
もどかしさだけが積み重なり、フィリップの胸は締めつけられる。周囲からは“冷酷”と怖れられ、どんな試練も怯まずに乗り越える王子と称えられているが、本当のところはまだ何もつかめない無力感に苛まれていた。
こうして、レオンへの警戒心と、エリーゼを巡る未来の重圧に苦しめられながら、フィリップは板挟みの状態を抜け出せずにいる。彼女を直接助けたくとも助けられない。かといって無視していれば、あの悪夢が現実になりかねない……。
視線の先には、夕暮れに染まる王宮の中庭。深まる陰に飲み込まれそうな鮮やかな花々が、今のエリーゼを暗示しているかのようにも映った。
──花が散る前に、手を差し伸べることはできるのだろうか。
フィリップの胸に渦巻く焦燥は、決して小さくなることはなく、その夜もまた彼を悪夢へと誘うかもしれない。何の打開策も持たずに、ただ時の流れを見つめるしかないという、その苦しみを抱き続けながら……。