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【1:夜の書斎──運命の占い】

 侯爵家の広々とした廊下には、深い夜の静寂が漂っていた。窓の外は漆黒の闇に包まれ、星々だけがかすかに瞬いている。いまや人の気配が少ない屋敷のなかで、ひときわ明かりがともる小さな一室があった。エリーゼ・ハウフマンは、その奥まった書斎に篭り、息を詰めるように机へ向かっている。


 その書斎には、エリーゼが日頃から熱心に研究を続けている占星術や、古の予言にまつわる文献が積み重なり、壁には淡い月明かりに照らされた占星盤の図が掲げられていた。大理石の机の上には分厚い本や数枚のカード、占星術に用いる星図などが無造作に広がっている。まるで異世界の研究室のような光景だったが、エリーゼ自身はこの空間に深い愛着を持っていた。


 ──とはいえ、その夜ばかりはいつになく落ち着かない雰囲気が漂っていた。エリーゼの瞳はいつもより暗く翳り、その唇は緊張からか少し血の気を失っている。


「どうして、こんなに胸騒ぎがするの……?」


 彼女は震える声で呟いた。昨晩あたりから、理由のない不安がずっと心の中でざわめいていたのだ。こういう時こそと、得意の占いで“何が起こるのか”を確かめたいという思いに駆られる。


 深夜、皆が寝静まった時刻。エリーゼは使用人に悟られぬよう注意深く書斎へ足を運び、書棚から古びた水晶と数枚のカードを取り出した。彼女は先祖代々伝わる占いの才能を受け継ぎ、ずば抜けた感受性を持っている。ともすれば、未来の『断片』を視ることができるが、それゆえに見てしまった恐ろしい光景に何度も苦しんできた経験がある。


 机の中央に、水晶をそっと置く。水晶の中にはわずかに白い靄のようなものが漂っているが、占いが始まるとそれが光を帯びる。エリーゼは丁寧に息を整えつつ、カードを並べ始めた。それぞれのカードには月や星、神秘的な文様が記され、見慣れたものであるはずなのに、今夜はどこか凶兆を孕んでいるようにも感じる。


「どうか、優しい未来を示してちょうだい」


 胸の奥がドクンドクンと痛いくらいに脈打つ。エリーゼは深呼吸をして精神統一し、口元で低い呪文を唱えはじめた。


 と、次の瞬間、水晶の表面がぼんやりと淡い光った。カードをかすかに揺らす風が生まれ、エリーゼの金色の髪を微かに撫でた。彼女がまぶたを閉じ、全神経を研ぎ澄ませると、水晶に映る影が徐々に形をとっていく。


「……何……これ……?」


 まるで闇の中に投じられた光の破片が集まるように、エリーゼの瞳の奥へ不吉な映像が焼き付いていく。


 薄暗い石造りの部屋だった。


 重い鎖の音が耳を打ち、恐怖に震える自分の姿が見える。──どうして? 自分はなぜこんな場所に囚われているのか。視界の端では、銀色の剣が鈍く光り、己の首に向けて振りかざされようとしている。


 剣を握るのは──それは冷たい眼差しの王子だった。黒髪を持つ端正な顔立ち。しかし、まるで氷の仮面を被ったかのような冷酷な表情で、エリーゼを見下ろしている。


 フィリップ王子だ。王国の継承権を巡り、あらゆる噂が絶えない、あの“冷酷王子”と呼ばれる人物である。


 エリーゼは占いの中で、その彼が容赦なく自分の首に剣を押し当てる様を見せつけられた。首筋に剣先の冷たい感触まで伝わってくるかのような生々しさ。逃げたいのに身体が動かず、乾いた咽喉からうめき声も出ない……。


「や、やめて……」


 心の中で必死にそう叫びかけた瞬間、エリーゼの視界はふいに真っ白に塗り潰される。そして、はっと息を呑むようにして現実に引き戻された。


 気がつくと、水晶からはすっかり光が消え、カードは散乱し、エリーゼは椅子に崩れ落ちるように倒れかかっている。肩で荒い息をしながら、その頬からは冷や汗が一筋垂れ落ちた。


「私が……フィリップ殿下に……殺される……?」


 彼女は震え声で言い、一瞬それが夢か何かの空想かと疑いたくなった。しかし、エリーゼはよく知っていた。自身の“未来視”は、滅多なことでは誤りを起こさない。見えたビジョンは、相当に高い確率で実際に起こり得るということを。


 今までにも不吉な出来事をこうして占い、最悪の事態を避ける手を打ってきたのが彼女の人生だった。けれど、自分の命が王子によって奪われる未来とは、あまりにも理不尽だと思った。


「こんなの……信じたくない……」


 でも、信じたくないからこそ確かめなくてはならない。彼女はこぼれ落ちそうになったカードや星図を掻き集め、必死に何か手がかりを探そうとする。しかし、その指先は震え、視界は霞んでいた。


 ──フィリップ殿下。


 類まれな、冷酷王子。


 王都に暮らす誰もが「あの方は感情を外に出さない」「冷たく恐ろしい人だ」と噂している。会話をまともに続けられないほどの威圧感を持つ、という話はエリーゼも耳にしたことがある。


「私が、そんな方に恨みを買うようなことを? 会ったことはあるけれど、きちんと話をした記憶なんて……」


 思い当たる節がまるで見つからない。会ったことがあると言っても、それは幼い頃、ちらりと王子の姿を遠巻きに見かけたことがある程度だ。


 エリーゼは荒い呼吸を整えようと深呼吸するが、胸の痛みはおさまらない。


「悪役令嬢として……殿下に殺される……そんな未来、嫌よ!」


 悲鳴に似た声が書斎の静寂に溶ける。とにかくこのビジョンを否定したくて、彼女は水晶を見つめ直す。しかし、先ほどまで光を帯びていたそれは、今は沈黙を保ったままだった。


 再び占おうとしても、強いショックのせいで集中できず、胸が締め付けられる思いがする。


「落ち着かなきゃ……」


 エリーゼは自分にそう言い聞かせ、椅子の背もたれにもたれかかる。


 いつもなら多少の不安要素が占いで出てきても、冷静に対処の手段を考えられるはずなのに、今回は自分の命の危機。しかも、相手は王子。想像をはるかに超える絶望感が彼女を呑み込んでいた。


「運命を……変えられるなら、何でもする……。逃げたり、黙って処刑されるなんて絶対に嫌……」


 唇を噛み、涙がにじむ視界の奥で、エリーゼは小さく拳を握りしめた。占いで見えた運命に抗う決意は、ここで固められようとしていた。


 それでも心はざわつくばかりだ。


「なぜ私が、“悪役令嬢”に……?」


 その疑問が何よりも彼女を苦しめていた。言葉としての悪役令嬢は、もはや一般的に使われているので、それが意味するところはわかる。幾重にも重なった複雑な背景を持つ言葉であることも。


 しかし、どれほどの悪事を働けば、王子に処刑されるまでになるのだろう。まるで筋が通らない未来に思えるが、現実に視えてしまった以上は無視できない。


 もはや夜明けが近く、東の空が薄ぼんやりと明るむ気配を感じながら、エリーゼは机に突っ伏した。心臓の鼓動は高鳴る一方で、一睡もできない夜を迎えてしまったのだ。


 この占いをきっかけに、悪役令嬢として殺される自分を見てしまったエリーゼの運命は、大きく動き始める。


 しかし、彼女はまだ知らない。王宮にいる“冷酷王子”フィリップもまた、夜の闇に囚われ、似たような悪夢に苛まれていることを。


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