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【1:新しい動揺】

 王宮の大理石の床は、朝の陽光を受けて鈍い輝きを放っていた。静かな廊下の奥へと続く重厚な扉の向こうに、巨大な図書室が広がっている。貴重な文献や歴史書、さらに過去に記された数多の予言書までもが収蔵されており、“王家の知識の宝庫”とも呼ばれる場所だ。


 エリーゼ・ハウフマンは、その扉の手前でほんの少し躊躇していた。


「……ここに来るのは、久しぶり」


 自分の胸にそっと言い聞かせるように呟く。王都の侯爵令嬢として何度も入ったことがあるはずなのに、今はどうしても緊張感が拭えない。


 先日の午餐会で、彼女が噂される“悪役令嬢”という存在であることがより明確に周囲に伝わってしまった。さらに、冷酷王子と呼ばれるフィリップ殿下との間に奇妙な因縁があるらしいと勘繰られ、エリーゼの評判はますます悪い方向へ回り始めている。


 ──そんな風評を押してまで、彼女はこの図書室に足を運ぶ必要があった。自分の運命を変えるために、もう占いの力だけでは足りない。直接王宮の情報にあたり、“なぜ自分が悪役令嬢として処刑される未来が視えてしまったのか”の手がかりを探したいという思いに駆られていたからだ。


 扉を押して静かに中へ進むと、想像以上の静寂が迎えてくれた。高い天井まで続く書棚には、古文書や年代物の写本などがぎっしり並び、独特の紙の匂いが漂う。


 エリーゼは薄手の手袋を外し、指先で書棚を撫でながら奥の方へゆっくりと歩みを進める。


(これまで一度も目を通していない予言書や、王家の秘密について書かれた年代記があるかもしれない。もし少しでも未来を回避するヒントが見つかれば……)


 心の中は焦燥に似た期待でいっぱいだった。同時に、「王宮の人々から怪しいと思われたくない」という警戒心もある。だからこそ、使用人に名目上“歴史研究”と言い含めて調べ物をしに来た。表立って「自分の未来を変えたいので予言を探します」などと言えるはずがない。


 奥の書架は薄暗く、一歩足を踏み入れれば天井まで積み上がる古い背表紙が目に飛び込む。そこに記された文字のかすれ具合からも、この場所がいかに歴史を抱え込んでいるか窺い知れた。埃を立てないよう気を遣いながら、一冊、また一冊と背表紙を確認する。


 と、そのとき、ふと棚の向こうから人影が見えた。何者かが背の高い梯子に乗り、本を抜き取ろうとしているようだ。思わずエリーゼは足を止める。こんな朝早くに、同じように熱心に本を探しに来る人物など、そう多くはないだろう。


 息を飲んで様子を窺うと、その影の持ち主は漆黒の髪を持ち、鋭い横顔をこちらに見せた。


(……フィリップ殿下?)


 瞬間的にエリーゼの胸が高鳴る。冷酷王子と恐れられるあの人が、こんなにも地味な調べ物の場にいるなんて予想していなかった。


 一瞬逃げ出したい衝動に駆られるが、もう少しだけ近づかなければ通路を通れそうにない。ましてや彼女の目的も、この文献を調べることにある。後退する選択肢はない。エリーゼはほんの少し緊張を噛みしめながら、歩みを再開する。


 聞こえてくるのは、梯子のわずかな軋む音と、フィリップがページを捲るときに生じる紙の擦れた音だけ。


 振り返った彼と視線が交わるまで、ほんの数歩の距離だった。


「……やあ」


 最初に声を発したのはフィリップだった。もっと冷たく睨まれるかと思っていたエリーゼにとって、その一言は意外に柔らかい響きを帯びているように感じられた。


 しかし彼の瞳には相変わらず仄暗い影が宿っていて、どこか心ここにあらずといった空気を漂わせている。


「殿下……失礼いたします。ここでお会いするとは……」


 言葉がうまく続かない。エリーゼの胸の中には、先日の午餐会での出来事が鮮明に残っていたからだ。王族の前で酔って騒いだらしい公爵令息を占ったり、視線を浴びたりしたあの一日。あれ以来、“悪役令嬢”の評判がさらに広まりはじめ、どうしようもない動揺を感じる日々が続いている。


 一方でフィリップも、その午餐会を境にエリーゼのことを気にかけている節があると噂されていた。しかし、噂以上に彼本人が何を思っているのかを知る手立てはない。フィリップの胸中を測れぬまま、こうして突然の再会を果たしてしまったのだ。


「何かを調べに?」


 フィリップが梯子からゆっくり降りながら問いかける。


「ええ、少々……古い伝承や記録を読み返してみたくて」


 言葉を選びつつエリーゼが答えると、彼はそれ以上突っ込んできそうには見えなかった。


「そうか……邪魔をしたな」


 短くそう告げると、本を脇に抱えて視線をそらす。


 エリーゼのほうも何と返せばいいのか迷い、結局、「いえ……こちらこそ……」と小さく頭を下げるしかなかった。


 わずかな気まずさが二人の間を支配する。


 本来であればここで「どんな本を探していらっしゃるのですか」だとか「先日の午餐会ではどうも……」と話を続けられるのかもしれない。だが、エリーゼとフィリップは“悪役令嬢”と“冷酷王子”という、それぞれ重たい異名を負っている立場だ。些細な会話ひとつが噂になる可能性は高いし、それを想像するだけでも身が竦む。


 結果的に、二人はほんの一瞬視線を交わしただけで、通路をすれ違う。かすかに衣の裾同士が触れ合いそうになるが、どちらも気づかないふりをした。


「……失礼します」


 最後にごく短い会釈を交わし、エリーゼは棚の奥へ、フィリップは反対の廊下へと向かった。


 静かな図書室に戻ったとたん、エリーゼの耳の奥で自分の心臓が大きく跳ねる音が響く。


(逃げるように別れてしまった……けれど、本当は話をしてみたかった)


 フィリップが一体何を調べているのか、何を気にしているのか。それさえ分かれば、あの“処刑の未来”を回避するヒントになるかもしれない。


 けれどいまの状態では、まともな会話すらままならない。彼がこちらをどう思っているのかさえ不明なのだ。


 エリーゼは唇を噛みしめ、集中するように目を伏せる。もし王子とのあいだに誤解があるのなら、直接話す機会を設けたい。だが下手に近づいて“悪役令嬢の策略だ”と揶揄されるのも恐ろしい。


「……少しでも情報を集めなくては」


 そう決意すると、彼女は目当ての古い予言書を手に取り、机に運んでページをめくりはじめた。


 だが落ち着いて読み進めようとするたびに、つい先ほどのフィリップとのやり取りが頭に浮かぶ。ほんの短い会釈と、無言の視線だけ。彼の横顔はどこか憂いを帯びているようにも見えた。


(何を考えていたの……フィリップ殿下……)


 気がかりが募るばかりで、本の文字がなかなか頭に入ってこない。自身に喝を入れるように深呼吸をしてから、ようやく何とかページの内容に集中し始める。


 そこには、王家の系譜や、代々伝わる古代の占い儀式について書かれた記述が断片的に並んでいた。魔術的な要素や呪術のたぐいも混在しており、読み解くのは容易ではない。だが、もしこのなかに“王族と運命を結ぶ存在”や“告げられし破滅と再生”の示唆があるのなら、見逃すわけにはいかない。


 ところが、机に張り付いて必死に文献を読み漁るエリーゼの背後で、ひそひそとした声が聞こえてくる。


「ねえ、あれって侯爵令嬢でしょう? 最近、王宮でまた怪しい動きをしてるらしいわよ」


「占いとか不気味な儀式に詳しいんだって。悪役令嬢にピッタリじゃない?」


 まるで風に乗って漂ってくるような小声。同じ図書室を利用している若い貴族たちが、エリーゼを見て囁いているのが分かった。


 肩が強張り、うつむきかげんになってしまう。こうした陰口は、幼い頃からたびたび耳にしてきたが、最近はその度合いが増しているように感じる。


(こんなところにまで来ているなんて……)


 心の奥で虚しさが募る。自分はただ運命を変えたいだけなのに、いつしか“王宮で怪しい研究をする悪役令嬢”というレッテルを貼られてしまった。


 同時に、噂の一部はフィリップの耳にも届いているらしいという話を、エリーゼは薄々感じ取っていた。


「殿下に取り入ろうとしているらしい」「悪い占いで誰かを陥れるつもりだ」などの根拠のない憶測が駆け巡っており、彼女がフィリップと不穏な関係にあるとまで囁かれているのだ。


「……何の証拠もないのに……」


 小さく呟いてページをめくるが、集中が削がれる。視線の端には、こちらを値踏みするように眺める他の貴族の姿がちらついている。


 エリーゼは思わず書物を閉じて立ち上がった。これ以上、ここに留まれば落ち着いて調べ物ができそうにない。


 何より、ついさきほどフィリップとぎこちなく視線を交わしただけで、背中に嫌な汗がにじむ。もう少し心を落ち着けるために場所を移したほうが良さそうだった。


 そんなエリーゼの姿を、図書室を出て少し離れた場所から見つめる青年がいた。彼は王宮の警護に携わる一部の騎士たちと挨拶を交わしながら、どこか心ここにあらずといった表情をしている。


 ──フィリップ・フォン・クラウゼル。


 遠巻きにエリーゼの後ろ姿を見つめ、微かな苛立ちを胸に覚えていた。


 先ほどすれ違ったとき、何か話そうと声をかけようとした矢先、言葉が喉に絡まるように出てこなかった。彼女の周囲に漂う硬い空気、そして彼女を揶揄するような小声の噂……。


 “冷酷王子”としての立場を崩さずに、どう彼女と向き合えばいいのか分からない。下手にかばっても「殿下と悪役令嬢が組んでいる」などと陰口を叩かれかねない。


(あのまま、話しかけられたら、どんな会話になったのだろうか)


 フィリップは心の中で自問するが、自分でも答えを持ち合わせていない。だからこそ、図書室でエリーゼを見かけても、ああして退いてしまうしかなかったのだ。


 フィリップの従者もまた、そんな主の様子をいぶかしんでいる。


「殿下、あの侯爵令嬢が調べ物をしているようですが……宮廷内で何の噂が広がっているか、ご存じですよね?」


「……知っている。そのせいで面倒が増えるかもしれない」


 歯切れ悪く応じながら、フィリップの口調は淡白だ。だが瞳の奥には微妙な焦燥感が閃いているようにも見える。


 誰しもが“冷酷王子”と呼ぶ彼だが、最近はある夢に苛まれ続け、心が落ち着かない日々を過ごしていた。そこに必ず現れるのは──エリーゼの苦しむ姿。彼女がまるでこの王宮の底で処刑されるかのような暗い悪夢だった。


 それを思い出すだけで、言いようのない胸の疼きに襲われる。いっそ彼女を遠ざけたほうがいいのかもしれないが、不思議と離れれば離れるほど、その夢がより鮮明になってしまう気がした。


 エリーゼは図書室を出る際、ほんの少しだけ振り返った。どこかにフィリップの姿を感じ取ったのかもしれないが、人混みの向こうに彼の影は見当たらない。


 周囲の貴族たちの冷たい視線を背中に感じながら、急ぎ足で石造りの廊下を進む。そこに満ちているのは噂という名の暗い空気。まるで薄暗い霧が漂っているかのように、エリーゼの呼吸を塞いでくる。


(私が王宮にいるだけで、こんなにも周囲がざわつくなんて……)


 内心の苦しさを押し殺しながら、屋敷に戻る馬車を呼ぼうか思案する。だが、ここで退いてしまえば、何も分からずじまい。


「もっと、ちゃんと手がかりを得たいのに……」


 そんな思いを抱えたまま、結局その日は不完全燃焼のまま王宮を後にすることになる。


 だが、その後もエリーゼの“怪しい調査”や“王子に取り入ろうとしている”といった噂はじわじわと拡散していき、彼女を追い詰める。


 フィリップのもとには「侯爵令嬢が新たな画策をしているらしい」という誤解まじりの報告が入る一方、エリーゼはエリーゼで「殿下はやはり私を嫌っているのでは」という気持ちが拭えない。


 互いに一言でも会話を交わし合えれば、誤解や懸念を少しは取り除けるかもしれない。それをしないまま、二人の距離はどこか宙ぶらりんの状態で、王宮中に不安と疑惑の空気だけが広がっていく。


(冷酷王子と悪役令嬢……私たちは、こうしていつまでも対話できないままでいいの?)

 エリーゼは屋敷への帰り道、ぐらぐらと揺れる馬車の座席に身を沈めながら、窓の外の景色を見るともなく見つめる。


 いつしか瞼の裏には、図書室で出会ったフィリップの横顔が思い浮かんでいた。彼はどんな思いを胸に、古い文献を漁っていたのだろうか。自分のように何かの予言を求めて?


 あるいは、もっと別の何かを探し求めているのか……。


 そうした疑問を抱えつつ、馬車はしだいに侯爵家の領地へ近づいていく。


 すでに夕暮れの空が茜色に染まり始めている。深い陰謀の気配はまだ姿をはっきりとは見せないが、エリーゼの胸には“嫌な予兆”がじわりと広がっていくのを感じた。


 運命を変えたいと願いつつも、何もできずに空回りするばかり。いつしか時間だけが過ぎ、彼女は気づかぬうちに、さらなる渦中へと巻き込まれていく。


 これは、新しい動揺の始まりに過ぎなかった。


 今はまだ誰も、その行く末を知らない。エリーゼが王宮の廊下で噂に晒され、フィリップが自らの夢に苛まれながらも口を閉ざすまま、互いの不安が増幅していく。


 そんな時間ばかりが、過ぎていく。


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